螺旋を辿りて 8




 ぼすり、と枕を顔に押し付けられて、化野は、いてて、と朗らかに笑っている。奇妙な男だ、とギンコは頬の赤いままつい思う。今まで彼の中になかった記憶は、ゆっくりとひとつずつ、化野の中に灯るのだろう。

 戸惑いだってあるだろうに、どの時代の「化野」も、それを笑って受け入れる。それどころか、思い出した途端に、彼は逆にギンコを気遣い、大丈夫だぞ、と言いたげに今も手の甲を撫でてくれている。

「凄い、なぁ…」
「何がだ」

 かすれ声の問いに、ギンコは為す術もなく、ただただ静かに問い返した。

「こんな不思議を体験できるとは思わなかった。俺はお前を知らなかった筈なのに、今は知ってる。お前はただの患者の一人だった筈なのに、今は愛して」
「わ、わかったから…っ」

 顔に押し付けられた枕を、胸の上に置いたまま、じっとギンコを見つめながら言う化野に、聞いているギンコの方が、鼓動が騒いでどうしようもない。それなのに、そんなギンコの動揺を知らず、化野は彼の手を引っ張って、淡々と問いを続けるのだ。

「判った、ってなぁ。お前はそうかも知れんが、俺は判らないことだらけだ。教えてくれ。どういう訳なんだ? お前はどこから来たんだ? 俺の中に生まれた、この記憶は何なんだ?」

 海の見える高台の、古い日本家屋。と、化野は言った。

 そこに俺は着慣れたように、藍色の着物を着て座っている。そうして目の前の縁側に、お前が腰を下ろしているんだ。古びた木の箱に、肩紐が付いてる、そんなのが傍らにあってな。それの蓋を開き、抽斗を引っ張り出して、お前は何かを俺に見せている。

 なにやら淡々と、お前は語っているようだが、俺はお前の姿ばかりを見て、ロクに話しなんぞ聞いてない。すると呆れたようにお前は話をやめて、縁側から腰を浮かせて立っていこうとし、その腕を掴んで俺が。

「ギンコ…?」

 まるで記憶の中のそれに似たように、ギンコはベッドに身を起こし、そこから腰を浮かせて立ち上がる。化野は記憶の中の仕草と同じに、急いで手を伸ばすのだが、それを擦り抜けてギンコは裸でベットから離れた。

「帰るよ」
「…え…っ!? どうしてだ?」
「どうして、って…」

 見えている横顔の、微妙な苦笑を、化野は不安な気持ちで眺めている。どうして? なんで? 俺を好きだと言ってくれたのに。俺もお前を愛してると言ったのに。

「ここは俺の家じゃねぇし」
「でも…色々、話を聞きたいんだけど」

 そうじゃない。話なんか、いつだっていいから、傍にいて欲しい。それが本当の気持ちだ。一度離れていったら、この男は、数ヶ月に一度しか来てくれない気がする。どうしてか確信に似た気持ちでそう思った。まるで、過去にそんなことが何度もあった感じがした。

「話は…今度な」
「たっ、旅に出るのか? ここに居られないのか? ギンコ…ッ」
「……どこまで思い出しているんだか」

 苦笑して、ギンコはそろり、と化野を振り返る。

「この街にいるよ。まだ暫くはな。まぁ、時々会いにくるから」
「あ、その…っ。そうだっ、ケータイのナンバー教えてってくれっ」
「持ってない」
「じゃあ家の電話」
「家は無い」
「…え」

 いったい、どんな暮らしをしているのか。化野は毛布を跳ね除けてベッドから下り、既に下着とシャツとズボンとを、身に付けているギンコの腕を掴まえた。自分は裸のままで、居心地はよくないが、そんなことを気にしている場合じゃない。

 ついさっきは、あんなに縋ってくれたのに。化野無しでは生きて行けないと、そう言っているように見えたのに。そして記憶の欠片を一つか二つ、取り戻しただけの化野も、もうギンコを離したくないと思っているのに。

「な、なら…っ。ここで暮せばいいだろう…ッ」
「……」
「ここに居てくれっ。俺の傍に居てくれよ。離したくない。離れないでくれ。だ、駄目…なのか?」

 掴まえられた腕。化野の手の甲をギンコは、ほんの微かにそろりと撫でて、そこから彼の腕を視線で辿り、ゆっくりと視線を化野の顔へと動かした。間近で顔を見るギンコの眼差しが、まるで誘うように見える。縋るようにも見える。

