螺旋を辿りて 15




 部屋へと戻り、もそもそと布団に潜り込んで、化野は目を瞑って考えた。随分恰好のいいことを言ったもんだが、ギンコのことを知りたくて堪らない。憧れだとか一目惚れだとか、そんなレベルではありえない溺れようだというのに、相手のことがちっとも判らないで、心がどうにかなりそうだった。

 これでもう少し具合でも悪ければ、考える余裕もないのだろうが、生憎、体調はどんどん良くなっている。

 潜らせていた頭を布団から出し、ついで片腕を出して傍らのサイドボードの抽斗を引っ張る。中が見えないままの手探りでも、使い慣れたノートとボールペンに指が触れた。

 …ん、と…。まず…。

 枕を退けて、化野はノートの一頁に、箇条書きに文字を記す。

『俺の旧姓を知っている』
『相変わらずだ、と何度も懐かしそうに』
『名を呼ばれると、何故か懐かしくて嬉しい』
『思い出せないが、医学生のころの友人かと』
『俺を好きだと言うが、昔、友人だった頃に惚れられた?』

 ここまでは、ギンコを抱く前までの化野の考えだ。そして、隣のページへペンを移し、悩みながらまた文字を綴る。

『抱きながら、知らない間に呼んだ「ギンコ」の名』
『思い出した? 俺は記憶を失くしていたということか?』
『夢で見ているのは、取り戻す俺の記憶?』

 化野は今度は、夢の中の情景を思い出しながらペンを滑らせる。

『古い時代の風景。海の見える日本家屋』
『着慣れたように着物を着ている俺と似た男』
『視野は時にヒトゴトのようでもあり』
『時に自分が、その男本人のようでもあり』

 有り得ないことだ。だって見るからに古い時代の風景。時の流れた重みを感じる建物。あんなふうに、慣れた風情で着物で過ごした過去なんか、化野にはないのだから。

 なのに、その夢の中に「ギンコ」が出てくると、ギンコの傍にいる俺に似た男が、自分自身のようにも思えてくるのだ。俺は今も昔も、どこなのかいつなのか判らない、夢で見せられる世界でも、ギンコを愛しているのだろう。

 ならば、その夢は一体なんなのか。

『思い出す』
『記憶を取り戻す』

 ギンコが何度も言うその言い方は、普通なら彼自身の過去のことを指してはいないか? いくら似ていても、別の人間のことならば、そうは言うまい。 

『看病なら、何度も、してもらったしな。こういうふうな山菜の粥も、昔…』

『俺が好きなのはお前だけ。今も、これから先も、ずうっとずうっと昔もな』

 昔。…昔とは、いつのことだろう。確かに今、化野の記憶には無いことを、ギンコは言う。生まれてから今まで、記憶喪失になったことなど無いのに、ギンコは彼に、昔、看病されたと言った。それこそ、そんなことが本当にあったのなら、忘れてしまっているなどと、有り得ないのだ。

 あぁ、駄目だ。判らない…。

 と、その時、目の奥がズキリ、と痛んだ。片目ばかりが酷く悪くて、疲れやすく、徹夜などするとよく痛むのだが、今日のこれはいつもの痛みよりも数倍酷い。う、と呻いて蹲り、ベッドの上で身を捩ると、ぱさ、と床にノートが落ちた。

 そういえば、夢の中の俺は、片眼鏡をしているな…。

 苦しみながらそんなことを思った時、額に、つう…と何か熱いものの流れる感触が。汗? いいや違う。そう…これは、今朝目覚める直前に見ていた夢の感触。車に、はねられて…額に血を流し…。遠ざかる意識で俺は…俺は…。あぁ、そうだ、言っていたのだ。愛する相手に、もう一度会いたくて。

『また転生して忘れても、ちゃんとお前を思い出して、愛するよ。
        探してくれ、ギンコ。お前に出会うため、来世に生まれる俺を』

 転…生…。

 その時、とうとう謎の大半が、解けたような気がした。痛む頭を押さえまま、それでも何とか顔を上げて、化野は床に落ちたノートを拾おうとする。目の前に、そっとノートが差し出され、それを差し出しているギンコは、心配そうな、少し困ったような顔をしているのだった。







