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シロオオカミ 7〜12
7
化野の唇に触れてきたのは、少し乾いた唇だった。なのにそれが深く合わさると、柔らかさと温度にくらくらとする。食むようにされながら、舌の先端だけが、時折ちろちろと出入りして、唇と唇の間をなぞってゆく。
その、ほんのそれだけの小さな感触で、腰が小刻みに跳ねてしまう。じっとして居られない。そうやって身じろぐと、布団の中で素っ裸でいる肌のあちこちが、布団の布地に擦れて、それにまた感じてしまっていた。
「…ん…っ、ん、ふ…っ、ぅう…」
首を横にそらして逃げようとすると、そうする前に顎を強く掴み取られ、ギンコの望むように、したいように強引に顔を向けられる。何か、その部分だけ別の生き物のように、ギンコの舌は化野の口内に、だんだんと深く滑り込み、化野の舌の裏側や下の付け根までを、舌の先で舐め回す。
くちくちと、あり得ないような淫らな音が、合わさった唇の間で鳴って、その音を聞いていると、口だけでなく、耳までもが犯されている気がした。
「ぅ、んん…っ…!」
ちゅる、と音立てて、ギンコはいつの間にか、化野の舌を擦っていた。いつの間にそうされていたのか、気付いてもいなかったのに、化野の舌がギンコの口内に引き入れられ、強く弱く吸い付かれている。
「ん、ぐ…っ。ふぅ、う…ッ」
舌の先をカリ、と噛まれた瞬間、化野の腰が、何かから逃げるように揺れた。触れられてもいない脚の間のソレと、たったいま愛撫を浴びている舌とが、快楽で繋がってでもいるようだった。
舌を舐め回されると、ソレの先端がひくひくと反応する。吸われれば、今にも放ってしまいそうになる。
「かなり気持良かっただろ…?」
耳元に、不意にそう囁かれて、化野は目を見開いた。気付けば布団を捲られて、胸が空気に曝されている。その隣にギンコが横になって、自分の肘を枕にしながら、うっすらと笑って彼を見ていた。
「ぁ…あ…?」
間近に翡翠色の瞳を見ながら、化野は何かを言おうとしたが、舌が痺れるようになっていて言葉にならなかった。ギンコの手が伸びて、化野の体の上の布団を、さらに少し退けようとする。化野は必死で身を捩って、少しでもギンコから離れようとした。
それなのにギンコは、そんな化野の必死さを、面白がるように笑って言った。
「あんた、危ねぇなぁ…。オトコドウシがそんなに嫌な癖して、オトコに口を犯されて、今にもイきそうになるだなんてな。うちの店が好きなら、来るのは別にいいけど、変なのに目ぇ付けられたら、監禁されるとかしてヤバイことになっちまいそうだぜ? 気ぃ付けなよ」
化野はそれを聞いて、泣きそうな顔をした。何が悲しかったのか判らない。抱きたいと言われ、その上でのキスも愛撫も、自分とギンコの距離を縮める助けには、欠片もなっていなかったのだ。そう思えたからなのかもしれなかった。
「…す…っ…」
「んん?」
何か言い掛けた化野に、穏やかな声で聞き返しながら、ギンコは化野の腹の上に手を置く。びくり、と震え上がったけれど、化野は逃げようともせず、嫌だとも言わずに目を閉じて言った。
「君には…好きな、人は…いないのか…?」
「……あんたのことは、結構好きだぜ?」
「そ、そうじゃないよ。そうじゃなくて…こ、恋人とか…。ひ…っ」