「世間体とか、あるだろう? 化野先生」
「そんなものは無い! いや、あったってどうでもいい。ここで一緒に暮らしてくれ。この通り狭いが、お前が暮すくらいの広さはあるっ。それとももっと広い家がいいなら、引越しても…っ」
「ぶ…っ」

 笑い出して、ギンコはベッドの脇に腰を下ろした。くすくすといつまでも笑い続け、やっと笑い終えたと思ったら、やっと聞こえるくらいの声で、低く言う。

「まるでプロポーズだ。しかも随分と捨て身の…」
「…あぁ、そうだ。プロポーズだよ。悪いか?」

 驚いた顔をして振り向いて、その唇を深く塞がれ、ギンコは抵抗するのを忘れていた。もう、この部屋を出て行く気持ちを、すっかり削がれて、ただもう、傍に居たい。傍に居たい。傍に居たい、とギンコの鼓動が鳴っている。

 …まだ、大して思い出しちゃいない癖に……。

 ぽつりと呟いた言葉は、あんまり小さ過ぎて化野の耳には届かなかっただろう。OKを言われたわけではなかったが、キスを嫌がらなかったギンコに、化野は少しはほっとして、調子にのったことをいう。どの化野も、どうしてこうなのだろう、とギンコは秘かに苦笑していた。

「も一回、抱いていいかな…?」
「やめとけ、頭痛が酷くなるぞ」
「…それは、思い出す『記憶』のせいなのか?」
「察しがいいな、先生」

 押し倒し、ちゅ、と口づけをして、化野は笑う。ギンコの大好きな少年のような笑みで。

「それなら望むところだよ」
「なら…好きにすりゃいいんだ…」

 目を閉じたギンコの服を、化野はゆっくりと脱がしていくのだった。







09/01/02


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 カタン、コトリ…と小さな音がする。なんの音だ? 蟲…? と、ギンコは思って、それからそっと目を開けて、見慣れぬものだらけの視野に驚く。見慣れない天井の色、見慣れない壁と棚。視線を動かすと、シーツの淡い色にも見覚えがなく。

 あ…。ここは? 化野の…。
 そうか、俺は、願望を夢で見ているのか。

 もしもそうなら、今までで一番と言えるほどいい夢だ。化野を見つけ、遠くから見つめ、間近で言葉を交わして。その上、彼の部屋で抱かれ、化野が俺を思い出してくれて…。

「あだし、の…」

 ガタン…っ、と一際大きな音がした。反射的にそちらを見ると化野が、机の上から落ちかけた薬の瓶を、中途半端で転びそうな姿勢で片手に掴んでいた。ギンコと目が合うと、彼は済まなそうに苦笑して、瓶の中から薬を手のひらに出している。

「すまん、起こす気はなかったんだがな」
「………あ…」
「ん? そのまま目をつぶって、もう一度眠るといい。俺は仕事に出るが、この部屋にいていいし。いや、いてくれ。頼むから」

 化野は頭痛薬を口に含み、傍らのグラスから水を飲む。それからバタバタと鞄にものを詰め、上着のポケットのケータイとハンカチを確かめ、最後にちらり、と腕時計で時間を確かめた。そんな化野の耳に、ギンコの声がぽつり、と聞こえた。

「…ゆめ、だろう」
「夢? 夢かって? あぁ、ギンコ、また泣いてるのか? 泣き虫なのか? 俺の恋人は」

 気付けば、横になったまま化野の姿を映しているギンコの片目は、一滴の涙を零していた。化野は彼の傍に急いで近付いて、子供にしてやるように、ギンコの白い髪を優しく撫でてくれる。そうして顔を寄せてくるが、その瞬間に化野の腕時計が小さくアラームを鳴らし始めた。

「うわっ、今すぐ出ないと…!」

 そうして大声出した途端、また酷い頭痛に襲われたのだろう。化野は指を鍵の形に曲げて、頭を暫し押さえていて…。それから殆ど無意識の動作のように机へと行き、そこにある小さな写真立てをするり、と撫でた。

