螺旋を辿りて 1
彼はいつもゆっくりと、螺旋の階段を上る。今までずっと見てきたが、運動のためなのか、それとも何か別の理由があるのか、そんなことは知りもしない。ギンコは少し離れた隣のビルの屋上から、毎日それを眺めては、フェンスに臂を付き、頬杖ついて目を細めた。
夕暮れ時、オレンジの光がまぶしくていつもよく見えなくて、それでも見つめたくて。
螺旋の階段が沿うのは、細長く見える五階建てのビル。それの二階に入っているのは開業医の彼の仕事場。一度だけ、適当な理由をつけて診察してもらったが、その時の柔らかな声が、ギンコの耳に残っている。
痛みはいつから?
…一昨日の、夜くらいから。
嘘だ。お前を見つけてから、ずっと痛い。
何か市販の薬は飲みましたか。
…いや。何も。
だって治療法は判ってる。こうしてお前に会えば薄れる痛みだ。
そうですか。では、詳しく検査を。
…今日は時間が無いので、後日来ます。
体に異常のないのを判っていて、検査を受けるのも気が引けて。だけれど、その検査が、彼の手でなされるのなら、受けておけばよかった、などと、困った欲求にぐらぐらする。
でも、やっぱり、触れられるのはまずいだろ。こんなにお前に餓えてるのに、この身に彼の体温を感じてしまったりしたら、きっと一気に、願いは膨れ上がる。
探したよ。化野。
お前だけを求めて、何百年も俺は生きているんだ。
そう…
お前は「五人目の」愛しい人。
化野という同じ名で、どの時代にも一人だけ存在している。
夕日のオレンジはいつの間にか濃い色に変わり、気付けば螺旋階段の何処にも、化野の姿は見えなかった。一日一度、遠くから見る姿を、ちゃんと見ていなかった自分を後悔し、ギンコは煙草に火を灯す。
その時、エレベーターの扉が開いて、夕日の色に染まった、白い服の姿がギンコの瞳に映ったのだ。そうして白衣の姿は、ギンコの前までゆっくりと歩いてきて彼に微笑みかける。
「化野…」
「……不思議なんだが」
口を開いた彼は言った。
「何故、君は俺の名を知っているのかな。俺はあの病院の婿養子に入ったから、結婚前の名を知っている人は限られるはずなんだが。最初、病院に来たときも、君は俺を『化野先生』と呼んだだろ」
「…っ…。いや…」
ギンコは口篭り、それ以上の言葉を続けることが出来なかった。咄嗟の言い訳など出てこない。こんなに傍に居る彼を、ただ視線の中に捕まえ、耳に声を聞くだけで、激しい慕わしさに襲われ、倒れそうな心地がしていた。
夕日はそろそろビルの影に消え、街には夜が訪れようとしているのだった。
続
08/11/12
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2
「別に、責めているわけじゃないんだ」
黙り込んでしまったギンコに、化野は急いでそう言った。ギンコの手元の煙草を見て、自分もポケットから煙草を取り出し、銀色のライターで火を灯そうとする。風の強い屋上で、ライターの火は三度も消え、しまいに彼はギンコを見て苦笑する。
「手を貸して貰えるか? 風を遮って…」
「あ、あぁ」
傍に寄って、両方の手で化野の片手を覆うようにして。ギンコは随分と彼の傍に近寄っている。ライターの火は揺らいでいたが、風からは守られていて消えず、それなのに、ふ、と炎は消えてしまった。
「この前は、そんな目の色…してなかった気がするんだが」
ぽつり、と言った化野の唇から、咥えていた煙草が落ちて足元に転がる。彼は不躾なほどじろじろと、ギンコの顔を凝視して、特にその瞳を強く見つめていた。
「…生まれつきなのか…? 綺麗な目の色だ。……あ…すまん」
化野は急に我にかえって、自分の非礼を素直に詫びた。頬をほんのり赤くして、困ったように項垂れ、それでも気になって仕方ないというように、ちらちらとギンコの目を見る。
