対 想 19
触れた途端、化野は微かに震えた。己の中に存在した様々が、すうっ、と何処かに引いていくような気がしたのだ。ギンコと出会う前の過去など、いったい俺にあったのだろうか。
医者として働いていた大病院の、理事長、他の医師、看護師、受け持った沢山の患者。名前も顔も覚えているのに、でもそれらが記憶の中で変に遠い。イサに教えられそうだと知り得た、実の妹の姿。どうでもいい筈の無いそのことすら、もう今は、見たと錯覚しただけの幻のようなのだ。
自分の中にあった筈の記憶が、もう一度、全部消えていきそうだ。だけれど、ギンコに触れると、入れ替わりに化野は満たされる。他のものなど何一つ留められないほどに、指の先まで、髪ひとすじの先まで、血の中にさえも、ギンコが。ギンコだけが。
あぁ、
俺は真に
お前の為だけの
存在なんだな
分かり切っていた筈のことを、ふと思った。そしてベッドに仰臥したギンコの唇を吸い、肌に触れた。ギンコはそれらを受け止めながら、音の無い声で何かを呟いた。
すまない。
と、そう言ったように思える。化野はその言葉の意味を、問えなかった。ただ、首を数回横に振って、同じように声の無い声で言った。
好きだよ、ギンコ。お前だけだ。
だから幸せだ。だから不幸などではない。謝られることなど何もないから、お前もどうか幸せでいてくれ。俺の傍で。俺の隣で。
キスをしあって、肌を重ねて、身を繋げて。どれだけ時間が経っていただろう。広いベッドで眠らずに、どちらからともなくこれからのことを話した。
「俺は島に居た時と変わらずに、渡守りをする。まだ詳しいことは決めてないけどな。何しろ色んなことが急すぎた」
「あぁ、ほんとうにそうだな。俺のすることも前と変わらんのだろうよ。医者として、今此処にあるもの、此処に用意できるものだけで、此処にいる人たちを守る」
「……辛いことも、あるかもな」
ぽつん、とギンコは言った。イサに強く釘を刺された、そのことだと分かった。近くの街まで陸続き。電車に乗ってほんの数分の距離だ。其処に連れて行きさえすれば助かる筈の命を、出来ぬことと、諦めねばならない苦しさ。
「…大丈夫さ。新しいヌシ様が前と同じに、きっと皆を守って下さる。それで救えぬ命は…」
化野の言葉は震えていた。だから彼は一度言葉を切って、それから無理にでも震えを止めようとして、強く言ったのだ。
「寿命、なんだろう」
けれど言い終えた化野の息が、まだ抑えようもなく震えている。ギンコは彼の唇を自分から塞いで、長い、長いキスをした。彼の震えを止めてやれるまで。
「基本的には島の時と同じ」
翌朝。温室の奥の椅子に座って、イサは静かに話をしていた。
「してはいけないことは、この土地から出ること。それだけだね。屋敷と温室の傍には門があるけど、こっちの山の中にはどこまでが貴方たちの土地、っていう柵も印もない。もしも境目に近付けば、あなた方には感覚で解る。ヌシが行くな、と教えてくれる筈だから。まぁ、山ひとつ全部がタツミの土地だから、そう簡単には境目に近付くこともないと思うよ」
温室に集まっている人びとを前にして、こんなことを言わずとも、とは思ったが念の為だ。彼も、此処にばかりそうそう長居はしていられない。
「そうそう、広くは無いけど、館の裏に畑があるよ。野菜のと、薬草のとね。此処って前からちょっと自給自足っぽかったからさ。保存のきく食材も幾らかは用意するから、数日待ってて。この人数で暮らすには、いろんなものが足りなくて、しばらくは不自由だと思うけど、あなた方なら助け合ってやっていけるね」
みんな真剣に聞き入って、それぞれで頷いている。不安そうにするものもいないし、ましてや不満な感情など、誰も持たない。
「住む場所は、館の中の部屋を分け合ってもいいし、なんなら山の木を伐り出して家を建てたって構わない。怪我には気を付けてよね。ひと月に一度くらいは様子を見にくるし、前と同じに数か月おきに、渡守りが中と外を行き来して、どうしても必要なものを調達する」
皆が頷くのを見て、イサはほっとした顔で言葉を収めた。
「じゃあ俺、外でしなきゃなんないこと色々あるから、そろそろ行くよ」
タツミの土地を引き継いだのは彼だ。そしてタツミが此処でしていた、薬草などの販売を引き継ぐのも、イサとイサの仲間。考えることは幾らある、やることだって幾らでも。でもそれを彼らに話す必要はない。