09/03/17




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         16




「何か、判りそうか…?」

 人ごとのように、ギンコは微かに笑って言う。その笑みは淡くて綺麗で、見ているとドキドキした。『転生』という言葉を、心で繰り返しながら、化野はじっとギンコを見つめる。言葉にして伝えてみようか、と、そう思う。ギンコはなんて言うだろう。それが当たっていたら、今こそ、真実をすべて、教えてくれるのだろうか。

「俺は、て…」
「ん?」
「いや…手が、少し冷えた。書き物をしていたからかな」
「…あぁ、本当だな」

 ギンコがベッドの脇に座って、化野の片手に手を重ねてくる。手の甲を撫で、指の間に指を滑り込ませながら、銀の睫毛の瞼を、そっと伏目がちにする。哀しそうに見える、酷く不安そうに見える、その伏せた瞼の隙間から見える美しい瞳。
 見ていたら、言えなくなった。哀しい思いをさせてしまいそうな気がした。知って欲しくは無いのかもしれない。言わないのも、何か辛いことだからなのか。それとも、俺を気遣ってのことなのかも。

「ギンコ、なぁ、お前は、今、俺と出会えて幸せか? 俺の過去のこととか、知りたいとは思わないか?」
「…過去か。いや、お前の過去は…」

 言いかけて黙り、ギンコは微かに後ろを振り向いた。無意識に何かを見ようとし、その何かが、ある筈の場所から消えていると知って、ゆっくりと、もう一度化野の方を見る。

「あそこにあった写真は?」
「え? あぁ、片付けたんだ」
「何故」
「別に、理由は…」

 誤魔化そうとして、化野は思い直す。ギンコが絡めてきた指を、自分の手を握り締めることでしっかりと掴んで、彼は言ったのだ。

「聞きたくなければ、止めてくれ…。あの写真は病気で死んだ俺の妻だが、彼女との結婚は、好きだったからした訳じゃなかった。いや、好きだったが、その気持ちが恋愛感情だったことは、一度もなくてな。だから、本当に心から愛するお前が傍にいるのに、飾っておくのは、俺自身が嫌なんだ。それだけだよ、ギンコ」
「…出かけるとき、無意識に眺めて、撫でて行くほどなのに?」

 今、こうして出会えたそれ以前の過去など、気にしない、と、そう言おうとしたギンコの言葉は、告げていたら嘘になっていただろう。それを聞いて化野は、少し場違いに嬉しそうな顔になってしまう。

「妻は、俺と結婚する前に、婚約者だった人を病気で亡くしていたから、体調が悪いまま仕事に出ようとする俺を、いつも酷く気に掛けていたんだ。だから、昨日の朝のように、頭痛とかをおして出掛ける時だけは、よく彼女を思い出す。判ってる、無理はしないよ、って、言って出かけてた名残だ」

 気になったか?と、化野は小声で言う。そうしてギンコの片手を引っ張って、その唇にキスをした。

「でも、これからは、妻にじゃなくて、お前にそう言って行くから、写真はいらない。そうだろう? 嬉しいよ、ギンコ、お前が俺の過去を、そんなふうに気にしてくれて。なんだか俺ばかりが、知りたい知りたいって言ってて、大人気ないかと思ってたんだ」
「…好きな相手のことだ。少しくらい気になったって、当然だろう」

 殆ど無表情に言うギンコの首筋は、少し染まって見えた。腕を振りほどいて逃げたがるのを、逆に引き寄せて抱き締め、ひとつふたつ、質問をしてみる。こういう問いならば答えてくれるかと、なるべく小さく些細なことを。

「今までは、ホテルとかに住んでたのか?」
「…そういう時もある。今朝までは、ビジネスホテルにいた」
「へぇ。で、あの荷物だけ? 着替えとか、全部入ってるのか。身軽なんだな」
「ものは増やさないようにしてるから」

 少しだけ、ギンコのことがわかった。ビジネスホテルに住んでたってことと、荷物はあれだけだってこと。本当に少しだけだけれど、知るのは、こんなふうにゆっくりでいい。時間はきっと、沢山あるのだから。