そんな化野の態度に、ギンコは軽く吹き出して、口の中で「相変わらずだ」と呟いた。珍しいものには目が無くて、珍品のこととなると目の色を変えたお前。いつもは冷静な癖に、そんなお前の性格のせいで、随分と色々なことがあったもんだよ。
思い出せば、最初のお前の時も、別のお前の時も、いつだって何かしらの出来事があったっけ。
「カラーコンタクト。今日が、じゃなくて、この前、診察して貰ったときの黒がな。髪だけでこんな目立つのに、目まで別の色じゃ目立ち過ぎだから」
「勿体無い。そんなに美しいのに。もう一方も見せてくれないか」
あんまり傍にいたのが災いした、化野の手が伸ばされて、前髪をさらりと掻き上げてくるのをかわせず、開いたままのカラの眼窩を、まともに見られてしまった。驚いて手を引っ込めて、化野はおろおろと詫びる。
「す、す、すまん…っ」
「謝られるようなことじゃねぇよ。先生だって、何にも追及しないでくれるし、貸し借りなしだろ」
そう言うと、化野は一瞬何か言いかけ、それでも笑って、そうか、と言った。結婚前の名前を知っていたことを、これ以上追求できなくされたと判り、中々の策略家だなと、今度は小さく苦笑する。
「で、ええと…小林さん、だったっけ。この前の診察のこと。検査はいつ」
「小林?」
「あれ、小林じゃなかったか。田中? いや、井上?」
「…あぁぁ…」
そういえば、適当な偽名で診察を受けたんだった。保険証なんぞ持ってやしないし、治療だの更なる検査だので、また訪れる気も無かったから。よくある名前を適当に使った覚えはあるが、それが何だったかなんて覚えてやしない。
「…胸の痛みはあれからないし、検査は受ける気がねぇんだよ。この前もそう言ったけど、保険証がないんで、金が勿体無いしな」
「だが、胸痛は甘く見ない方がいい。俺の死んだ妻も…。え?」
弾かれたように顔を上げ、ギンコは化野を見つめてしまっていた。彼が結婚していたのは知ってた。妻の籍に入ったのまでは知らなかったし、ましてやその妻がもう、この世にいないことなど、知らなくて。
聞いた途端に、安堵やら嬉しさが込み上げて、自分が心底嫌なヤツだとギンコは思ってしまう。それでも嬉しさは、胸から消えてはくれなかった。
彼が欲しい。もう五度目だけれど、出会うたびどうしても欲しくて仕方なくなる。自分だけを見て欲しくて…。一人目の彼のように。二人目の彼や三人目の彼と同じように。
唇を噛んでいるギンコに、化野が微笑みかけて言った。
「ここは少し寒いな。どこかでコーヒーでも」
「え…仕事は?」
「あぁ、実は今日は休みなんだ。だから、君が気になって、それだけで階段を上ってた。水曜は定休だから、来週もここに来るなら俺も来よう。同じ時間でいいのか?」
「……変なヤツだな、相変わらず」
相変わらず、と、その言葉が今度ははっきりと声になって零れた。ギンコはどきりとしたが、化野はその謎めいた言葉に、一瞬表情を止め、まだ不安定な表情のままでこう言ったのだ。
「来てくれ、美味いコーヒーを入れるから」
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「ええっと…確か、ここに…。すまんな、待たせて。いつもは看護婦がコーヒーを入れてくれるもんだから」
「…いや、それより先生。これは結構、落ち着かない環境、だな」
「んん? そうか?」
ギンコは診察を受ける椅子に座らされ、給湯室らしい奥の小部屋で、ごそごそとコーヒー豆を探している化野に言った。
化野はギンコがそうやって何か話しかけると、わざわざ部屋の入口から首を突き出して返事をする。にこり、と笑うその顔には、片眼鏡などなかったが、それでもギンコは最初の彼の面影を、その笑顔に見て胸をズキリと震わせていた。