「行ってくる。夕方五時には戻る予定だ。…ギンコ、これは夢なんかじゃないからな。それこそお前自身がまるで『夢』か『幻』だったみたいに、この部屋から消えてたら、絶対に許さんから」

 言い捨てて、化野は部屋から出て行き、玄関の戸が開いて閉じる音も聞こえた。ギンコはベッドにいるままで、起き上がりもせずに化野を見送ったことを、途端に後悔し始める。

 こんな…横になったままで。
 それこそ全部が寝てる間に見た夢かと思っちまいそうだ。
 でも、夢じゃない。現実なのだから、消えたりはしない。

 ギンコはやっと身を起こして、昨夜、散々化野と絡み合ったベットから下りる。シーツは酷く乱れていたから、その皺一つを見ても、自分がどんなに乱れたか思い出せるほどだった。

 部屋を横切りながら、ギンコは部屋の隅の机へと視線をやった。なんとなく、怖いものでも見るように、化野がさっき触れていった写真立てを彼は見たのだ。少し長い黒い髪を、後ろでまとめた女性。どこかで見た気がしたが、気のせいだろう。あれはきっと、化野の、死んだ妻、なのだ。 

「あぁ、そうだ。湯を、使わせて貰わないと」

 ギンコは独り言を言い、昨日も借りたバスルームへと入っていった。



 夕方、ギンコが化野の机の傍の、化野の椅子に座って、化野がいつも見ているだろう夕日を眺めていた。耳を澄ませていたわけでも無いのに、部屋の外の、玄関の扉の向こうの足音を感じて、出迎えるべく彼は立ち上がる。

 家の中から鍵を開け、外へ向けて扉を開いた途端、化野の体が彼へと倒れ掛かってきたのだ。

「あぁ、よかった…。いて、くれた…」
「化野っ…」
「いや、ほんの少しなんだか、気分が…悪くてな」

 熱い身体だった。






09/01/18


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 ギンコは化野を支えたまま、よろめきそうになりながら、なんとか彼の体を部屋へと引きずり入れた。熱がある。しかもかなり高い熱だ。きっと昨夜、ずっと頭痛や眩暈を堪えながら抱き合っていたりしたから、その疲労を体が訴えているのだろう。

「だから、言わんこっちゃない…」

 そう呟くギンコの声は泣くように震えていて、化野はギンコに支えられたままで、すりすり、と彼の背を手のひらで撫でた。

「また泣いてんのか…?」
「な、泣いてなんぞッ!」
「泣いてるだろう、声で判る。そんな…心配しなくていい、ただの疲労だ。それともお前を、あんなにしつこく抱いた報いとか?」
「ば…か…、ふざけてる場合じゃ…」

 やっとベッドまで化野を連れて行き、勝手に別なのに取り替えておいたシーツの上に、彼の体を寝かしてやる。

「なぁ、こんなに熱が高いし、もともと明日は往診だけの日なんで、なんとか遣り繰りして休みにしたんだ。お前と一緒にいられるぞ。嬉しい」

 どきどきと心臓が高鳴る。辛そうにかすれた声で、そんなにも嬉しくなることを言われて、心に溢れる幸せと、化野への心配が、胸の中で滅茶苦茶に絡まってしまう気がした。

「大人しくしてろ、この、病人め」

 そんなことを言い捨てて、もっと温かい毛布か何か持ってこようと、ギンコが部屋を出ようと背を向ける。化野は片手を急いで伸ばして、今度こそうまく彼を捕まえた。捕まえて、引き寄せて、焦がれるような目で、化野はギンコを見た。

「せっかく時間が出来たんだから、お前のこと、聞かせてくれ」
「まずは病気を治せ」
「こんなのは、病気じゃない」
「医者の不養生って言うだろうが! お前の熱が下がってからじゃなきゃ、俺は何にも言わんからなっ」

 怒った顔でギンコが言うと、するり、と化野の指が彼の手首から外れる。それでも見つめる視線を離さずに、化野は少し怖いくらいに低い声で言うのだ。目が、真剣そのものだった。熱が高くて苦しいだろうに、彼はそれを逆手にとってギンコに願いを告げる。