「苦手な食べ物とか、聞いていいか?」
「…イナゴ」
「ぷ…っ。まあ、そんなのは俺も嫌いだ。それから? 甘いものは?」
「ものによる。和菓子はさほどでもないが、洋菓子はあんまり」
「へえー。俺はケーキとかも好きだけどな」

 化野の腕の中で、ギンコは少しもがいて、抱き締められたままなのを嫌がっているようだった。もう一度、ぎゅう、と力を込めて抱いてから、腕を緩めて離してやり、起こしていた体をベットの上に仰向けに倒す。どさり、と背中がベットについた瞬間、忘れていた頭痛が頭を締め付けた。

「…つッ」
「どんな夢を見たんだ…?」
「夢は、見てないよ。少ししか寝てないしな」

 嘘を言っているとギンコには判った。微かに寄せられた化野の眉が、頭の痛みを示している。それでも重ねては聞かずに、ギンコは化野の頭をそっと撫でた。痛みが少しでも薄れればいいと、心から願いながら。







09/03/17 




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         17




「なんだか、また眠い…。おかしいな、そんなに眠気を誘わない薬のはずなんだが。…折角お前と一緒にいられるのに、眠りたくない。ギンコ。お前は、何故だか、うっかりすると、すぐどっかへ行ってしまいそうで、俺は…おれ、は…」

 すぅ…、と、再び化野は眠りについた。まるでお告げでもするように、また夢は化野を訪れるのだろう。そんなに急がないでくれ。そうギンコは心で呟いた。それはあの蝶にと向けた願いだ。化野が思い出す過去には、辛い記憶も沢山ある。それはきっと、もう一度記憶から消し去りたいと思うようなものばかりだ。
 
 蝶が空に時折舞う姿は、すべて幻でしかないけれど、化野もギンコも、あの蝶に運命を翻弄され続けている。

「俺は、このまま永遠に…」
 ぽつりと呟いた言葉は、ギンコの胸の奥底で、そっと続きが紡がれる。

 このまま永遠に、お前たち刻の蝶に、運命を縛られ続けていたい。そうすれば、何度、愛するものと別れたとしても、次にまた会えるのを確信して、果てもなくきりもなく、それこそ永遠に、「化野」を探していることが出来るのだから。
 
 会ったばかりなのに。今以上の幸せはない筈なのに。もう化野との別れを思い、そこから始まる孤独に、ギンコの魂は深く傷むのだ。そうしてこれから記憶を取り戻して、きっと苦しい気持ちになるだろう化野に、すまない、と、ただただ思う。

 あぁ、目の前で眠るその寝顔の、なんと愛しいことか。その寝息の大切なことか。胸で打つ鼓動の一つずつが、どんな宝石よりも失いがたいものに思える。

「化野…」
 
 眠る恋人の胸の上に、そっと胸を重ねるように身を寄せて、ギンコは化野の唇を塞ごうとした。だけれど不意に我にかえって、頬赤くして唇を噛む。もともとこんなことを、自分からするようなギンコじゃないのに、会ったばかりだと愛しさや大切さに流されてしまって、する事が、あんまり大胆過ぎるのだ。

「に、荷物の整理でもするかな」

 取ってつけたように、そう呟いて、体を離す一瞬前、ギンコはそれでも愛しげに化野の頬をなぞるのだった。


*** *** ***


自分に、と与えて貰った部屋へと戻り、ギンコは鞄を再び開いた。中には彼の持ち物のすべてが入っている。着替えと、いくらかの食べ物や飲み物。便利な時代になったものだと思う。保存しやすいように加工され、持ち歩きやすい容器に入って、そのうえ意外にも味もいいものが、今の時代には沢山ある。

 仕事が見つかった時だけ、ある程度の金さえ稼げは、節制が習慣付いているギンコは、しばらく生活していける。ホテルに泊まらないで過ごすもの、別に厭わない。ホームレスや酔っ払いと間違えられない程度に、田舎の方へ行って人目を避け、里山の木陰ででも寝ればいい。