脇腹をするりと撫でられ、化野は悲鳴を上げた。イく寸前まで追い詰められて、やっと少し落ち着いてきていたソレが、たったそれだけのことで、また跳ね上がってしまう。
「や…っ。あ…ぁ…」
するすると、ギンコの手のひらが化野の素肌を辿る。腹の上から脇腹をなぞり、そのまま上へと滑って、乳首に触れるか触れないかの、ぎりぎりの場所に弧を描く。化野は腰を震わせ、胸を反らし、シーツに指を立てて身悶える。
「色っぽいな…。何かあんた、充分大人の年だろうに、そういう反応は十七、八のガキの体みてぇ。女とヤったこともないし、本当の快楽もまだ知らねぇくらいの、未成熟な…」
「そ、そんな話、し…したいわけじゃ、な…っ。ぁ…あぁ…ッ」
乳首を摘まれ、そのままくりくりと弄られて、化野の頭の中は真っ白になった。ギンコはそんな彼のもう片方の乳首に、遠慮の欠片もなく唇を乗せて、硬い粒のようになっているそれへ歯の先を当てる。
歯と歯の間に挟んで、舌先でたった一度、ぺろりと舐めてやっただけで、化野は派手に体を痙攣させて、放ってしまったようだった。
「…イったかい? じゃあ、これは取っちまった方がいいな。濡れて気持ちが悪いだろ?」
言い終える前にもう、布団を強引に剥いで、ギンコは文字通り、化野を一糸纏わぬ姿にさせる。自身の放った白い液体で、化野のそれはぬるぬると濡れていた。軽く身を起こして、酷く楽しそうにソレを眺めて、ギンコは確かめるように言う。
「なぁ、いい加減、もう観念したんだろ? 別に俺とこれ以上のことをしたって、万一ここでやめたって、大して変わらねぇし。あんたを最後まで抱いたら、大人しく俺は部屋を出ていく。そこから先はあんたの意思だよ。店にもう来なくなっちまえば、俺とはそこで切れる。こんなことも二度とない。忘れちまえばいいんだ」
「………」
長い、長いこと化野は黙っていた。素肌を曝したまま、ベッドの上で仰向けでいて、じっと目を閉じて…。そうして口を何度も開いては閉じ、開いては閉じして、やがては言った。
「…わかった。君に、だ…、抱かれるよ。でも、聞かせてくれないか。さっきの…」
「……さっき? あぁ、恋人がどうとか? そんなもんはいねぇよ。多分、あんたの言うような意味だったらな」
「じゃあ、友達は?」
化野はどうしてか切なげな顔をして、今はギンコの顔を見つめている。
「そんなもん、聞いてどうす…」
「…教えてくれ」
「それもいないな…。あんたの思うような意味ではね」
言い終えると、ギンコはベッドの上にゆっくりと身を起こす。そうして化野の体の向こう側に片手をついて、彼の首筋に顔を埋めた。耳の後ろ、髪にぎりぎり隠れる場所を確かめながら、ギンコはそこへと跡を印す。何度も吸い付いて、何度も…。
しばらくは消えないように、ひと時だけでも自分のモノにした印だ。
「……」
声の無い声で戦慄いて、化野は無意識にギンコの手を捜した。シーツに置かれた手首に行き当たると、それへ指を触れて目を閉じた。
続
8
ギンコの息遣いが、微かに耳に落ちてくる。
怖くて、化野はどうしても、体が震えるのを止められなかった。今まで一度も経験したことのない、尖った刃物のような快楽。ギンコに触れられると、閉じた瞼の裏に光るものが弾け、体が跳ねて、簡単に絶頂を越えてしまうのだ。まるでオモチャにされているみたいだった。
またあんな目に会うんだと思うと、怖くて、怖くて。
「そう震えてんなよ…」