「あぁ、そうだな。でも、いくら不養生だと言われても、お前が話してくれるまで、俺は薬も飲まないし物も食べない。…教えてくれ、頼む。聞かないままじゃ、不安で、お前と離れて過ごすのが怖いんだ…」
「な…何、話せって言うんだよ」

 滑り落ちるように、傍らの椅子に腰を落とし、ギンコは哀しげな目で化野を見た。急に辛そうな目をする彼を見て、化野は気持ちを揺らしたが、それでも知りたい思いにはかえられない。昼間、仕事場にいてギンコを感じられないで過ごして、その間の怖さを思い出した。

 抱きながら脳裏に見えたある情景も思い出したが、それともろともに、ギンコ自身の存在が、夢か幻だったように思えたのだ。家に帰ったら、ギンコの姿は無く、二度と目の前に現れてくれないかもしれない、と。こんなに焦がれる相手に、二度と会えなくなってしまったら、きっと狂う、と、そうまで思えた。

「判った。だったら少しだけ、話してやるから。その前に、もう少し温かくしてくれないか。あっちにあった毛布を持ってくる。…勝手にいろいろ見て、すまんな。シーツを換えたくて探すのに、引き出しを何箇所か開けたんだ」

 そうしてギンコは毛布と、化野の寝巻きとを持ってきて、手を貸して着替えさせ、ベッドの上で、毛布と布団に包まらせた。それからまた椅子に座り、座った脚の膝の間に、力を抜いた両腕を垂らして薄く笑む。

「俺の、何が聞きたいんだ?」
「全部、と言いたいんだけどな。…じゃあ、単刀直入に聞くけど、どうして俺は、知らないはずのお前のことを『思い出した』んだ?」
「…それは……」

 その問いは難し過ぎる。下手を言ってしまえば、最初の発端からすべてを、彼に話さねばならなくなるのだ。そんな事が出来るはずも無い。ギンコは唇を噛み、哀しげに化野を見て、苦し紛れに一言だけを言った。

「運命だからだ。俺とお前とは、そういう運命だから…」
「…それじゃ判らない」

 判らないだろう。判らなくて当然のこと。運命、とは言っても、それは本当は作られ、無理に繋げられた転生の絆のことだ。あの蝶の持つ力に侵され、ギンコは老いと死を永遠に失くしてしまった。

 そうして化野は、ギンコすら知らない定めに繋がれて、転生して記憶を無に返されても、一度ギンコを抱けば、また彼に焦がれるようになり、死ぬまで彼に繋がれた生涯を過ごす。繰り返す転生の数だけ、必ず。

「なぁ、化野。俺からも一つ聞きたい。お前、昨夜俺を抱いている間、また何かを『思い出した』んだろ? 何を思い出した? 何を見たんだ?」
「それは…」

 今度は化野が口篭る。項垂れた首筋が微かに赤い。それでも彼は、数瞬だけ黙った後、言葉を選んでこう言った。

「思い出したのは、俺がお前を抱いてる情景だ。着物を着た俺が、大きくて古そうな家の畳の部屋で、お前のことを半分無理に抱いていたよ。音も声も聞こえないが、お前の口の動きで『嫌だ』とか『よせ』と言っているのが判った」

 あぁ、それは、ずうっと昔のお前の前世だ。
 懐かしい。なんて懐かしいのだろう。
 最初に抱かれた時は、俺は強姦されたんだった。

 好きなものを手に入れるのに、手段を選ばないお前。
 欲しいものを手にするのにも、知りたいことを聞くのにも、
 自分の体の不調をすら利用する。そういう奴なのだったな。

「あれは多分俺だが、同時に俺じゃない。そんなことがあったと知っていて、あんなことをしたのだと判っているが、それでも俺じゃあない。あんな場所は知らないし、着ている着物も知らないし。でも、俺に抱かれているお前は、今、こうして目の前にいるお前そのものに思える…」
「………っ」

 それはお前の前世だよ。
 そしてお前に見えた俺は、
 前世の姿じゃない、ここにいる俺自身。

 言いそうになり、慌てて唇を噛み、ギンコは小さく困ったように笑った。

「きっと自然と判る。お前が自然に俺の名を呼んだように、全部、判るようになるよ。それまでは、どうか許してくれないか。俺の口からは…言えないから。そのかわり、お前の言うように…俺は、ここで暮すことにするよ」
「ほ、本当に…?!」
「嘘は言わん。だから、体を大事にしてくれ。俺の前で、わざと辛い姿になんか、ならないでくれ。見ている俺が…辛いから」