 ギンコの着ている服も、履いている靴も、よく見れば随分と傷んでいるのだが、案外目敏い化野が気付けば、きっとまた何か問いたげな顔をするのだろう。鞄の隅から財布を取り出し、ギンコは中身をあらためた。服を一そろえ、それから靴。そのくらいなら買えるだろうか。

 この街にきて日が浅いから、安い店が何処にあるか知らない。それに、勝手に出掛けている間に化野が目を覚ましたら、きっと随分がっかりするだろう。

「買い物は別の日にするか。手持ちの金がなくなるのも困るしな」

 そう、ギンコは一人で呟いて、小さく適当に畳まれた衣類を全部取り出し、この家ではきっと使わないだろうから、と、携帯用の器などは布に包んで元通り鞄に片付けた。 
 
 見回しても、この部屋はがらん、としていて、窓の傍に鏡台がひとつと、随分大きな硝子棚が一つあるきりだ。服をしまう場所はない。視線の先に、鏡台と、それと対の椅子。つまりはここは、化野の妻だった人が使っていた部屋なのだろう。それだけしかものが無いのが不自然で、落ち着かない。

 異性として好いていない女性と、化野が結婚した理由は、彼があの医院の家に、婿に入って姓が変わっていたらしいことで判る気がした。

 くすり、とギンコは一人で笑い、ついさっき、化野が彼の鞄の中身を見たがっていたことを思い出していた。なんのことはない、自分も彼と同じなのだ。こうして出会う前の化野のことが、知りたくて知りたくてたまらない。聞けばきっと答えてくれるだろうが、そうしたらお前の事も、代わりに話せと化野は言うだろう。

「眠りさえすれば、夢でお前のことが判るなら、俺もお前の隣で眠るんだがな」
 
 苦笑気味に笑って、ギンコは何気なく鏡台の鏡に自分の姿を映した。白い髪に緑の目の、奇妙な姿の男が、どこか心細げに映っていた。







09/03/24 




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         18




 命あるものが死ねば、その魂は次にまた、別の器を得て生まれ変わるのだという。魂は透明に洗い清められ、記憶など欠片も残らない。そうして無数の魂たちは、螺旋のように捻れゆく道筋を、様々な姿を通り抜けながら、永遠に連鎖して辿ってゆく。…それが転生。

 今は人間として暮しているものの魂が、次は空の高みをゆく鳥になるのかもしれないし、すぐに枯れてしまうような、都会の道端の草になるのかもしれない。なのに不思議だ。夢で見る前世の俺は、鳥でも草でもない、獣でも魚でもない。

 もしもあれが本当に俺ならば、俺は死ぬたびに同じ姿をして、この世にまた生まれてくるのか。ギンコと出会えるように、生を受け、彼の肌に触れた途端に、前世の記憶を見せられ…。それはまるで、神のいたずらのような。

 ギンコと俺と、二人して、何度も転生を繰り返し、そのたびに出会って寄り添い、運命のように強く惹かれ合い、残りの人生をきっと最後まで共にいて、死んだらまたきっと、同じ姿で別々に生まれて、また出会い…。

「信じ難い、夢物語のようだが、でもそれは俺にとって幸せな…」

 言葉に出してつい言って、化野は少し恥ずかしくなって回りを見回した。ギンコは部屋の中にいないと分かってほっとして、化野は額に手を当てて目を閉じる。頭痛はしないが、頭が重い。

 ギンコに頬を撫でられたあの時、どうしてか急に目が覚めてしまって、それから寝ていなかった。眠れそうで眠れないで、ぼんやりと考え続けているのは、やはり自分とギンコのことだけだ。半分霞がかかったような、夢の記憶を手繰り寄せていると、自然と思い出してしまうのは、あの。

『……あぁ、嫌だ…。よせっ』

 ぎくりとして首を横に振り、化野はその情景を頭から追い出そうとした。まるでたった今触れているように、感覚まで生々しく蘇る気がして、知らずに動悸が激しくなる。必死になって別のことを考えようとすると、いつ夢で見たものか、今度は互いに求め合って、想い合って身を絡めようとしている様子が見えた。