「やはり、美味いコーヒー、と宣言したからには、豆から引かんとなぁ。心配しないでくれ、豆を引くミルもどっかに…。あぁ! あったぞ、あれだ」
振り向いて様子を窺えば、化野は椅子の上に乗って、高い棚の上にある箱を下しているところ。ギンコは自分の目の前の、医者の座る椅子をぼんやりと眺め、それからその隣にある、大きなデスクに目をやった。
様々な医学の本や、薬の辞書などが並んだブックエンド。十本程度の筆記具が刺さったペン立て。ガラス製のペーパーウェイトなど、いろいろと乗っているのだが、それらはよく見ると、どこか普通のものとは違っていて。
見た目、地味な珍品…なのか? これ。ついつい手を伸ばしてペーパーウェイトを少し持ち上げてみると、その下のデスクの表面に映る光が、小さくとも見事な龍の形。
地味でもないな、と、ギンコはくすり、と笑う。そうこうするうち、様々な物音を立てていた化野が、二人分のコーヒーをカップに入れて、目の前の椅子にゆっくりと座る。
「待たせて。お、いいだろう、それ。珍品だぜ」
「…ぶ……」
吹き出しかけて堪えながら、ギンコの視野は微かに歪んだ。懐かしい声、懐かしい言葉。数十年を待ち続けて、やっとこうして出会えた彼に、触れたくて触れたくて辛いのだ。
「"相変わらずだ"と、言ってみてくれ。化野、と呼んで…」
「………」
「前にここで会ってから、ずっと考えてた。俺は、君を…知って…?」
「…帰るよ、コーヒーを飲んだらすぐ」
「そう言わないでくれ。コーヒーならまだある。もう一杯付き合ってくれるだろう。そら」
ギンコは、まだ熱いカップの中のコーヒーを、一口二口と啜り、半分ほど飲んでから、片手でその上に蓋を。二杯目はいらない、というその仕草が、二人の距離をまた近付けるなど、知りはせず。
「あ…!」
「…っ、つ…ッ」
コーヒーの入ったデカンターがデスクにぶつかり、床へと落ちて割れた。鋭い破片が飛んで、それがギンコの手の甲に傷をつけた。
「すまんっっ、手をっ!」
「あ…あだ、しの…」
くらり、と酷い眩暈がギンコを襲う。手首を掴んで引き寄せて、手の甲の切れた場所へと、唇を被せて舐め、そうしながら化野は、ギンコの目をちらりと見て、確かに小さく笑ったのだ。
「我ながら、原始的だ。待ってくれ、ちゃんと医者らしい治療もするから」
「…こんな治療を、他の患者にもするのか、先生」
「まさか」
床に広がった破片と、黒色に飛び散ったコーヒーを、極力踏まないようにしながら、化野は治療の道具を揃えてくる。戻った時には床に屈んで、破片を拾い集めているギンコの姿が見えた。
「放っておいていい。俺の落ち度だ」
「……させてくれ。俺のせいだろう」
「何言ってる」
結局は化野も床に屈んで、顔が寄せられるほどの至近距離で、落ちた破片を一つずつ摘み上げることになる。
「すまんな。実は掃除道具の場所もよく判らんのだ」
「そんなもんだろ。医者なんて」
「あぁ、けなされてる気がするなぁ」
「そうじゃねぇよ、化野」
「…ふふ」
「何が可笑し…」
「さっきから、二度、俺を化野と呼んだな。そんなに慣れた声で…。たぶん、俺が君を知らなくとも、君が俺を知ってる。理由なんぞ判らんが、きっとそうだ。そうだろう…?」
ギンコはガラスの破片を手に乗せたまま、ふい、と顔を上げて化野を見た。息の掛かるほど間近で、二人の視線がぶつかり、絡む。
「あぁ、駄目だ」
「何が」
「駄目だ。堪えられん。すまん…化野…」
「そら、まただ。君にそう呼ばれると、どうしてか、なんとも懐かし…。ん、ぅ…ぅ」
その瞬間、化野の中で、何かが弾けて壊れた。いいや違う。弾けたのは何かの殻。そうしてその中身が、やっと彼の中で光を浴び始める。それが、"ふたり"の始まりだと、そう言えるのかもしれなかった。