 判った、と化野が言ったのは、ギンコを無理に引き寄せて、深い口づけを一つ済ませてからのことだった。






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「薬飲め。頭痛薬がいいか」
「あぁ、それなら、そっちの棚の抽斗に…。いや、いい、俺が取る」
「駄目だ、起きるな」

 ぐい、とベッドの上で化野の体を押して寝かせ、ギンコは化野の視線が指した棚へと歩く。言われた抽斗をあけると、丁寧に仕切られた中に、無数の薬。しかも用途ごとに箱に入ってるわけでも、頭痛薬、風邪薬、などと、書いてあるわけでもなく。

 さすがは、医者。とギンコが目を瞬かせていると、ついさっき、ベッドに横にならせた化野が、いつの間にか後ろに立っていた。ギンコの肩に圧し掛かるように寄りかかって、後ろから無数の薬の中に手を伸ばす。

「おいっ、起きてくるなって!」
「まあまあ…。これ、と…これだな。あとは水を」
「ベッドへ、戻れ。水を汲むくらいさせてくれ、どうか…」

 ギンコの言葉は、もう懇願だった。酷い顔色をして、体はどこも熱を持ってて熱い。そんな化野の助けにもなれず、彼の体が弱って行くのを見るのは、もう…沢山だった。ギンコの中で、辛い記憶が揺れ動き、彼の心を引き裂くのだ。

 最初の化野も、二度目の化野も、それからさらにそれよりも先の化野も…。ギンコは何度、病に倒れる愛しい人を見てきただろう。そうして、血を吐くよりも、手足をもがれるよりも、もっと辛い思いして、彼を何度、失ってきただろう…。

 ギンコに寄り掛かりながら、化野はそんな彼の顔を見て、震える唇を見て、どうしていいかも判らずに、そっと優しく首筋に唇を押し当てる。

「大丈夫だ、大丈夫だよ、ギンコ。俺は医者だからな、こんなのすぐに治るんだ。お前は、どうしてそんなを顔するんだ…?」
「…お前は、なんだか、質問ばっかりなんだな」

 ぽつりと言って、化野の体を支えながら、ギンコは彼をベッドへと導く。グラスに水を汲んで持ってきて、それを手渡すと、まるで彼までも病になったかのように、青い顔をして化野の手の指に指を絡める。そんなことを言うつもりは無いだろうに、彼は殆ど無意識に呟いていた。

「もう…沢山なんだ…。お前はどうせ、いつかは俺を置いていく…化野、あだしの…」
「なぁ…ギンコの言うのは、俺には判らないことばかりだ。だから問い掛ける。お前が辛そうにしてる理由が判れば、少しは力になれるかと、そう…」
「なれ…ない、よ。…いいんだ、早く、薬を飲んで休んでくれ」

 翡翠の色した瞳が、また化野の目の前で潤んで、同じ翡翠の色に見える雫が、ひと粒だけ落ちた。自分を思い出してくれた化野の傍にいて、今、彼は、酷く脆くなってしまっているのかもしれない。

 涙ばかり見せるギンコに、化野は己の無力さを思い知り、どうしていいかも判らずに、ただギンコが喜んでくれる言葉を囁いた。

「泣くな。愛してるから」
「あだし…」

 ギンコを見ている筈の化野の目の前を、その時、蝶がよぎった。それは現実のものではなく、何かの…幻なのだろうが、途端に頭が酷く痛んで、彼はベッドに沈み込む。そんな化野の口に薬を含ませて、ギンコは彼に水を口移しした。

「俺もだよ」

 酷く小さな声で、ギンコがそう言った。






09/02/06


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 化野は、自分の手の指と、ギンコの手の指が、しっかりと絡み合っているのを目で確かめ、にこり、と笑って目を閉じた。閉じた瞼の、その睫毛が一度震え、ギンコの指に絡む彼の指に、少しだけ力が入る。

「ギンコ…」
「…ん?」
「………」
「化野…?」

 呼びかけたが、聞こえてきたのは寝息だった。本当に、疲れていたんだろう。顔がまだ青い。ギンコは絡めた指をそのままに、つい、と顔を寄せて化野の唇を吸う。どれだけ見つめても、口づけをしても、飽いたりはしない。焦がれて焦がれて、長い年月、ずっと彼を想ってきたのだ。