『化野…。ん…』
『…脱がすぞ』
『ん…。うん』
 
 前世でもなんでも、これはきっと自分とギンコだ。優しくそっと服を脱がせる仕草は、自分ならばこんなふうにするだろう、と、そう思える。

『あ…。そこ、触…るな』

 夢の自分がギンコの脇腹にキスをしていた。嫌がるようなことを言いながら、ギンコは化野の髪に指を絡めているだけで、舌をそこに這わされても逃げない。

『寒い日とかは、どうなんだ、まだ?』
『あ、ぁ…時々、少し、な』

 どきどき、どきどきとしながら、化野は目を閉じている。何の話をしているんだ。これはいつ見た夢だろう? あぁ、いいやそうじゃない、これは…これはたった今、見ている夢。いつの間に、俺は眠ったのだろうか。

「ギンコ…もう、心配かけるな…」

 その時、ちょうど化野の部屋に入って来ていたギンコは、彼の寝言を聞いて驚いていた。眠っているのだと気付き、そのまま部屋を出て行こうとする。どんな夢を見ているか知りたいと思いながら、知るのが怖くて耳を塞ぎたい。

「あぁ、ギンコ」
「………お、起きたのか」
「起きた。眠るつもりはないのにな。はぁ…」

 溜息をついて、ゆっくりと身を起こす化野の唇に、小さな微笑が乗せられていて、ギンコは少しばかり居心地が悪かった。

「何か、面白い夢でも見たのか?」
「あぁ、いや…幸せな夢かな。お前を抱いてた。無理にじゃなくて、ちゃんと互いに求めてて、それが嬉しい」
「…よかったな。じゃあ、続を見るのにまた寝てしまえばいいだろう」
 恥ずかしいことを平気で言うのは、どの時代の化野も同じで、ギンコはいつも辟易する。 
「いや、それなら夢じゃなくて、本物がいいかなぁ」
「馬鹿。具合がよくないくせに」
「もう平気だ、ギンコ…来てくれ」
「言っ・て・ろ」

 一文字ずつ区切って言って、ギンコは化野に背中を向ける。その背中を、その体を絡め取るように、化野は静かに、しっとりと呼ぶのだ。

「いいから、ギンコ。…ここに来てくれ。じゃあ、見たい、お前を。見るだけ」
「ここに居たって見えるだろ」
「傍で見たい。脱いで…」
「…なっ…」

 かぁ、と顔が熱くなった。この男、もしかして今までの化野の中でも一番のわがままかもしれない。そんな我が侭が通用すると思っているあたり、ガキなのか、それとも、俺をそんなに甘く見てるのか。

「抱くのは我慢する。そうしてくれたら、体のためにも早く寝るし、食事も薬もちゃんととるから。なぁ…」

 とんでもない願い事だと、思っているのに、気付けばギンコの片手が、自分のシャツのボタンに触れていた。







09/04/13




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         19



 彼はゆっくりベッドに近付いて、随分傍にきてから、シャツをそろり、持ち上げる。腹が見え、それから胸が見えた。 首を微かに傾けて、化野はじっとギンコの体を見つめる。

「見せてくれるんだな」
「……俺がお前にベタ惚れだからって」
「あぁ、そりゃ嬉しいな。でも、俺もだよ。きっとお前よりも強い気持ちなんだ」
「…ただ見て、何か面白いのか、こんな体」

 シャツを脱ぐと、ぱさり、と揺れる白い髪。その髪が触れている首筋、そこから曲線を描く鎖骨と、胸、華奢ではないが、それほどがっしりはしていない腹や腰の線。

「少し痩せてるんだなぁ、お前は。駄目だろう。も少し肉をつけないと、病気になっちまった時、これじゃあ些細な病原体にも勝てないぞ」

 などと、医者らしいことを言う。でも、そんなことを言っているのはそこまでで、じっとなぞるようにギンコの体を眺め、化野は囁くのだ。優しい、少しかすれた声だ。愛しそうに、大切そうに、そして幾分、上擦ったような声で。