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08/11/22
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触れていた唇が、ゆっくりと離れる。長い長い時間が、経ってしまった気がした。それでも恐らくは、たったの数秒の出来事。喉が渇く。彼が、化野が欲しい、とギンコは歯を食い縛るほどの思いで願い餓えている。それでも、零れたのは済まなそうな震える声一つ。
「すまんな…気持ち悪かっただろ…」
ギンコの声が聞こえたろうに、化野は床に膝を付いて屈み、両手を割れたガラスの傍に置いたまま、ぴくりとも動かない。
「…実は、俺はあんたのことが…好きでな…だから…。い、一度くらい、こうしたくて…な」
「あ、あぁ…」
呆けている化野。嫌だったのなら、それなりの態度を見せてくれ。そうじゃなきゃ、残酷な、あんまり残酷過ぎる夢を見ちまうだろう。だから、冗談めかしてギンコは言った。
「なんだ。嫌じゃなかったのか? さてはそういう趣味か、先生。そんならそうで、俺も遠慮なく誘うんだがなぁ」
「いや。違うが。いや、違わ…ないのかな…。なんだか判らん。それほど、嫌じゃあなかったぞ」
「……へぇ…。じゃあ、俺を抱くか?」
「そこまでは…」
心臓が、破裂してしまいそうだ。化野というこの男が、何度転生しても珍しい事やものを欲するのは知ってる。だから「この反応」もそういう事だろ。期待すんじゃねぇぞ、とギンコは自分で自分の心を頑なにしようとする。
「そういう曖昧はやめてくれ。抱くなら抱く、嫌なら嫌と言えばいい。そうすりゃ諦めて、あんたの前から消えるさ」
「消える? だ、駄目だ…っ」
かしゃん、と床で音がして、視線を落とすと化野の手のひらが鋭く尖ったガラスの上に乗っていて。
「二択…?」
と、ぽつり、化野は言った。手のひらを上に向けて、血の色が滲む傷跡を、ぺろりと舌で舐め上げて、小さく苦笑。それからちょっと照れたように笑い、彼はギンコの顎に指を触れる。
「消えて欲しくない場合、選べるのは残りの一方だけなんだな? 生憎、経験は無いんだが、それでもよければ、このあと」
「…正気か?」
「それ、よく言われるんだ。あんまり変なものを、大枚はたいて買った時とかに。折角焦がれてくれてるのに、百年の恋も醒めちまうな。安心してくれ、同性愛に偏見はないよ」
「百年、じゃあない…」
「そりゃそうだ。言葉のあやだよ。せいぜい君は二十代半ばとかだろ? 俺と同じくらいかね」
顎に触れていた手を離して、化野はガラスに気をつけながら立ち上がった。それから医者らしい手付きで丁寧に、ギンコと自分の怪我の手当てをし、床を綺麗に片付け、それを済ませると、コーヒーの黒い飛沫の飛んだ白衣を脱いで、それをロッカーに押し入れる。
「色気が無いが、どこか安いホテルなんかでいいか?」
「…先生の家がいい。構わないなら…」
「いいよ、どうせ一人だ。狭くて悪いけどな」
淡々とした会話の間に、頬の熱いのに気付いた。項垂れて顔を隠したまま、ギンコは震えている。それに気付いた化野が
「やっぱり何処か痛いんじゃないか。別の日にした方が…?」
などと言ってくる。見当はずれ過ぎる気遣いに、ギンコは泣き笑いのような表情で、首を横に振るのだった。
続
08/12/06
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四角い部屋。
部屋に一歩踏み入ったとき、ギンコはそう思った。マンションの部屋の広さの割りに、家具が少ない。だから四角く真広く見えるのだろう。だけれどそこを通り過ぎ、その向こうの部屋へと入ると、そこにはものが溢れている。