その時、耳元に零れてきた言葉。耳の後ろを何度も小さく吸われて、そうされながら、きつく目を閉じている化野の髪を、ギンコの指がそっと撫でた。
「…あんたが望むようにしてやるから」
「望む…ように…」
「あぁ。優しい方が、いいんだろ?」
息のかかる距離で、ギンコの瞳が化野を見つめた。真っ直ぐな目が、化野の目を覗き込み、乱れて頬に纏わりつく髪の幾すじかを見つめ、震えたままの唇を見た。そうして、見つめる視線はまた化野の目に戻ってきて、ギンコは静かに化野の唇を塞ぐ。
「…ギ……」
「喋るな。キスがしにくい」
一度離れた唇が、もう一度落ちてくる。唇で、そっとついばむように、舌先で、優しく撫でるように、ほんの微かに吸い付いては、ギンコの唇は離れた。それでも息苦しくて、無意識に顔をそむければ、ギンコは少しの間待ってから、顎を捕らえてまた唇を塞ぐ。
長いキスだ。唇が触れている以外は、頬や、耳や髪を撫でられるだけで、ギンコは他のどこにも触れてこようとしない。焦がれて、焦がれて堪らない相手とする愛の行為のようで、頭の芯が溶けてしまいそうだった。
やがて、酷く楽しそうなギンコの声が聞こえてくる。
「ふふ…。あんた、結構巧いんだな、キスが」
そう言われて、化野は自分からも口付けに答えていたことに気付いた。ギンコの口付けに合わせるようにして、ちゅ…、ちゅ…と、吸っている。いつしかそんな甘い音まで鳴っていて、恥ずかしくて、居た堪れない気持ちになるのに、また唇を重ねられれば、欲しがる気持ちが止まらない。
「…あ…ぁ…」
切なげな目をしてギンコを見て、その背中に片方だけ腕を回して、もう一方の手はシーツにすがり付いていた。あぁ、本当に、好きで堪らない。こんなに焦がれていたのに、友達になりたいだなんて、どの口が言ったのだろう。
これが愛や恋の行為ではなくて、ギンコのただの仕事なのだと判っていたが、それでもキスしてもらえるのが嬉しいのだ。ずっとこうしていたいとまで思った。
「やっと判った。そうなんだ、俺は君が好きだ…。好きなんだよ…。と、友達になりたかったんじゃない…。俺は、だから、お、俺は…」
潤んだ目が、じっとギンコを見つめた。怖いほど真っ直ぐで、ギンコが逃げるように視線をずらすと、見る間に切なげな色に揺れる。
「…あんたな。だったら、なんで来るたび、イサザなんか隣に座らせてんだよ。…あ、いや…」
唐突に零れた言葉に、ギンコは自分の口を押さえて真横を向く。ばつが悪い、というような顔をして、不意に彼は化野から離れてしまった。今にも重なりかけていた体が急に離れると、酷く肌が寒く思える。化野はベッドの上で全裸。ギンコも上半身裸で、抱き合わないのなら、部屋の温度は少し低い。
ギンコは肩をすくめ、ある意味観念したような気分になって、投げ出すように言ったのだ。
「…正直、あんたには随分参ってたんだぜ? 俺が客を焦らすのはいつものことだが、客にあんなに焦らされたのは初めてだったよ。ずっと目で追ってるくせに、あんたは一度も話しかけてこないし、来るたび、別の奴とばかり話して帰っちまうしな。……借りるぜ」
言葉の端にそう付け加えて、ギンコはすぐ傍にあるクローゼットを開けた。ガウンが一枚と、バスローブが一枚。自分はガウンを着て、彼は化野の体の上に、バスローブを放り出す。
「言っとくが、本音を誰かに零すなんて、俺はしたことねぇんだ…。あんたは俺にとって、色んな意味で特別なのかもな」