「肌が、白い。白人の色とは違うが、綺麗な象牙みたいな…。どこか別の血が混じってるってわけでもないんだろう? 顔立ちはこちらと同じだし、でも髪や目の色は…。こんなに美しい色…初めて見たよ…」

 眺められ、言われている間、ギンコは少しばかり項垂れて、下へ垂らした右腕の臂のあたりを、左手で軽く掴んでいる。困ったように、視線は化野を見てはそらされ、また床の上へと戻っていく。

「そういえば、夢の中でな…?」

 化野が口にした言葉に、ギンコの瞳が不安げな色で、ゆらりと揺れた。

「お前のここに、何か」

 する、と化野の指が、ギンコの脇腹をなぞる。びく、と肌を震わせて、ギンコはその指を、どかせたいと思ったのだ。けれど、凍りついたように体は動かず、そのままゆっくりと撫でられる。ん、と喉の奥から嗚咽が零れかけ、それを押し殺して消した代わりに、震えるような息が零れた。

「ぁ、ぁあ…」
「…そう、ここに……」

 化野は、ほんの少し目を見開く。指がなぞるその場所には、本当に何かうっすらと、気付いたのが不思議なほど小さな違和感を感じたのだ。医者の指でなくば判らないほどの、ほんの微かな跡。

 きず… あと…?

「…さ、触らないで、くれ」
「どうして、夢と同じなんだ…」

 嫌がるギンコの言葉を被うように、はっきりと化野は言う。腕を掴んで強引に引き寄せ、ベッドの上に半ば引きずり上げて、手のひらでそこに触れる。指先を辿らせながら見れば、気のせいではなく、そこにあるのは本当に傷跡だった。

 夢の ギンコと 同じ場所に…? 

 そうだ。夢で見たのは、ギンコの怪我を気遣う自分の言葉と、それへ答えるギンコの言葉だった。いったいどういうことだ。もしもあれが過去の俺、つまり前世の俺なら、ギンコも前世のギンコじゃないのか? 転生しても、傷は残る。…そんなことが、あるのだろうか。


 なんなんだ。どうしたっていうんだ。この傷…ッ。
 こんなのを俺に隠して、どういうつもりだよ、お前っ!

 青い顔したギンコを、化野はなじっている。場所はまたあの、海の見える古い家。俺じゃない俺自身の声が、ギンコの怪我の事で怒っていた。心配掛けたくないから、と、そう思ってギンコは黙っていたのだろうに、それでもきっと、同じことをされれば、俺だとて、同じようにギンコをなじるだろうと思う。

 あぁ、それは、それほどにギンコを、愛しているからだ。

 そう、転生の…、螺旋の道ですら、魂を洗い清められずに越えてゆき、そうしてギンコに再び出会う、そんなことが起こるほどの、強い、強い想い。


 眠ってもいないのに、新たに流れ込んでくるその記憶。化野はずきずきと痛み出す頭を、宥めるように緩く左右へ首を振った。

「ひとつ、答えてくれないか…ギンコ」
「……何をだよ?」
「お前、今、年は幾つなんだ? 驚かないから言ってくれ」

 ギンコは、唇を強く噛み、それから静かに首を横に振った。ベッドで仰向けに押さえつけられたまま、彼は悲しそうに微笑み、それから目を閉じて言うのだった。

「聞かないでくれ。お前に気味悪がられるのは、嫌なんだよ…」




続 



09/04/21




20 へ ↓




























         20




「俺が? そんな訳ないだろう…?」 

 あぁ、どうしてそんな言い方をする? それは、もう、自分が普通の命を持たずに生き永らえているのだと、教えているようなものだろう。そうして化野の問いもまた、彼が夢で、もう随分と核心を突いたことを知ってしまったのだと、ギンコに判らせてしまう。

「先生。何処まで『思い出し』たんだ? 何を何処まで知ったのか、お前こそ俺に教えてくれよ」
「……ゆ、夢の中の俺は、前世の、俺なんじゃないのか?」
「うん、あたりだ。やっぱり察しがいいな。それから?」
「転生するたびに、俺はお前と出会って…お前の事を思い出して愛する…」
「…その通りだよ。無理に呼び起こされた記憶に添って、お前は俺を愛してくれる。それまで生きてきた人生を、すべて捨てるようなことになってな。悪いと、思ってるんだ…」