「変に思ったろう」
と、化野は振り向いてギンコに小さく笑いかけ、問われもせぬのに語り聞かせてきた。
「妻が死んでから、もう一年だが、それからそちらの部屋は殆ど使っていない。キッチンもダイニングも、一人でいるにはあまり必要ないものなんだな。殺風景にしちまってて。比べたら、こっちの部屋はガラクタ置き場っていうか…。ははは」
「ガラクタ…」
「うん、そう…な、妻に言われていたんだよ。諦め半分、咎め立て半分のい言い方でなぁ。珍しいもんに目がなくて」
ベッドルームの両側の壁に、あとから作って取り付けたのであろう、大きな棚。上から下まで、なにやらびっしりと詰まっていて、ガラスの奥のそれらは、どこかで見たことなどないものばかり。眺めていると、化野がぽつりと言う。
「で、シャワー、どっちが先に浴びる? 俺から、で、いいか」
「……あ、あぁ。いや、どっちでも」
「なら、俺が先に浴びるから。何か飲み物でも入れていこうか?」
「いや、い、いらな…。いや、その、じゃあ、何か酒を」
つっかえつっかえに言い、手を振って見せたり、頷いたり、そんな忙しい自分の挙動がどうにも可笑しい。綺麗なグラスに、琥珀の酒が注がれて手渡され、その冷たさに、ギンコは少しは冷静になる。
念願の、だろう? ギンコ。どうして喜ばないんだ、俺は。
化野が俺を抱けば、また始まるのだ。
嬉しい。嬉しすぎて、どうにかなりそうで、
だけれど、
この化野の生涯を、また全て奪うのかと思うと、少しは後ろめたい。
持ったままのグラスの中で、からり、と氷が音を立てた。ぐい。とあおって、眩暈を感じてから、水割りでも随分とそれが濃いと気付く。それでも飲んで、飲み干して。奥のベッドにそっと腰を落とす。
シャワーの音が、ドアの向こうから聞こえる。それが途切れると、心臓が破れそうに高鳴った。でもまたシャワーの音。途切れて、それでもまたシャワーの。随分と念入りな…。そう、ギンコは思った。
やがて、化野がワイシャツをラフに着た恰好であらわれる。濡れた髪を見ただけで、直視できなくて、つい目を逸らす。願い続けたそこへ辿り着く為に、一つずつ、大事な階段を登っているように、一歩ごとの眩暈。それも毎回のことだったと、溜息をつく。
「バスローブもあるんだが、それは君が使うといい、壁に掛けてある。バスタオルは、おろしたての新品が無くて悪いが、一番新しいのを出したから、これを。ボディソープは緑のボトル。シャンプーは水色。使うかどうかしらんが、コンディショナーはクリーム色の。湯も溜めた」
そこまで丁寧に言い終えて、化野はつい、と視線を床へと落とした。
「ゆっくり、ゆっくり入ってきてくれ。最後の覚悟を決めるから」
「覚悟…」
「あ、いや! 言い方が悪かったな、すまんっ。ただ、したことないんで、君を抱く俺はきっと不慣れで無様だろうと、恥を曝す覚悟だよ」
「…嫌なら……」
「嫌じゃない。本当だ。君はとても綺麗だから、ちょっと、もう興奮してきちまってるくらいだ。始めればそれが嘘じゃないと、すぐ判るだろう。同じ、オトコ、なんだから」
もう一度、ギンコは項垂れ、それから化野の差し出すタオルを受け取る。擦れ違うとき、ちらりと化野の顔を見て、切なそうに目を細めた。ギンコが部屋から出て行くと、化野は、詰めていた息を長く吐いて、どかり、とベッドに腰を落とした。
「…正直に、言い過ぎだ」
化野は仰向けにベッドに倒れ込み、目元を片手で覆う。心臓の動悸が激しい。
「部屋に連れ込んだら、なんかますます…。興奮、してるのか? 俺。びっくりだ。まさか、最初にあった時からの一目惚れ…? はは。ほんとにびっくり、だ…」
ギンコの浴びるシャワーの音が、小さく部屋に響き始めた。
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08/12/12