 ギンコは溜息をつき、化野の手から指を解こうとした。だが、化野の指には力が入っていて、簡単には離れない。逆の手で、彼の指を一つずつ剥がすようにしながら、ギンコは知らずに微笑んでいた。

 転生するたびに、化野の運命が射すのは俺一人だ。これから先、お前が死ぬまで、その絆は解けない。いいや、お前が死んでも、絆は消えない。永遠に、ひとつに繋がれているのだ。
 ギンコの視線は一瞬、机の上のフォトスタンドへと動き、その目がすぐにそらされた。




 目を開けた時、眩しい光が部屋に差し込んでいた。朝の光だ。飛び起きそうになり、寸前で化野は気付く。あぁ、そうだ。昨夜は酷い熱で帰ってきて、それで…今日は一日、休むことにしたんだった。そしてギンコの傍で、一日を過ごすと決めたのだ。突然現れた、唯一無二の最愛の人。

「ギンコ…?」
 
 返事は聞こえない。その代わりにドアの向こうの遠くから、何か音が聞こえている。ベットから下りて、まだふら付く足を励ましつつ歩けば、足下に何かがカサリ、と。ノートを破り取ったような、小さなメモ。何かが書いてあると見て、拾い上げて読む。紙の下の方に…。

『出掛ける、すぐ戻る』
 そしてその文字の上に、書いてから数本の線で消してある文字。
『安静にしててくれ。少し、出掛ける。すぐ戻る』

 つまりはこうだろう。『安静に〜』の文字を書いてからギンコは出かけ、化野が目を覚まさないうちに戻り、どれだけ時間が経ったのちか知らないが、さらにまた出掛けて戻ったのだ。二度も、一体、どこへ?

 部屋から出て、リビングへと踏み入り、物音のするキッチンの方を見ながら声を掛ける。水音と、ガス台を使う音がしていた。

「ギンコ」
「…あ、起きたのか。またお前は勝手に起き上がってっ」
「何してる…?」
「何でもいい。ベッドに横になっていろ」
 台所から顔を覗かせたギンコの片手に、太い立派な大根。キッチンのまな板の上に見えるのは、人参と…切った豆腐、だろうか。長ネギもある。シイタケと卵と、何やら肉も。
「もしかして、俺の為に何か作ってくれてるのか…?」
「…作る、というほど手の混んだもんじゃない」

 そう言っているが、ダイニングテーブルの上に広げてあるのは、料理の雑誌じゃないだろうか。ギンコの白いシャツの胸は、跳ねたらしい水で濡れていた。少しよろめきながら傍に行って、化野はタオルを手にとって、ギンコのシャツの胸を拭いてやる。

「ありがとう。大人しくベッドで待ってるから、怪我はしないでくれよな」

 化野がそう言って、ギンコの髪にそっと唇を寄せる。言葉通りに部屋へ戻れば、開いたドアの真正面の机に、亡き妻の写真。化野はそれへ近寄って手を伸ばし、フォトスタンドのまま抽斗の奥へとしまい込んだ。

 ガタゴトと、キッチンから音がしている。まだ薬が効いているのか、温かな布団の中で横になったら眠気がきた。枕へ頭を付けた途端の睡魔。化野が知らぬことだが、夢が…彼の中に蘇りたがっている記憶が、化野を眠りへと誘うのだ。朧気に化野も思っていた。

 ギンコ。また、お前の…夢がみたい。お前を知りたいんだ…。






09/02/06


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 匂いで目を覚ますなんて、今まで一度もなかったかもしれない。化野はうっすらと目を開けて、視野にある銀色のものを、まだ半分夢の中にいる意識で眺める。いい匂いはそこから来ていて、その銀色の、丸いものを持った両手も見えた。

「起こしちまったか? 悪ぃ。も少し休んでた方がいいだろうが、何か少し腹に入れてからにしたらどうだ?」
「あ…、ギンコ? それ、は?」
 問われるとギンコは、ちょっとバツの悪そうな顔をして言うのだ。
「野菜の粥。初めて作ったんで、美味いかどうかわからんが、一応、本の通りに作ったから、栄養はあると思う。起きて喰うか?」

