対 想   6






「おお! セイゴにセキ、おめでとうっ」

 畑で働いていた島人が嬉しげに声を上げた。鍬や鋤を放り出し、共に居たもう二人と共に、彼らの方へと駆け寄ってくる。

「赤ん坊の顔を見せておくれよ。女の子だったんだってねぇ」
「あぁ、こりゃぁ、セキに似て美人になりそうだ」

 そんなふうに話掛けられ、赤ん坊のほっぺたを優しくつっついて貰って、祝福されて。でも、セイゴもセキも、石を飲んだような気持ちになった。なんて言っていいか分からない、声が出ない。だってきっと、聞かれるのだ。

「で? 名前はもう決めたのかいっ?」

 あぁほら、やっぱり、聞かれてしまった。いったいどう答えていいか、分からないことを。

「あ、あ…の」
「何言ってんだい、昨日の今日じゃないか? まだ考えている途中だよねぇ。ゆっくり考えて、いい名をつけてあげなけりゃあ」
「え…、えぇ…」

 もう、蕾、という名をつけた。その名を可愛い我が子にぴったりの、いい名前だと思っている。でも島のみんなに言うのは怖い。この子の花が、どんなふうだったのか話して、どんなふうに思われ、言われるのか、怖くて堪らない。皆の眼差しを浴びて、皆の言葉を聞いて、自分が果て無く不安になるのが、怖ろしい。

「あぁ、セキ、顔色が少し悪いみたいだ。産後すぐなんだし、あかんぼ抱いて転んだりしないように、早く帰った方がいい。引き止めてごめんよ。今日も霧が濃いから、気を付けてねぇ」
「……ありがとう、そうします」

 背中をさすられ、セキは歩き出した。それを庇うようにセイゴは寄り添い、化野も皆に会釈して其処を離れようとした。そうしたら後ろから、こんな声が届いたのだ。

「霧、って、何処にだい? こんないい天気じゃぁないか」
「そうだよ、昨日も誰かがそんなこと言ってたけど、ここんとこずっとすっきり晴れてるし、今日だって」

 化野は振り向いた。視野は相変わらず霧が濃かった。だからこそさっきまで、行灯を灯していたぐらいなのだ。たった今言葉を交わした三人は、畑仕事に戻っていて、もう天気の話はしていない。セイゴがかすれた声で、化野に聞いた。

「せ、先生、霧、ありますよね…」
「あぁ、足元さえ朧に霞むほどだ。俺には、そう見えるよ」

 大したことではないと思いたかった。けれど化野の心には、紛いようのない違和感が、濁り水のように残ったのである。

 



 化野たちの灯す行灯のあかりが、あっという間に霧に飲まれたあと、ギンコは白也に聞いた。

「島に、何か異変があったら、知らせてくれと言ってあったな」

 あまりにも淡々と問われて、白也はギンコの顔から視線を逸らした。まるで罪を告白するように、彼は震える声でこう言ったのだ。

「何も…何も無かったんです。本当です。霧が毎日酷いこと以外、島には何も。ただ、花が…」

 ずっと真っ白だったはずの、
 自分のヌシの花に、青が一瞬混じった。
 ただ、それだけで。
 だから別に、島の異変だとは…。

 ギンコは白也の言葉を聞いて、しばらくの間黙っていた。白也を見つめるでもない、何か言うでもない、かと言って立ち去ることもせず、ただ表情の無い顔で、白い霧を見ていた。濃いむらのある霧が、視野を途切れずに流れていく。足下に今も地面があることが、幻のように思えそうだった。 

 白也は長い沈黙に怯え、まるで言い訳のように言葉を繋いだ。

「花の色が変わるのは、有り得ない事じゃないんです。人の運命は、時には変わるものではありませんか。
 …あぁ、そうです。サナミさんがまさにそうでした。当時の神官が記した記述に、はっきりそうと残っている。彼女が生まれた時に、本当のご両親が見た花は、透けるような薄茶だった。
 でもミツさんがサナミさんを引き取ったあと、もう一度ここに来て見て摘んだ花は、薄紫だったと。彼女の運命が、そこで変わったからだと、そう取れる。古い記述を今一度さらえば、それ以外にも例はあるかも。だから」

「白也」

 ギンコは焦ったように続く白也の声を、彼の名を呼ぶことで遮った。彼に縋ろうとするように、宙に浮いている白也の手の片方に、やんわりと触れて、穏やかに諭す。

「別に俺は、あんたを責めてるんじゃない。落ち着いてくれ。事実が知りたいだけだから。他に、何か気付いたことはなかったか?」

 白也はようやっと少し落ち着いて、深く息を吐いた。手の震えも徐々に止まり、彼は今までずっと震えていた手で、己の顔を軽く覆う。

「…他には、何もありません。ただ、霧はどんどん濃くなっていってます。間違いなくそうです。家の傍よりも此処。毎日漁に使う浜以外の、海の傍、岩場の方も。人の住んでいない場所、あまり人の行かない場所。そういう方向に行けば、より濃いように思えるんです」