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弾ける水滴の白が、白い蝶に見える。目を閉じて見える暗がりが、黒い蝶に塗り潰された闇に思える。こんなにも、こんなにも長い年月、自分を捕らえ続けているあの蝶たちの姿は、いつ思い出しても鮮明で恐ろしい。
蟲、という存在に、ひとは抗いきれやせんよ。だけれど、どれだけでも日々を費やして、俺は「化野」を探し、求め続けてきたのだし、これからもそうしていくのだ。
あぁ、とギンコは息をつく。冷たいくらいのシャワーを浴びて、無意識なままで体を洗い清めながら、壁の一つ二つだけの隔たりで、今、その向こうにある愛しい相手を想う。
もうじきだ。
もうじき、化野は俺を思い出してくれる。
嬉しくて、気が変になりそうなほどだよ。
あだしの、あだしの…。
気付けば体が酷く冷えていて、シャワーの温度を少し上げる。さっきからくらくらとしていたが、眩暈がする理由は判っているから、それが辛くとも何でもない。
何処か洗い忘れたところはないか。石鹸の泡が残ってやしないか。シャンプーの泡はどうだろう。コンディショナー? そんなの使った事はないが、使った方がいいだろうか。
ギンコはクリーム色のプラスチックボトルを手に取り、暫し眺めたあとで棚に戻す。ゆっくり…と言われたが、もう随分と時間が経ったように思う。早く、早くと逸る心に、自分で気付かないふりをしていたが、それも限界に近いのだ。
思い出してくれ、俺を。
そうして
好きだと、言ってくれ。
お前だけだと、言ってくれ。
ギンコはタオルで体や髪を拭い、壁にかかっているバスローブを着て、その前を掻き合わせながら部屋へと戻る。音もなくドアが開いて、その向こうにいる化野が、さっ、と緊張した顔を横に向けるのが見えた。彼は額に片手を当てている。
「なんだか急に、頭痛と眩暈がして、な…」
ぽつりと言った言葉に、ギンコは足を止めて何か言いたげに唇を緩めた。
それは記憶が、お前の意識の中で騒いでいるからだよ。
今まではお前のものではなく、前世のお前のものだった記憶。
それが今、お前へと押し寄せようとしているからだ。
「今、薬を飲んだんだ。頭痛はだから、すぐに治まると思うから、もう少し待っててくれるか。それともいっそ別の日に…」
「嫌だ…」
ぽつりと言った言葉には、隠し切れない痛みが滲んだ。この上まだ、待てと言うのか? もしも今夜、何か天変地異でも起こったら、二人はまた引き裂かれてしまうのに?
有り得ないそんなことをも思い、ギンコはもう一度繰り返した。
「ずっと待ってたんだ。だから、もう、待てない」
「いや、約束したことは、俺は守るよ。もしも別の日になったって、君を…」
言葉が途切れた。化野は顔を上げ、真っ直ぐにギンコを見つめながら、言葉を続けようとしていた唇を閉じ、それからまた何か言おうとして開き、何も言わずにまた口を引き結んだ。化野はこっそりと息を飲む。その頬に、ほんのりと朱が混じっていた。
「…まいっ…たな。目が逸らせない…」
其処にただ、立っている白い髪の男。そのバスローブを掻き合せた襟の内の白、浮き出た鎖骨の、そして首筋の白。裾から伸びた足の甲の白。足首の白。それへ一つだけ、色を添える翡翠の瞳。
「ほんとの、ほんとに…」
一目惚れらしいぞ、と続けられる筈の言葉は、寸でのところで化野の心のうちに秘められた。肌の色も麗しいが、髪の色なんぞ白銀だ。いつだか行った北の地の、寒い寒い雪の景色を思い出す。
「う…、いて…」
ぼんやりと、ギンコの姿を眺めながらも、化野は額に手を当てて眉をしかめていた。眩暈と頭痛は、さぞ酷いだろう。今までの「化野」もそうだったから、どれだけ辛いかギンコにも判っている。だけれど、待てやしないから。