投げ与えられたバスローブを、胸の上で掴んで、化野は黙っていた。混乱していて、何を言われたのかよく判らなくて、黙ってじっとギンコを見ていた。白い髪に白い肌。奇跡みたいな美しい翡翠色の目が、自分の方へ向くのを化野はじっと待っていた。
暫しの沈黙の後で、重たいような溜息をついて、ギンコは投げ出すようにこう言った。
「…これ以上、理性を飛ばしたくねぇからさ、『負け』ってことにしといてくれるか」
「…え…?」
「帰る、って言ったんだ」
たった今、身に着けたばかりのガウンを脱いで、化野の体の上に放ると、ギンコは床の上から自分の上着を拾い、それを肩に引っ掛けて背を向けた。待ってくれ、と化野がかすれた声で言ったが、振り向くことさえなかったのだ。
玄関の扉が開く音が聞こえ、閉じる音が聞こえた。一人になった途端、ざぁ…と、降り続く雨の音が、化野の胸に響いて、今までで一番、彼を不安にさせた。
続
9
雨に打たれながら思っていた。
傘…。忘れてきちまった…。
やべぇな、あれ、クマドのだっけ。
あのマンションの部屋の、どこに置いたのか覚えていなくて、冷静だと思っていた自分を疑いたくなる。今から取りに戻る気はない。別の日に出向くつもりなんか、もっとない。律儀すぎるあの男が、返しにくるだろうかと、そんな予感が脳裏をちらちらする。
あぁ、格好わりぃ。
別れた男の部屋に、口紅かなんかを忘れる女みたいなことをした。
鍵をかけるのも無駄に思えるほど、何もないその部屋。一日置きくらいに、やっと戻るそこは、雨の降り続く外よりも寒い気がして、火傷しそうなシャワーを浴びた。白い肌が少し赤く染まる。痛みにすら感じる熱さに、あいつの肌の感触が消えていくどころか、蘇るのは始末が悪かった。
ほらな、半端はよくねぇんだ。男の器官は、心のスイッチ一つで切り替えができるほど、上等の作りにゃなってない。シャワーのついでに手を添えて擦れば、目の前の鏡を汚す白濁が、透明な雫に流されてすぐに見えなくなる。
男が男とするセックスなんて、互いに快楽を欲しがる本能と、逸脱した悪い遊びの満足を削り取っちまえば、なに一つ残らない紙くずみたいなものだ。一人でこうしてイくのとさして違わねぇさ。
ずうっと、ずうっと昔から、小さなガキのころから、
それしか知らない自分のこのカラダも、
だから、紙くずと大差が な い の だ …
今更、別に気にちゃいない。その手管を金に変えては、面白可笑しく生を繋ぐ。悪い人生じゃないだろう。
ベッドに身を投げて、うすっぺらな毛布を纏い、ギンコは顔を覆って蹲る。そろそろ夜明けだ。いくら雨だって空には明るさが滲んで、眠るのを邪魔するに決まっているから、ここで一人で横になった時は、そうして顔を覆い隠して寝るのが癖。今夜だけのことじゃない。
雨の音は少しずつ小さくなったのに、ギンコの耳にはいつまでも土砂降りの響きがある。呼び声がその向こうに遠ざかって、はにかむようなあの笑顔は、夢の中でもよく見えなかった。
* ** ***** ** *
「昨日の帰りにさぁ…」
ごろり、とイサザが寝返りを打てば、クマドの背中から毛布がずれる。広過ぎるほどの背中に、朝の冷気を纏いつつ、クマドはほんの少し前、眠ろうとしてやっと閉じた目を開く。
「見ちゃった。ギンコがあの、『水玉ネクタイさん』のとこから帰るとこ」
「……あぁ」