 ギンコは静かに言って、化野の胸をやんわりと押した。ギンコが告げる言葉、そうして自分の頭の中で、はっきりと形を成していく真実に、化野は意識を囚われていたから、そんなふうにさり気なく、身を離されたことに気付いていない。

 夢で聞いた前世の自分の言葉が、耳に響いていた。頭がくらくらとする感覚が、酷い眩暈の前兆に思えて少し怖い。

「『探してくれ、ギンコ。お前に出会うため、来世に生まれる、俺…を』と、そう言ったのは? やっぱり、前世の俺なんだろう?」
「それは…いつのお前の言葉だろうな。俺は聞いたことがないけど」

 死に目に会えなかったことも、二度もあるのだ。ギンコはずっと化野の傍で、共に暮していくことなど出来ないから…。目を細めて、どこか遠くを見る目になっているギンコ。その目の中には、拭えぬ痛みが沈んでいる。

「ギンコ…。教えてくれ、お前のことを。お前も転生を繰り返して、そのたびにこうして俺と出会って記憶を取り戻しているんじゃないのか? お前は俺と、同じじゃないのか…?」
「そう、だな、少しだけ違うよ。それに見た目は同じくらいの年に見えていても、俺は本当は…もっと、ずっと…。でも、化野、今は無理はしない方がいい。頭が痛むんだろう? 酷い顔色だ」

 言われても、化野は考えるのをやめなかった。ゆっくりと起き上がり、自分の傍から離れようとしているギンコを、彼の視線が困惑したままで見つめ、そしてその視線が揺らいで落ちる。

 ギンコは項垂れた化野の姿を、哀しそうに眺めてからベッドを下り、彼の方を向いたまま、ドアへ向けて後ずさった。見つめる目は、深く真っ直ぐに化野を見て、泣きそうな色をして潤んでいる。

「よく、休んでくれ。化野…」

 ぱたん、とドアが閉じた。少ししてから顔を上げると、閉じたドアは何故だか酷く遠くに見える。化野はそちらへ向けて、震える声でギンコを呼んで、はっきりと痛み出した頭に片手を当てた。

 転生してギンコに出会う俺。それから記憶を取り戻す俺。そんな俺をフォローするように、ギンコは何も言わなくとも、どんなことでも知っているように見える。自分の記憶や存在に、どこも不安なところはないとでも言うように。

 まだこんな関係になってから、たったの一日と少し。だけれどあの、年に似合わないような、変に老成したような静かな笑み。それとは違って随分と涙もろくて可愛いところもあって…。それだから紛れてしまうのかもしれないが、ギンコは普通の人間とは、違っているようにも思えた。

 脇腹の傷は、それほど酷く古いものには思えない。せいぜい数年前程度のものに見える。だけれど夢で見た同じ傷を持つギンコ。その彼がいる世界は、まるでもっともっとずっと前、時代まで違う頃に思えて仕方なくて。

 もしも、あのギンコと…今傍にいるギンコが、転生もせずに…同じ一人のギンコだったら…? あぁ、それでも、気味が悪いなんて思うはずはない。ただ、つい不安で知りたくて問い詰めて、あいつに辛い思いさせたんだろうか。


 そうだ。もしそうだとするなら、もしかして…
 ギンコは何度も、死んでゆく俺を、看取って…?
 そんな…。そんなこと、俺なら堪えられない。
 自分は生き続けたまま、お前を失ってしまうなんて。
 

 そして今更ながらに、化野はギンコの言っていた言葉を思い出すのだ。


『お前はどうせ、いつかは俺を置いていく…』


 あぁ、そう言っていた意味が、やっと今、判る。化野はいつのまにか涙を流していた。声も出せずに泣いて、すぐにでもギンコを抱き締めたくなった。まだ少し頭が痛かったが、寝巻きの袖でごしごしと顔を拭いて、ベッドから下りて服を着る。

 リビングへ出ながらギンコの名を呼ぶが、返事は返ってこない。やっぱり傷つけたのか、怒っているのかとますます心配して、テーブルの傍を通ったとき、それが目に入ったのだ。