「約束だ、抱いてくれ。今、ここで。下手だったって構いやしない。俺はもう待てない。もう死にたくなるほど待ってきた。だから、これ以上、一時だって、待てないんだ…っ」
近付いて、ギンコが化野の肩に触れる。顔を寄せ、その顔をそっと斜めにし、唇へ唇を近寄せる。それが重なった時、ギンコの、ではなくて、化野の脳裏に、白の蝶が舞う。それを覆い尽くし隠すように、黒の蝶が押し寄せてくる。
「蝶…が…」
「…化野。あだしの…っ、ん、ん…」
ベッドの上に押し倒される恰好になって、化野はそれでもギンコからの口づけを受け止める。彼が涙を流しているのに気付き、激しい頭の痛みと、吐き気までしてきそうな眩暈を堪えながら、化野はギンコの体を抱き寄せ、互いの身を反転させて、逆にギンコをベッドに組み強いた。
いつの間にか、ギンコの着ているバスローブは、肩から襟が落ち、前などすっかりはだけて、着ていないも同然だ。もう一度、ごくりと息を飲み込んで、化野は言った。
「そんなに、そんなにも、俺を好きになってくれてるのか…?」
「…あぁ、お前が居れば、他に何も」
「参った…。骨抜きに、されそうだ、な」
化野の眩暈や頭痛は、ゆっくりと薄れゆくようだった。今、此処に、幾度目かの、時が満ちていくのだ。
続
08/12/17
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化野は目の前の肌にそっと手を触れた。実際、どうしていいか判らないが、女を扱うように優しく、手のひらで首筋を撫で、鎖骨の窪みに指先を滑らせ、それからそっと胸へと愛撫していく。あ、と喘いでギンコは喉を逸らし、右手でシーツを握りながら、おずおずと左手で化野の背に手を回そうとする。
「俺の、何処が、そんなに…?」
ぽつり、と化野が聞く。些細な愛撫で髪を乱して、随分と甘い息をつく、そんな色っぽいギンコの姿を見ながらも、まったくの無言でいるのが、落ち着かない。男とするのは、こんなんでいいのかな、と心で思ってしまっている。
「…全部、全部だ、あだしの」
「そんな好かれるような…」
「好きだ、好きだよ…。もっと触ってくれ、もっと…もっ、と…っ」
ギンコはもどかしげに自分の体から、バスローブを剥ぐ。一糸纏わぬ姿で、彼は化野に身を絡め、そうしてしまってから、怯えたように手を引っ込めた。男同士のこういうことを、もしも気持ち悪いと思われたら? 記憶が戻る前に嫌われたら…?
怖くて、怯えて見上げれば、化野は驚いた顔で彼を見下ろし、安心させるように口づけをくれる。
「別に、気持ち悪くなんか思ってない。嫌がってもいないし。ちっと頭痛が辛いけどな。で、その…どう、すりゃいいのかな?」
「……あぁ、うん。じゃあ…。い、いれ…て」
俺ん中に、入って、きてくれ、と。そう告げたい。
でも、その前に、その気になってくれなけりゃ、と思い当たる。嫌がられるのを覚悟で、手をそろりと下へ這わせた。化野のシャツの前を、ボタン一つずつ外して開いて、ズボンのボタンも外して、ジッパーを下げようとして、手を押さえられてしまう。
「あ、やっぱ、お、男にいじられるのは…」
「…いや、無造作にやると、痛そうで、さ。何しろ、はは…恥ずかしいもんだなぁ、結構」
化野はベッドの上で身を起こし、そこで膝立ちになって、自分でシャツを脱ぎ、自分でジッパーをゆっくりと下げた。ジっ…と、微かな音を立てて前が開かれると、グレーの下着に包まれたそこが、もう随分と元気なのが判る。
恥ずかしい、と、化野は言ったし、無造作だと痛そうだ、とも言った。確かに、こんなんで勢い良くジッパーを下げたら、ファスナーが下着の布地を噛みそうだ。