「あんたの傘、持ってなかったよ。まだ雨が酷かったのに、ずぶ濡れで歩いてた。…寝なかったってことかなって。珍しいよね」
うつ伏せのまま肘を立てて背中を反らし、クマドは汗で額に張り付いた短い前髪を掻きあげる。背中には一筋だけ、うっすらと引っかかれた爪の跡。
「……それでか…」
「何が? あぁ、欲しがったこと? うん、そうかな。だってさ」
イサザはクマドのカラダに身を寄せるように、もう一度寝返りを打ち返して、下から彼の顔を見上げる。
「なんか昨日、嬉しかったのにさ。うまくいかなかったみたいだから、ちょっとむしゃくしゃして…」
「だからって、明け方過ぎに戻った俺に付き合わすな」
「ごめん。でも『よかった』。ありがと」
にこ、と無邪気なほどの笑みを見せて、イサザはクマドのために珈琲を入れに起き上がる。殆ど寝ていなくても、もう眠る気がないのはクマドの顔を見れば判るからだ。
自分が幸せだから、傍にいる他の人も幸せでいたらいい、なんて、考えたつもりもなかったのに、そういうことなんだろうか、と裸のままでキッチンに立って思っている。だけど、そんなに簡単にその願いが叶うなら、とっくにこの世は天国になってるだろうけど。
ガウンをまとってキッチンに来たクマドに、イサザは珈琲を差し出す。そんなイサザにクマドは彼のシャツを差し出していて、視線をバスルームへと流した。いつまでもそんな格好でいるな、と目が言っていて、それが可笑しい。あんな店のオーナーの癖に、だ。
「ねぇ」
「……」
「どうしたらうまくいくと思う? 協力してよ」
「…もう構うな」
好み通りの珈琲を飲みながら、クマドはもう新聞から目を離さない。
「嫌だよ。だって、あの傘。俺も気に入ってたんだから」
「濃紺のは貸してない。貸したのは黒の方だ」
「あー、そう」
呆れたように言葉を切りながら、イサザは内心で舌を巻く。どこまで予想して行動しているのか、相変わらず読めなくて、そこにまた痺れてしまった。受け取ったシャツに、するりと腕を通して、イサザはシャワールームに向かいながら言うのだ。
「あんたがそう言うんなら、それが最善てことなんだ。なら、あとは心の中で応援しとく。…相変わらずだね、クマド、惚れ直してもいい?」
「好きなように」
ざぁー、と響くのはシャワーの音。雨音に似ていても、冷たくはない。今、どんなこと考えてるの? ギンコのことを思ってイサザはそう呟く。
卵の中の雛みたいに、丸く小さく心を縮こまらせて、そのままそうしていたきゃ、それでいいと思うんだ。無理に今すぐ、全部を見せる必要なんかないよ。例え好きになった相手にだって。殻の中が見えなくても、包んで温めてくれる人が、もう、見つかりそうじゃない?
今夜はギンコの名前が、店のローテーションに入ってなかった。残念なような、明日が楽しみなような気がして、イサザは知らないうちに薄く笑っていた。
続
10
九時の開店から、もう少し時間が過ぎていた。最初の客はまだ入らないが、それとは無関係に店内の人数は足りていない。
「ギンコは?」
ずっと気にしていたことを、とうとうイサザが言葉にして、それを聞いたクマドは、たった四文字で返事を済ます。
「ドウハン」
「…ドウ…。あぁ、同伴」
この店ではあまりないことだから、一瞬意味が判らなくて、判ってからも判然としない。ギンコが「同伴」? そんなこと、今まであっただろうか?