 そう聞けば、化野の胸には嬉しさが込み上げる。具合の悪い自分を気遣って、ギンコが不慣れな料理をしたと言うのだ。嬉しくなけりゃバチがあたるだろう。まだふらついているくせに、いそいそと起き上がって、化野は銀色してて丸い、鍋に手を伸ばした。

「食べる。早くくれ」
「おいおい、鍋ごと喰うつもりか、今、よそってやるから」
「…食べさせてくれんのか?」
「……調子に乗り過ぎだろ」
「駄目か、やっぱり」

 甘え過ぎだと自覚はありつつ、駄目もとで言ってはみた。ギンコは殆ど無表情で、茶碗にたっぷり粥をよそい、それを片手に持ったまま、ベッドの横に椅子を引き寄せた。そうしてその椅子に自分が掛け、匙ですくった粥の一口を、黙って化野の口元へと差し出すのだ。

「看病なら、何度も、してもらったしな。こういうふうな山菜の粥も、昔…」
「…昔? いつの話だ」

 ぼそり、と呟く声は小さくて、聞き取れたのが不思議なほどだったから、ギンコは化野に問い返され、一瞬動作を止めてしまった。返事をしないギンコに、化野は小さく苦笑するしかない。

「…言うつもりはない、か。何だかまるで、お前は…何人もの俺と、過ごしたことがあるみたいだな」

 カチャ、と匙が茶碗の中に戻る。ギンコは一度静かに目を閉じて、そのままで一つ吐息を零した。そうして目を開いた時には、いつも通りの彼に戻り、咎めるような目付きで化野を見る。

「とにかく、粥を喰え。栄養をつけないと、治る病も治らん」

 軽く伏せ気味の瞼の、白い睫毛が綺麗だと、化野は思った。そう思いながら、差し出される匙に口を開き、まるで雛鳥のように食事の世話を受ける。ギンコはかいがいしく化野に粥を食べさせながら、ほんの時折、ちらり、ちらりと、物言いたげに化野の顔を見た。

 夢を、見たのかどうか、ギンコは気にしているのだ。

 眠るたびに、一つ、一つ、化野はギンコとの過去を見る。酷い頭の痛みと、眩暈と、別の彼の記憶が、いっぺんに化野の体に押し寄せて、そうして見た夢は、気の遠くなるほど遠いものや、あるいは数十年前に、現実にあったこと。

 小さめの茶碗二杯分の粥を、もうじき食べ終えるころ、化野は前置きもなく言った。ギンコの手の匙が、半端な宙にぴたりと止まる。

「物売り。なにか珍しいものを持ってきて貰ってて、それを、俺にそっくりの男がお前から買って、いるような、そういう夢を見た気がする…。その夢の二人は、昨夜見たのと同じ二人だったんだ」
「……へぇ…、そうか」

 素っ気無い返事。化野はギンコの表情から何かを読み取ろうと、じっと強く見つめた。

「お前、物売りしにそいつのとこへ来てて、それで犯されたのか? そうなのか? それなのに、そっくりな俺に惚れたってことか?」
「……さてね…」

 本当は別に、犯されたわけじゃない。
 誘ったのは俺だったんだし。
 それにな、化野。
 お前の記憶の中に生まれる、お前そっくりの男は、
 全部、みぃんな、お前なんだよ。
 俺が愛してきた、前世のお前。お前。お前。

 ギンコはやはり何も言わず、ただ粥をすくった匙を、化野の口に近づけた。冷めてきている粥を一口咀嚼して飲み込み、それからもう一匙貰い、最後の一匙を口に入れたとき、唇の端から飯粒が一つ零れそうになる。

 それをじっと眺め、ギンコは化野の手の上に手を置き、椅子から立ち上がって、彼へキスをした。零れかけた飯粒を舐め取り、そのまま深く、ゆっくりと口づけを…。唇を解くと、ギンコは間近で化野を見て囁く。

「俺が好きなのはお前だけ。今も、これから先も、そしてずうっとずうっと昔もな。…粥、少し味が薄かったかもしれんな。すまん」

 台所を片付けてくる、と言い置いて、ギンコは部屋から出て行った。ギンコの消えたドアへ、化野もすぐに近付く。叱られてしまうと思ったから、ちゃんと温かい服を来て、食後の薬を手に握って出て行くと、玄関へ続く廊下の前に、何か大きなものが置いてある。