ちらり、イサがギンコを見た。気付いて彼を追って行き、ギンコと彼とは、門の前で少しだけ話をしたのだ。
「あのさ。先生、変わりない?」
「…いろいろ、思うことはあるみたいだけどな」
「そっか。何かあったら、相談に来て。島よりは俺んとこ来やすいしさ」
「あぁ、分かった」
たったそれだけの、本当に短いやりとり。門を開けて、隙間を通り抜け、閉じたその向こうからイサは手を振り、背中を向ける。けれども去りがたく、今一度彼が振り向いた時、もうギンコの姿は其処にはなかった。
その翌日、新しい「里」を皆で見て周っている時「其処」は見つかった。誰もがその場所を踏みつけることなく、不自然に左右に割れたのだ。丁寧に探すと、畳半畳分ほどの、平たい石。皆で伏し拝み、白也からひとりひとり、順に手を触れた。
数輪ずつではあったけれど、確かにそれぞれの花は咲いて「ヌシ様」は其処に明らかな存在を示す。ギンコはそっとその場を離れてしまっていたが、後から化野に、何が起こったのかを聞いた。
「蕾ちゃんの花も、ヌシ様は見せてくれたよ。ちゃんと花が開いた。ほんのり中心にだけ紅の滲んだ、真っ白な花だった。ほっとしたよ、本当によかった。それでな、俺にはよく分からなかったんだが、白也曰く、次の神官はどうやら蕾ちゃんだと言うんだよ。なんでも、彼が神官に選ばれた時と、花の現れ方が同じだと」
「………あの子が…」
己が選ばれかけていたことなど、おくびにも出さずにギンコはその話を聞いた。今は白也が神官を代行して、彼女が物心ついた頃から、少しずつすべきことを教えるそうだ。
諦めが早いヌシ様で、助かる。と、ギンコは小さく、笑った。
蟲と蟲の間にも、力量の差は歴然としてあるのだろう。ギンコはこの土地に棲まい、新しいヌシの民の一人ではあるが、より以上に、彼自身の中に在る、時を司る「蝶」に囚われている。それ故、死なず永遠に「化野」を追い求めるのだ。
いつか「化野」が死んで、とうとうひとりになった後、民の一人として。そのまま此処に居続けることは出来ない。どんな手段を使おうと、そのせいで何が起ころうと、ギンコは此処を出て行くのだ。
「でも、まだまだ、ずっと先のことだ」
ギンコの言葉に、化野は頷いて
「そうだな、蕾ちゃんはまだ生まれたばかりだからな」
と、何も気付かずに、そう言った。
がたたん、とととん、がたたん。
流石に疲れたのだろう。電車の中で爺さまは眠っていた。その体が座席からずり落ちないよう、イサは眠気を誤魔化しながらずっと起きている。何も出来ずに揺られていると、どうしたっていろいろ思ってしまう。
蟲のヌシに守られた土地、のこと。
今は手元にないけれど、彼は想像の中で「あの本」のページを捲った。何度も読み返した一文が目の前に見えるようだ。
その地、貧しくも真に豊かなりて、
底深き谷、急峻なる峰、
海果ての島なるも、我らの乞う土。
我ら、流れ暮らすものどもの欲す、
安らかなる土となりぬ。
イサザ、という名の遠い昔のワタリの長が、記したという本。そもそも最初にその土地を見つけたのも彼だったという。ギンコにとって、かけがえのない友だったのだと、それだけをイサも知っている、今はもうどこにもいない存在。
あぁ。
本当に、ギンコ。
お前にとっても、
そうなればいいのに。
イサは、イサザが、そう思ったのとまったく同じことを思ったのだ。百年以上もの時すら越えて。
流れ暮らす
ものの欲す
安らかなる
土となれ…
終
「対想」というこの話はここで終わりなのですが『箱庭シリーズ』が此処で終わりなのかどうかは、ちょっと今は分らないです。随分長く書いて来たけど、結局まだ謎のままのことはあるし、書いていないこともある。
でも「対想」を含む『箱庭シリーズ』を含む【螺旋シリーズ】は終わっては居ないので、此処で書けなかったことは『箱庭シリーズ』の『次のシリーズ』に持ちこされ、其処で物語にいかされるのやもしれません。
えっ? あのことは? とか、もやもやしちゃうかもでゴメンなさいですっ。土下座っ。でも【螺旋】は暫しお休みして、別の止まっている連載も進めねばねって思うし。頑張りますよ〜。
長い長いこの『箱庭シリーズ』を、少しでも読んで下さった方に「ありがとうございました」。
2018/08/06