しつこい客に追いかけられて、結果的に同伴になったことはあったけど、開店前からクマドに連絡があったのなら、ギンコ当人が客を誘ったか、客とあらかじめ約束した上でのことなのだ。
「それって…っ、あの」
「あのセンセイとじゃない」
「…だよね」
水玉ネクタイのあの人とじゃないのかと、期待した気持ちが一瞬で裏切られる。何だか心配だった。今まで「同伴」なんて全部断ってたギンコなのに、今のタイミングでそれ。なんとなく、自棄にでもなっている気がして、イサザは同じグラスをいつまでも磨いている。
「指名だ、イサザ」
「あ、うん」
ぼんやり考え事ばかりしていた頭を切り替えて、イサザは愛想よく客のテーブルに歩いていく。楽しく会話を盛り上げているうちに、別の客も入る。ギンコを目当ての客だったが、居ないと聞くと別のホストを呼んだ。
入ったばかりで、いつもはカウンターを担当しているカイが、愛想笑いしながらそのテーブルに座る。
入り口で大きな影が動いた。ちらりと見ると、ドアの内側を濡らす水滴を、クマドが手早く拭き取っていた。そういえば今夜も雨の予報だった。傘立ての中の二本の傘は、どちらもずぶ濡れで、雨脚の強さが判る。
こんな雨の中きてくれて、ありがとうございます、などと、一つ離れたテーブルの声がイサザに聞こえた。
* ** ***** ** *
今夜は雨だ。でも午前中は晴れていたから、家から傘は持ってきてない。帰りに使う傘は仕事場の、折り畳みの置き傘だった。帰るのは丁度深夜で、あの店に寄るのにぴったりの時間だというのに、前みたいにすぐに向かうことが出来なくて、化野はもう三本もバスを逃している。
「…会いたいなぁ」
風邪をひいてやしないだろうか。ただで診ると約束したけど、そういえば医院の場所も教えてなかったし、そもそも普通に診察にこられたら、タダというわけにいかなくなる。
だから家に診せにきてもらうか、こちらからあの店に行って診るんじゃなきゃ、タダの約束は守れない。
「会いたいなぁ…」
雨の雫が傘を散々に打ち付けて、そのうるさい音を聞きながら、もう何十回も思い出したことを考える。ギンコが言っていた言葉を、耳の中に響かせて、どきどきと高鳴ってくる心臓を持て余していた。
正直、あんたには
随分参ってたんだぜ?
あんたは俺にとって
色んな意味で特別なのかもな。
あれってもしかして、少しは俺に、気がある…ってことじゃ…。確かあの時、俺は彼に、好きだって告白して、それで彼は俺に、そう言ったんだ。それと…イサザ君をいつも隣に座らせてたことを怒ってた。
「やっぱり、行こう…!」
声に出してそう言うと、そこがバス停だということも忘れて、化野はタクシーに手を上げた。目の前に黄色のタクシーが停まり、そのすぐ後ろにバスがついてきて、タクシーの運転手には言葉で急かされ、バスの運転手には目で叱られた。
すいませんっ、と、詫びながらタクシーに乗り込んで、目的地まで二十分くらい。化野はタクシーを降りるまでの間、窓硝子を滑る雨の雫を眺めながら、同じ言葉を口の中で繰り返している。
指名はギンコ君で
指名はギンコ君で
指名はギンコ君で
指名は…ギ…
タクシーが、ネオンだらけの街に入って停まる。料金を払って下りて、傘を開きかけたその時、目の前を、会いたくて堪らなかった人が通った。化野は震えた。
違うよ。そんなふうには、会いたくなかった。
背の高い男に肩を抱かれ、少し項垂れたままで、ギンコが足早に目の前を過ぎていく。化野は開きかけの傘を開くのも忘れ、ふらふらと歩いた。
無意識だった。見て見ぬ振りをして、今日は予定を変えて帰ることにしていればよかった。でも足は止まらない。ギンコの隣にいるのは、ギンコより背が高くて、見るからに裕福そうな、自信に満ちた姿をした男。
男はギンコの肩を抱いた手で、彼の顎をくすぐるように持ち上げ、頬の、ほとんど唇に触れそうな場所にキスをしていた。そうして強引にギンコの体を引っ張って、すぐそばの路地の中へ入っていく。