 それは、ギンコからの短い手紙だった。



 続

 
09/05/15


21 へ ↓






















            
21




1829年、夏
俺はお前に会った
随分と昔の事だ
自分の正確な年齢は
知らない

臆病な俺を許してくれ



 年号に、まず化野の視線が吸い寄せられる。今は2008年なのだ。まさか、嘘だろう…。それでは百八十年も前になる。だけれど夢でよく見る家や、そこから見える風景と、ぴったりと時代があっているように思えた。

 ギンコが幾つの時に俺と会ったかにもよるが、だからつまり、ギンコはやはり、少なくとも…。

 二百…歳…近い年ということに…。自分と変わらないように見える姿で、それでもギンコは酷く物静かに笑い、いつも寂しそうな影を纏いつかせて…。ならば、本当にギンコは、老いず、ただの一度も転生せずに、それほどの長い時を生きてきたというのか。

 転生してはやがてギンコと会い、それから彼を愛し始める化野。逆に考えれば、ギンコは化野を失うたびに、次に生まれてくる彼を、待ち続けていることになる。

 …なんて、
 なんて、果てし無い日々だろう…。
 自分には、その辛さを想像することも難しい。

「ギンコ…」

 思わず名前を呟き、化野はもう一度部屋の中を見渡した。寝室とリビングにはいない、キッチンにも、ギンコの部屋にしてもらおうと思った部屋も、バスルームにも、ベランダにだって、ギンコはいなかった。速足に探してリビングに戻り、化野はテーブルの上の紙切れをもう一度見た。

  臆病な俺を  許してくれ …?

 どういう意味だ。気味悪がられたくないなどと言っていて、それでもこうして手紙に書いて教えてくれたのは、俺を、信じてくれたからじゃないのか? 何処に消えてしまったんだ。驚きこそすれ、俺はお前を嫌ったりなんかしないのに。

 まさか もう あわないつもりで…?
 だから教えてくれたというのか。  
 ウソ…だろう…? 

 そして、その紙切れを手に取ろうとし、彼は初めて気付いたのだ。紙を押さえるように、何かがそこにのっている。細かい傷はあるものの、それは透き通っていて丸い、綺麗な…。

 なんだ? 丸い、硝子…。レンズ? あぁ、もしかして、これは夢の中の俺がいつもしていた片眼鏡?だろうか。手に取ると、初めて触れたものだというのに、しっくりと指に馴染む。
 
 化野は、どちらへ行っていいか判らないままでも、本当はギンコを探しに出たかった。また出会えるまで、あちらこちらを旅して、聞き歩いてもいいと思える。けれど、そうするには、しがらみがあり過ぎた。明日からの仕事を思っただけで、簡単に投げ出していいことじゃないのは判っている。
 
 それなら、俺がお前の為に、出来ることはないのか?
 再びお前に会う為に、自分の傍にいてもらう為に、
 消えてしまったお前を探すために、
 できる、こと。

 手の中の片眼鏡を見下ろして、化野はどさりとソファに腰を下ろした。ゆっくりと握ると、不思議と心が落ち着く気がする。

 あぁ、そうだ。お前なら判っているだろ? 俺が…「化野」が…あいつをどんなに好きなのか。お願いだ。教えてくれ、なるべく沢山のことを、今すぐに。お前はきっと、幾度もの「化野」と「ギンコ」を見つめてきた、最初の俺の形見、なのだろう? 
 
 目を閉じたが、思い通りになりそうもなくて、化野は思わず、棚の奥にある小さな瓶を手に取った。その中から数錠取り出し、水を汲みにもいかずに、口に含んで飲み下す。こんなものを頼るなんて、医者としてどうなのかと思うが、それでも化野は、すぐ眠りについて夢を見たかったのだ。

 少しして化野の手から、ころり、と睡眠薬の薬瓶が転がり落ちた。逆の手に握った、大事な片眼鏡は手の中にある。やがて夢は化野を訪れるだろう。それはきっと、彼からギンコへの、架け橋となる夢なのだった。







09/05/29