ぱんやさん
 





「ほら、ここここ!」

 手を引かんばかりに嬉しそうな声で言って、イサザはその店の扉を押す。からん、かららん、と昔懐かしいような、まろい樹の鈴の音。その音を潜るように店内に入ると、そこに満ちいてた空気には、ひどく食欲をそそる匂いが沁みていた。

 焼き立てのパンと
 少し焦げたチーズの香り

 外に立ててあった看板の上のところに、素人味たっぷりの写真が一枚、貼ってあって、それがこの店の自慢であるらしい。

 分厚い分厚い、ピザトースト

「…ええっと」

 三人かそこらしか座れなそうな狭いカウンターの他は、向かい合って二人が座れる小さなテーブル席が、たった二つだけ。その席にイサザと向かい合って座って、古びたメニューを手にする化野。

「ピザトーストのセットふたぁつっ、コーヒー先でっ」

 まだ選んでいるのをすっかり無視して、イサザはカウンター奥に向かい、大きな声でそう告げている。小さなテーブルに両肘で頬杖ついて、間近から真っ直ぐ見てくる眼差しは、まるで子供のように見えた。

「で、いいよねっ?」
「あぁ、いいよ」

 化野も笑ってそう言って、メニューを元の位置に戻した。それを確かめたように、奥から、はぁい、と返事の声がする。

「で、どうして今日」
「んん? 気分転換、かな、ただの」

 いいだろ? 何時間かくらい付き合ったって。そう言ってイサザはぐるり、狭い店内を見渡した。

「この前ね、バイトに向かう行きにここ通ったんだ。寝坊してちゃんと朝ご飯出来なかったもんだから、この店から零れてる匂いに、ふらっ、と来てさぁ。時間無かったから寄れなかったけど、絶対来よう、って思ってたんだよ」
「うん…」

 そう、そんなふうに時々こうして、
 意識して気分を変えなきゃ、って思うぐらい、
 自分たちは一つのことばかり、思っているから…。

 そうやって思ったことは言葉にせずに、ただ笑んで、化野もイサザを真似るように、店内を眺めた。

 外の看板と外観は酷く古びて見えたが、中は意外に新しいだろうか。でも新しい匂いがするほどじゃない、この店の壁にも天井にも、香ばしい焼きたてのパンの匂いと、コーヒーの匂いが沁みている感じがする。

 何を話すでもなく、二人は店内の小物やら、棚に並べてあるカップやら皿やら、奥にちらちらと見える店主らしき人の姿やらを目に映している。黙っているのが気にならないほどには、もう互いに馴染んだ相手になったのだと、ぼんやり何処かで思った。

 自分たちと、あともう一人、ここに居て欲しい人のことを、どうしても思ってしまいながら…。

「はい、まずは珈琲、お待たせしました」

 やがて、小柄なおばあさんが、二人分のコーヒーを運んでくる。入れ立てのいい香りがして、化野は、すう…とそれを吸い込んだ。可愛い毛糸の帽子を、三角巾代わりに被ったおばあさんは、にこにこと笑顔でカップを置く。

「トーストは、もうちょっと待って下さいねぇ。…あら?」

 化野の方と、イサザの方へ順に軽く会釈したおばあさんの眼差しが、ふと、イサザの顔の上で止まる。

「前に、も…?」

 自信なさげなそんな言葉で、何度か来て貰っているかしら、と聞き掛ける。イサザは首を傾げ、今日初めてだよ?と返事をしたが、おばさんがつけているエプロンのロゴに、自然と視線が吸い寄せられて。

「…初めて、だった筈だけど。なんか」
「知ってるような、気がする、わよねぇ…?」

「すいませんね。もうすぐだからね。当店自慢の、ピザトー…。…おっ、お前さん…?」

 奥から、サラダの皿とナイフとフォーク、それからタバスコの瓶なんかを掲げて出てきた、白衣のおじいさんがイサザの顔をはったと見て、一生懸命何かを思い出す顔になる。

「お前さんは…多分、知っとるぞ。そう…。ああ! そうだそうだっ。ほれ、おまえも覚えてないか? パン屋の時に、近くの公園で、よく遅くまで」

 言われてイサザの中にも記憶が蘇る。そうしたら口の中にまで、どんどん、記憶が溢れてくるようだった。時々、わけてもらった売れ残りのパン。甘いクリームパンにチョココロネ、芥子の実のかかったアンパンに、甘くないけど一番香ばしかったクロワッサン。

 そう、そのベーカリーの名前は、そのまんまのストレートな…。

「ぱんやさん!」
「そうだよ、あたしらぱんやさんのおばさんにおじさんだ。あぁ、そうだったよ、懐かしいねぇ。驚いたよ、おっきくなってぇ。あの頃こんなだったのに」
「そりゃ、あれからもう随分なる、し…」

 目線の高さも同じで真向いで、だから化野にだけは分った。イサザが、ほんの少し沈んだ顔になったこと。会話に混じれないまま、何をしてやれることもなく、化野はその理由を知ることになる。

「あん時、いつも一緒に居たもう一人も元気かい? ほらあの、白い」

 白い髪をした、物静かなあの子は?

