続・シロオオカミ  4





 ちゃぷん…

 何か、音が聞こえる。ゆらゆらと揺れるものの中にいて、体が温かくて、とても気持ちがいい。手足の力がすっかり抜けていて、ベッドにいる時みたいに、随分楽で。あぁ…なんだろう、また…音が…。

 ちゃぷ…。ちゃぷん…

 …分かった。これは水の音だ。じゃあ、蛇口から水が滴る音かもしれない。台所だろうか、それとも風呂場。昨日、風呂に入った時に、きっと締め方が緩くって、だから水が滴り落ちてて。

「ん…。み、ず…」
「…化野」

 え…。今の、声は…?

 その声を聞いて、化野はやっと薄っすら目を開ける。それでもまだ彼は呆けていた。少し離れて向かい合う場所に、白い髪の、碧の綺麗な目をした男の顔が見える。あぁ、あの店の、自分の大好きな、ギンコだ。

「覚めたのか? そっち…、もう一回、右手を貸しなよ」

 ちゃぷん、と、また水の音がした。ギンコは湯の中で手を伸ばして、少し開いた膝の間にある、化野の右手を掴まえる。

「まだ少し、痺れてるだろ?」

 化野の片手を掴まえて、自分の膝頭の上までゆっくりと引き寄せ、ギンコは彼の右手を握っているのだ。そうして丁寧に両手を添え、指の一本一本を伸ばさせて、折り曲げさせ、関節の一つずつを柔らかく揉んでいた。

「な…。ギ…ギンコ、君…っ?」
「…またその呼び方か」

 小さく息をついてギンコはそう言った。ぱしゃん、と、今度は少し強めに水の音が鳴る。化野が無意識に手を引っ込めようとするのを、抗わずにすぐ離してやり、静かな表情をして、ギンコは化野を見ていた。

「こ、ここ…っ?」
「…風呂場だよ、あんたの家の」

 その、風呂場の、広くはない浴槽の中。たっぷり湯を溜めて、男二人で、勿論、一糸纏わぬ裸で向かい合って、化野とギンコは互いに両脚を曲げて縮込め、狭い場所に収まっている。情況がやっと分かり、化野の頬が見る間に赤く染まるのを、表情も変えずにギンコは見ていた。

「今、まだ九時前だ。時間は充分あるだろ? …手」
「え? あ、あの…っ」
「………」

 ふう、とギンコは二度目の溜息を付いた。ついさっきと同じように、ギンコは手を伸ばして化野の片手を掴む。そしてさっきより少し強めに、関節を揉んで、手のひらを揉み解すようにマッサージを始めた。

「ゆうべのこと、何も覚えてない、なんて言うなよ?」
「…ゆうべ」
「あんたは俺をこの部屋に招き入れたんだぜ? せっかくのお楽しみも、大して味わえないうちに、あんた、あっさり気ぃ失っちまったけどな。で? アレは? なんか変な感じするか?」

 アレ、とぼかして言われて、その意味が化野の頭の中で形になる前に、ギンコは初めて、はっきりと笑って言い直した。化野が酷くうろたえるのが、彼にとっては面白い。

「アレだよ、あんたのペニス。ゆうべ、あんまりあんたの後ろが緩まねぇから、しょうがなく俺が刺される側をやったんだけどな。初めてのわり、結構良さそうだったぜ…?」

 気ぃ遣ってヤったつもりだけどな、とギンコの言葉は続いた。

「手とか口で扱くのとは締め付けが違うから、初めてんときは、中で擦れて、かなり痛ぇって言う奴もいるぜ? 痛くないか」

 そうだった。昨日は、後ろに指を入れられただけで、泣き喚きたいくらい痛くて痛くて、そしたらギンコが、脚を開いて乗ってきて…。生々しく思い出しそうになり、思わず化野はきつく目を閉じた。

「い、痛く…は、ないと、お、思っ…」
「じゃあ、あとはこっちをなんとかすりゃいいな。…あんたの手、両方とも、今はちゃんと動かせないと思うぜ? ヤってる間中、あんたはシーツを握り込んでたんだ」

 ギンコはずっと、優しい手付きで化野の手を握っていた。言われてから、化野も初めて気付いたが、確かに両手とも指の一本一本、その関節の一つずつが鈍く痛んで、力がちゃんと入らない。無理に握ろうとすると、指先が小刻みに震えてしまう。