 旅行用の大きな鞄。それの蓋が少し開いていて、中に何か入っているのが見えて…。化野は引き寄せられるようにそちらへ近付いた。





09/02/27


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 そういえば、家は無い、と、そう言ってはいなかったか。旅行者だからにしても随分と大きな鞄。ならば彼は、常にこんなものを持ち歩いて、本当に旅と旅をただただ繋げて、ずっと住まいも持たずに暮らしてきたのだろうか。

 まさか路上で寝泊りでもないだろう。ギンコはホームレスには見えないし。それならホテル住まいなのか? この鞄の中身でそれは判るかもしれない。

 近寄り、化野はその鞄に手を伸ばす。少し浮いた鞄の蓋に指先が触れ、それを開いて、中をみようと…。だけれど化野は、唇を噛んで手を離した。これから共に暮すとしても、互いに想い合っているのだとしても、これはしてはならないことだ。そのうち、ギンコが自分から見せてくれる時がきたら、その時は喜んで見せてもらえばいい。

 キッチンの方へ視線を戻した途端、化野はぎくり、と息を飲んだ。シャツの袖まくりあげたなりで、ギンコが化野の視野に立っている。そしてちょっと可笑しそうに、いや、むしろ嬉しそうに、幸せそうに、彼は笑っているのだった。

「中を見ると思ったのに」
「…案外、人が悪いな。見てたのか」
「別にわざとじゃないけどな。そんな試すようなことはしない」

 懐かしい、とギンコは思っている。木箱をあの縁側に置いて、うたた寝なんぞしちまった日にゃ、化野は決まって勝手に引き出し開けて、中を覗き見ようとしてたもんだった。

「見たいだろ?」
「…見たいが、お前が見て欲しいと思うまで我慢する」

 化野が言うと、ギンコは酷く楽しそうに微笑んで、片手に持っていた水のグラスを彼へと差し出した。

「なら、薬を飲んでベッドへ戻っててくれ。今はまだ、お前に俺の大事なものを、見て欲しいとは思っていないから」
「う…。わかった。荷物を整理するんなら、そっちの部屋を好きに使ってくれていいよ」
 
 そこまで言ったら普通は見せてくれるもんだろう、と、口の中でもごもご言い、化野は薬を飲み終えて、寝室へと戻っていった。足はそろそろふら付いていないようだし、顔色も随分とよくなったようだから、昨夜、あれほど心配していたギンコも、気持ちが楽になってくる。

 化野が言ってくれた部屋に踏み入ると、そこは普段使っていないようで、少しだけ空気が澱んでいた。窓とカーテンを開け放ち、小さなベランダに首を出して景色を見る。ずっと遠くに高いビルが立ち並んでいた。ここは地上八階。眺めは悪くない。

 それからギンコは窓を閉めて、いったん閉じた鞄を部屋の真ん中へ置き、改めてそれを大きく開いた。人一人入ってしまいそうな、それくらい大きな鞄の真ん中に、長方形の大きな布包み。縛った部分を解いて、丁寧に布を広げるギンコ。

 そこに現れたのは、古い古い、もう朽ちかけたような木の箱だった。

 鞄の隅から、硝子の瓶を取り出し、ギンコはその中身の銀の粉を、ほんのわずか木箱の上へと振り掛ける。粉は生き物のように、ふわふわと少しの間漂い、箱の上に積もってから、すう、と音もなく消えていく。

「お前さんたちの力を借りても、そろそろ限界かね…。なぁ、蟲どもよ」

 そこにいるのは蟲、という生き物だった。ギンコがふりかけたのはその蟲の餌になる銀粉。蟲は名を「四つ生(よつせい)」といい、一つ選んだ依り代の時を止めながら、四百年も五百年も、生きていくのだと言われる。この蟲がいなければ、木箱はとうに朽ちて壊れてしまっているだろう。

「また会えたよ、俺の『化野』に。五人目だけど、やっぱり好きだ…すきだ…」

 木箱をそっと撫でながら、ギンコはうっすら微笑んでいた。






09/02/27