引き寄せられるように、そこを覗き込んだ化野の目の前で、男はギンコの唇にキスを…。そして喉にもキスをして、そうしながらもう、片手でギンコのズボンのジッパーを下ろし、中へと手を入れていた。
ぐいぐいをそこを擦られながら、応じるでもなく、嫌がるでもなく、退屈そうにギンコの両手が宙に浮いている。それでも、あぁ、と小さく喘いで、かすかにしかめた顔が、ゆっくりと路地の外へと向いて、化野を見た。
見たのだ。はっきりと、目が合った。驚いた様子もなく、ギンコは薄く笑った。そのまま、よぉ、とでも言いそうな顔をして見せてから、何もしていなかった右の手で、ひょい、と、化野に合図をした。
行きなよ…。
今日はこの通り、別の客がいるんだ。
あんたとは、また今度な と。
そんなふうに、見えた。
雨がまた酷くなる。二日前のあの時と同じだった。力の抜けた化野の手から、ばさりと傘が落ちて、汚い水溜りの水が彼の足元に跳ねた。
指名は、ギンコくんで …
もう、繰り返さなくてもいい言葉が、空回るように頭に響いて、様々に光っているネオンの色すら、見えなくなっていく気がする。
雨のせいだけではなく、化野の立ち尽くす夜の街は、真っ暗で、酷く寒かった。
続
11
クマドの視線の先で、イサザが片づけをしている。磨り減るのではないかと思うほど、力を入れて磨かれているグラスが、するりと手から滑り落ちて、ついさっき、綺麗にしたばかりの床で散った。
ぱりん…っ、と、取り返しの付かない音がする。視線を感じたイサザが見れば、クマドはこちらを見ないでダスターを取りに行き、すぐに戻って手際よく片付けた。
「……ごめんなさい」
割ったのは、古い常連からの贈り物のグラスだ。素直に謝ると、クマドは大きなその手で、イサザの髪をくしゃりと掻き混ぜた。彼が何かを言ったわけではないが、ソファの後ろに腰を寄りかけて、イサザがクマドを上目遣いに見る。
少し、潤んだように見える目が、縋る色を濃くしていた。相変わらず視線は合わせないままのクマドだけれど、それでも受け止めて貰えているとイサザには分かった。
「……テイクアウトまで、するとは思わなかったよ。あの客さ。ずっとべったりで…ああいうの、好きじゃない」
言っているのはギンコの客のことだ。体を絡めるような格好で、同伴で入ってきてから、ずっと席に付かせっ放しで、ギンコを片時も離さなかった。何時間もいた上に、外でギンコを待っていて、そのまま…。
「店としては、金になる客だが?」
「…そうだけど! いつものギンコならうまくかわしてるのに、なんで…。クマド、ああいう客、好き? 今度もし、俺が指名されても、俺、あんなふうにはしないよ…?」
「……そういうことは、オーナーの俺に聞くな」
「どういう意…味…。クマド…っ」
いきなり首を掴まえられて、濃厚なキスで口を塞がれる。それから耳に口を付けられ、短く囁かれた言葉にイサザは嬉しくなった。
ベッドで聞けと、言っている。
そう、クマドは言ったのだ。そうしたら、お前の望み通りの答えが出せるから、と…。長くはないが、濃厚な口付けの後、イサザは震えてしまっている膝に力を入れて、手に握ったままだったトーションを洗い物のケースに投げ入れてきた。
今夜の店は終いだ。客は勿論、他の従業員も少し前に帰ってしまっているから、後はクマドと二人、鍵を閉めて帰るだけ。外は雨が、少しは小降りになっているようだった。
キーを鳴らしてたった二段の階段を下りて、まだ消えないネオンの光を、歪めて映しているアスファルトの歩道を歩き出す。先を歩いていたクマドの足が、唐突にピタリと止まった。見下ろす視線の先に気付いて、イサザが息を詰める。
「…っ、え…、なんで…っ?」
「見た。…ということだろうな…」
低いクマドの呟きは、雨の中に座り込んでいる化野の耳にまで、届かなかっただろう。
「見…た、って?」
「お前はこっちを持て」