「もう少し、温めながら揉んでいれば治る。悪ぃな、こっちも案外ヤってることに夢中で、握ってるあんたの指を、開かせてやりゃよかったんだが、気付かなくてな」
「…あ…あり…。あの…」

 ありがとう、と言いかけて言葉に詰まった。ゆうべ、言うな、と言われたのを覚えている。不自然に言葉を切って、気まずくなって顔を覗き込めば、真正面にいるギンコは、少し伏目勝ちになって、今もまだ揉んでやっている化野の手ばかりを見ていた。

 伏せた目の、その白い睫毛が綺麗で、風呂場の白い明かりに照らされる、ギンコの白い肌が眩しくて。体を気遣って、こんなにも優しくしてくれることが幸せ過ぎて…。化野はどきどきと鼓動を高鳴らせている。

「ギンコ…ってのは、呼び辛いか?」

 そんなふうに、ぽつん、と、ギンコが彼に聞いた言葉が、すう…と、化野の胸に染みていった。あぁ、好きだ、と、そう思った。

「…そんなこと、ないよ……ギンコ」
「じゃあ、君、なんて、もういらないぜ?」
「うん…。うん…」

 頷きながら出した化野の声が、はっきりと震えていて、ギンコは三度目に溜息をついた。その視線が化野を見る。そうして浴槽の中で膝立ちになって近付いて、化野の両頬に手を伸ばし、触れた。笑ってなどいなかったが、彼の瞳が優しく見えた。

「なぁ、あんまり惑わせんなよ」

 言ってから、ギンコはキスをする。何度もついばむように、悪戯でもするように軽く、小刻みに。

「…部屋のキー、貰ってくぜ? 化野。返して欲しくなったら、いつでもそう言いな。しつこくなんか、しねぇから」

 ギンコは立ち上がって浴槽から出ると、冷たいシャワーを、ざっと体に浴びて出て行った。あのキーを、返して欲しくなるなんてことはない。すぐにそう言えばよかったと化野は思った。それから、ケータイの番号を、教えるか教えてもらうかすればよかったと。

 温い湯だけれど、そろそろのぼせてしまいそうで、浴槽の底に座ったままで栓を抜いた。減っていく水の感触が、肩から胸へと徐々に下りていく。

「…ギンコ……」

 余韻に浸って呟いたとき、風呂場のすぐ外で、聞きなれた目覚まし時計のアラームが響いた。急いで脱衣所に出て音を止めれば、時計の差す時間は十時。今から支度してバスに飛び乗ると、丁度いい時刻に病院に着く。

「…って、なんで?」

 いつもは寝室にある時計だ。アラームをセットしたのも、風呂場にいても聞こえるここに置いたのも、ギンコしか考えられなくて、化野は思わず目を瞬いた。あんまり親切で、気が効きすぎて、それが可笑しい。なんだか似合わない。

 だけれど、目の前の鏡に映っている自分の顔は、どうみても満面の笑み。幸せそうな顔をしている。そうだ、聞こえないなら、構わないだろう、と、そう思って化野は呟く。

「ありがとう」

 確かにこんな親切は、ギンコに似合わないかもしれない。でも、似合わなくたって、全然構わないじゃないか。だって、今まで女性との恋愛すら、ちゃんとした覚えのない自分が、いつの間にか、こんな恋をしていたのだから。

 あんな仕事をしていて、同性と平気であんなことをして、朝からあんなことを平然と言葉にする相手に、本気で恋をしたのだから。

「好きだよ、ギンコ」

 そう言って、化野はひどく満足そうに笑ったのだった。
















 好きだよ、で始まって、好きだよ、で終わる! えーと。

 終わり方が超ベタで申し訳ない。「本番をしましょう」というコンセプトでお送りしました。らしくない優しいギンコ、好きですよ、私。意外?に抜けてる化野の世話を、うっかり焼いてしまっている、新婚さんいらっしゃい〜な二人だって、案外いいじゃないー。

 でもまぁ、また何か「波乱含み」も、いいんじゃなぁ〜い、とも思っているので、覚悟してくれ御両人。ふふふ。読んでくださって皆様、ありがとうございます! 今度クマとイサの話も書きますので、よろしくー。




11/07/18


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