 そう、まるで、
 そっちへ行くな、と、
 禁じるように。

 そこまで言って、白也が口を閉ざした。それこそ、自分の今言った言葉が、禁忌に触れるのではないかと、怯えているような顔だった。ギンコは、わかった、と短く言って、白也の傍を離れた。
 
 その、離れる方向が、ヌシの場所を斜めに横切るような方向だったから、白也は酷く焦って引き止めた。

「ギンコさんっ! 何処に行くんですか。そ、それに、そこを踏んで歩いてはなりません…っ、ヌシ様の場所ですから」
「……あぁ、そう、だったな」

 止められて、それでもギンコは遠くを見ていた。ヌシを足下にすることなど、本当はなんとも思っていないような目だった。

 彼にとって、
 本当に大切なものは、
 ただ一つなのだ。
 ヌシなど、理など、
 どうでもいいと。
 時には、そう…。

「なら、白也。普段人の行かない浜は、どっちに行けば近い? 砂浜でも岩場でも、何なら崖の方でもいい。確かめてくる」

 白也はそんなギンコを見て、竦むほどの畏怖を感じた。けれど、ごくりとひとつ息を飲んで、覚悟を決めたように歩を踏み出す。

「こちらです。私も、貴方と一緒に、行きます」

 歩き始めたギンコの足は速い。段々と霧は濃くなり、己の膝下すらよくは見えないというのに、戸惑う様子ひとつ見せてはいない。足元が見えないのだから、目の前の数メートル先など当然見えないのにだ。

「ギ、ギンコさん…怖くは無いのですか?」
「あぁ」
「…ど、どうして? すぐ目の前に、何があるかも分らないのに、なぜそんなに」
「……さぁな、死なないからじゃないのかい?」

 何でもないことのように、いっそ笑みさえ含んで言われた言葉。白也は慄いて言葉を失ったが、真っ白な世界に、ただただ飲まれていく気がして恐ろしく、どうしても黙って居られないように、さらに問い掛けてくる。 

「ヌ、ヌシ様の怒りも、少しも、怖いと思わないのですか…?」

「…止まって」

 問い掛けに跳ね返ったのは、それへの答えではなかった。よく聞き取れなかったのか、聞こうとした白也は、ギンコの横へ並ぶように立とうとし、いきなり足を踏み外したのだ。がくり、と視野から沈んだ白也の腕を、ギンコは咄嗟に強く掴んだ。同時に半歩下がって身を沈め、膝をついて、そこに生えている下草を、もう一方の手で握る。 

 声すら立てられず、白也は必死でギンコの腕にすがった。彼の怯えた目は、けして後ろを見ることはなく、白也はゆっくり引き寄せられ、白い霧の下の地面へと救い上げられた。

 救われてから、白也は背後に目を凝らした。霧がところどころ薄れて、その向こうが見えているのに、大地はその先には、無かったのだ。ずっとまだ先まで続いていた地面が、白也が足を踏み外した場所から、溶け消えるように途切れている。

「大丈夫か…?」
「し、島が」
「白也」
「島が、き、消え…」

 かちかちと歯を鳴らしながら、白也はギンコの手に爪を立てた。満身の力が込められて、ギンコの手の甲からは真っ赤な血が滲む。けれども白也の見ている前で、その血はすぐに止まり、傷も嘘のように消えていった。

「ギ…ン…」
「…白也、落ち着いてくれ」

 こんな時だと言うのに、心の何処かで、白也は思っていた。

 この人は、普通じゃない。こんなにも恐ろしい、島の異変を目の前に、あまりにも、あまりにも静か過ぎる。その姿が異質過ぎて、気味が悪いのだ。死なぬ人間というのは、こうも、掛け離れているものなのか。

 白也が自分に向けている眼差しを、黙ってギンコは受け止めて、それから数歩分、白也から身を離して、彼は言った。

「これは、俺やあんただけで対処の出来ることじゃない。助言を得に行った方がいい。イサに…。いや、イサを含む『彼ら』に」 

 

 続











 予定通り、ではあるのですが、どう表現するか、何処で何を明かすかが、とても難しかったです。いや、現在進行形で難しいです。今回は島の中のことだけでしたが、今度はタツミとイサと爺様の方を書かなくちゃ。あ、化野の実の妹のことは、ちょっとだけ置いといて…。

 それにしても、ギンコのことを白也があんなに怯えるとは。いや、違うな、怯えるのはなんか分るんだよ。寧ろ島の異変を目の当たりにしたギンコの、あの異様な静けさは何だろう。書いてて私も怖いです。

 本当は優しい人が、優しく居られない人になってしまった時、一番つらいのは、その当人なのでは、と私は思う。誰かより誰かを優先する時、その判断を下す人間が、痛みの一つも感じないわけではないと、そう思うのですよ。

 あ、意味わかんないですよねっ。

 ともあれ、もう6話目となった「対想」をお届けします。タイトル「対想」なのに、今のところ先生の出番があんまり…。かもですー。



2017.07.17