 そう、親しみを持って続いた言葉に、イサザは一瞬だけ項垂れ、それからぐい、と顔をあげる。

「元気、だよ…っ」

 言い出しが揺れてしまいながら、強く放たれたイサザの声。それへと被せるように化野は静かに、そしてやっぱり強く、こう言った。

「ギンコ君は、すぐは連れて来られないですけど、そのうち彼も連れて一緒に来ます、必ず」
「そうか、あの子はギンコっていうのか。それでお前さんは、イサザ? それからアダシノさんね。おぅ、楽しみに待ってるよ」

 言いながら店主は奥へと一旦急ぎ足で戻って行き、両手にピザトーストの乗った皿を乗せて、再度現れる。合図も何も無いのに、丁度の焼き上がりが習慣で分かるのだろう。運ばれてきたトーストは、まだチーズが、生き生きと膨らんだり萎んだりしていて、見るからに美味しそうだった。

「うわっ、おいしそ!」
「熱いからな、火傷すんじゃないぞ? よく気を付けてな?」
「いただきます」

 まるで時があの時に戻ったように、小さな子に言うようなその言葉、くすり、と笑いながら、化野もそのトーストを両手で持って、端の方からかぶりつく。糸を引くチーズの、熱いことと言ったら。

 はふはふと口の中から熱を逃がしつ、真向いのイサザを見ると、半ば涙目になって、同じようにイサザも喘いでいた。少し、目が潤んでいるのは…。

「あー、もうっ、あいつ何で今居ないんだよっ。ほんと、居なくてかわいそっ。こーんな美味しいの、俺、初めてだよっ」

 美味し過ぎるのと、熱くて舌を火傷したのと。そのせいみたいなふりをして、イサザはぱちぱちと瞬きする。涙目になっているのを、そうやってなんとか誤魔化しながら、美味しいのは本当で、また大きくひと齧り。

 真向いの化野が彼にしては見たこともない大口を開けて齧りついていたので、咀嚼しながら、ふふ、と笑った。

「先生が、居てくれて、よかった、な」

 咀嚼しながらの言葉に、大きな一口を噛んで噛んで飲み込んでからの、静かに返事。

「俺もだよ」
「二人がかりで、ここにあいつを連れてこようよ」
「うん、絶対だ、約束」

 当の本人が今不在でも、構うものかと交わされる約束。証人はこのお店の店主と奥さんだ。そしてこのほっぺが落ちるほど美味しいピザトーストと。

 サラダとトースト、そしてコーヒーはもう一杯おかわりして、それもすっかり飲み干して。入り口そばのレジで会計も済ませ、もう一度、また来る約束をした後で、さて帰ろうかとドアをくぐったら、藤編みの籠を持ったおばあさんと、奥に居た店主までもが、外へとついて来た。

「実は今日はここでお店を開いてから、丁度三年の記念日でね。だから来てくれた人に、お持ち帰りで焼きたてのパンを。どれがいい? どれでも好きなの二つずつ、選んでいいよ」

 おじいさんが籠を持ち、おばあさんが片手にパン用のトングと、もう片方の手にビニール袋。化野とイサザは散々悩んだ末に、クリームコロネとチョココロネ、メロンパンとクロワッサンを選んだ。選び終えて袋を受け取ったのに、おばあさんはまだ待ち顔でトングを構えていて、横に居たおじいさんが、

「あの子の分も、選んでいいぞっ。食べたら絶対、うちの店にすぐ来たくなるっ」

 あぁ、それは、
 無理だ。
 届けられるような場所に、
 今、彼は居ない。

 でもイサザも化野も、何も言わなかった。甘いものがそう得手でないギンコの為に、塩パンと、パターパンを一つずつ選んで、袋に入れて貰い、またくることをもう一度約束する。

「あ、そうだ、今のこの店の名前って」

 帰りかけて振り向くと、まだ其処に居た夫婦が笑っている。

「あんまり変わっちゃいないよ。殆ど"まんま"さ」

 おばあさんが指差す先で、看板に踊る手書きのような文字が。

『PanyaSanCafe』

 確かに"まんま"だ。これは忘れようったって、忘れっこない。

「イサザ、また近いうち来よう。何度目でギンコと一緒に来れるか分からないけど」

 そのたび、あの子はまだ来れないのか、と言われて、心は痛むかもしれないけど、それでもいいから。

「うん、俺もそう思ってた。またアツアツのチーズで舌を火傷して、涙目になる覚悟でね」

 からん、かららん。後ろから樹のベルの音がした。振り向くと、小さな子供の手を引いたお母さんと、もう一組、恋人同士らしい二人が、その小さな店に、入って行くところだった。




終 









 故あって、本当は昨日書き上げたかったんです。一日遅くなってしまって。でも、以前あるお店で食べた、ぶあつーーーーーーい、ピザトーストの味を思い出そうとしながら、そしてここに登場の二人の気持ちを考えながら、一生懸命に書いたお話です。分かりにくくても、この話はワンフレーズの一部となりますので、このページへ飾ることにしますね。とりあえず、遅れたけど書けてよかったです。はいv

 ところで、なんで外に出てパンを渡すかって、何故でしょう。焼き立てなんで、冷ます? いやー、昔は外に見えるショーウインドウがあるパン屋さんだったでしょうから、通る人に見えるとこに、年に一度くらい出して宣伝したい元パン屋の開店記念日なのかもです。他にも考えたんだけど、流石にそれ入れると長くなるし。

 そんなこんなだよー。ありがとうございました。 


15/12/17