「今、脱いじまうから、そんな、見ないで貰えるか? 恥ずかしいって、言ったろ」
「す、すまん」
思わず凝視していた視線を、顔を赤くしながら横へと外して、それから布が肌に擦れる音を聞く。着ているものを全部脱いだ化野が、改めて傍に体を伸べてきて、すぐ横から見つめながら、ギンコの髪をそっと撫でた。
「ま、少しは知識で知ってるから、続き、してみようか」
化野の手が、柔らかくギンコの太ももに触れてくる。撫でられて、ただそれだけで、酷く前が濡れてくる。殆ど無意識に脚を広げ、腰を浮かせ、ねだるような潤んだ目で、ギンコは化野を見つめた。
「して、くれ…早く…」
「下手だろうが、勘弁してくれよな」
「…うん、うん…」
見ようによってはみっとも無いような、そんな恰好で左右に大きく脚を広げ、腰を差し出し、尻に手を触れられて、とうとう後穴に化野の先端が、少し、入ってくる。
「ここか?」
「そ、そう…だ」
「痛くないのか?」
「痛くない。もっと腰、寄せて…っ。ひ…」
いきなり前をいじられて、ギンコは悲鳴を上げかけた。するするとそれを撫でて、化野はなんだかほっとしたような声を出す。
「いや、すまん。勃ってるのがお前もなら、そんな恥ずかしくも無いかな、とか思ったもんでな。ここ触られるのは、嫌か?」
「嫌なわけ…」
「ない、か。だったら、入れる前に少し、いじってやりゃよかったのかな」
「ぁあ、ぁあ、ぁ…」
色っぽい声だな、と心の中で呟いて、少し大胆に、ギンコへと腰を打ち寄せる。ぐ、と入り込んでくる熱に、ギンコは息を詰まらせた。その翡翠の色の瞳、気付けば随分と染まっている白い肌。乱れた髪が、汗ばんだ首筋や頬に纏わりついて、見つめれば見つめるほど綺麗だ、とそう思う。
さらに奥まで繋がって、痛いとか、嫌だったりとか、言いたいこと言ってくれよ、と、ギンコの耳元に囁いてから、化野は少しだけ、自分のしたいように腰を揺らめかせた。途端にギンコの奥が絞まって、快楽が倍に膨れ上がり、加減するのも忘れて激しく…。
「う、ぁ…ッ、ギン…っ」
「…あ……」
放たれたものは、酷く熱い。けれど、その時、ギンコの耳へと零れた化野の、そのたった一つの言葉より嬉しいものは、この世の何処にもありはせぬ。ギンコは自分も放ちながら、声の一つも出さなかった。
ただ、両手のひらで顔を被い、細かく肩を震わせ、止まらない熱い涙を零している。
「ど、どうしたんだっ、ギンコ。痛かったのか? 何か嫌なことしたか?」
「違う…。もっと、俺を呼んでくれ、化野」
「……え? ギン…コ?」
あぁ、その不思議さ。ついさっきまでは知らなかったことが、脳裏に確かに存在する。
海を見下ろす高台に、古い大きな日本家屋。
着物を着て座っている俺。
そうして幸せな、切ない気持ちで
目の前にいる相手を俺は、見つめているのだ。
この世でただ一人、心から愛した相手を…。
「ギンコ。お前の…名前…。い、て…」
忘れていた頭の痛みが、じわりと彼を襲った。
「なんだ、これは…。俺はお前を。俺、は…?」
「ゆっくり、思い出せばいい。無理をすれば頭痛が酷くなるから。俺の名前を思い出してくれただけで、嬉しいから」
「…いや、その」
ギンコがなんとか頑張って、繋がりあっていた互いの体を離す。う、と呻いてベッドに仰向けになり、化野は素っ裸のままでそれでも言った。
「もっと大事なことも、一緒に思い出したよ。どうりで、一目見た途端にお前のことしか考えられなくなるわけだ」
横になって左手で額を押さえたまま、頭の痛みに辛そうにしながら、化野は残る右の手で、ちょいちょい、とギンコを傍に呼び寄せた。頭を枕から浮かせ、啄ばむようなキスをして。
「…愛してる」
「…っ、お、お前っ、相変わらずだ」
顔を真っ赤にしてギンコはそう言う。涙はまだ、止まらないで流れていた。
続
08/12/23