無駄なことは一つも言わず、クマドはイサザに自分の持っていた鞄を渡し、化野の傍に落ちているバックも拾って彼に差し出した。
「部屋へ運ぶ。構わないか?」
「ああ、勿論だよ…! あんたの部屋じゃないか」
そう言いながら、イサザは心配そうに化野の顔を見る。いったいいつから外にいたのか。ギンコとあの客を見たのなら、あれからもう二時間は経っている。さっきまでの土砂降りの雨の中、ずっとこんなところで蹲っていたのかと思うと、それだけでイサザは泣きたい気持ちになった。
「何で…ギンコ…」
言葉にならない思いで、ただイサザはそう言って、びしょ濡れになった化野の髪をそっと撫でた。おかしなことを思っているのは分かってる。自分もクマドも、そしてギンコだって、男と寝るところまでが仕事なのだ。ギンコは仕事をしてるだけだ。
それを見てこの人が酷く傷ついたって、本当の恋人じゃない以上、それはただ、恋した相手が悪かったというだけのこと。最初から割り切るか、何もかも覚悟の上で好きでい続けるかしかない。
化野を背負うクマドの後を付いて行きながら、イサザは涙を零していた。
時計の音がする。それを聞きながら、イサザはずっと化野の顔を眺めていた。眠っているんだか意識がないんだか判らない。酷く青ざめていて、額に触れると少し熱かった。
「でも…。だって、ギンコだってさぁ」
勿論、化野が何か返事をするわけじゃない。イサザは椅子に逆向きに座って、背もたれに乗せた腕の上に、顔を乗せた格好で、またぽつりと呟いた。
「ギンコだって、……な、癖に…なんで…。わかんないよ」
「その名を出すな」
「どうして…?」
熱いコーヒーを差し出してくれながら、隣に立ったクマドを、イサザが赤い目で見た。
「…目を覚まさせない方がいい。例え悪い夢を見ていても、、眠っていた方が体は休まる。イサザ…俺の分のコーヒーがもう落ちる頃だ、取ってきてくれ」
イサザがキッチンへ行ったのと同時に、化野の頬に涙が零れた。見ればうっすらと目が開いていて、続けてぽろぽろと雫が落ちていく。
「あんたはギンコが好きか?」
前置きも何もなく、クマドはそう聞いた。聞かれると、化野は顔をくしゃくしゃに歪めて、両方の手のひらで歪めた顔を覆う。搾り出すような声が、小さく、けれどもはっきりと言った。
「好き、だよ…っ」
「…なら、どういう相手を好きになったのか、早いうちによく知った方がいい。今夜[見た]のは、無駄なことじゃない。それで気持ちが変わるとしても、変わらないとしても」
「変わらない…っ。好きだ…。すき、だ…。好きだよ…」
寝返りを打って、化野は枕に顔を埋めた。子供のようにしゃくりあげて、それから随分長いこと、彼は泣いていた。キッチンから戻ってきたイサザは、何も言わずにクマドにカップを渡し、泣いている化野の息遣いを聞きながら、泣き笑いのような顔をする。
「…ギンコはねぇ、先生、ちょっと、ひねくれてるとこがあるだけなんだ。もし…もしもさ、そんなに嫌じゃないんだったら……」
そこで一度言葉を切って、息を吸い込んだ後で、イサザは言った。
「…寝てあげてよ……。そこからじゃないとさ、ギンコは何にも分からないんだ。それとも、あんなとこ見ちゃったら、もう、嫌かなぁ、汚い…って、思っちゃった? 俺達のこともさ…」
そんなことはない、そう言いたいのに、言おうとした唇は震えて、夢の中でも繰り返し見た光景がまた、脳裏で鮮明になる。忙しいからあっちへ行ってくれ、とでも、言ってるように見えた、あの時のギンコの仕草…。
「ギン…っコ、君は…、お、俺の…こ…、こと…好…っ」
「…うん、きっとね。そうだよ。先生いい男だもん。あんなに水玉のネクタイが似合う人なんて、他にいないしね」
最後まで聞かずに、イサザは優しくそう言った。真っ赤になった目で、化野はイサザを見て、やっと少しだけ笑った。無理をして作った顔だったけれど、雨の中で拾ったさっきよりも、ずっといいと思った。
「そうだ。これ」
いきなりベットのマットの下に手を入れて、イサザは何か小さな容器を取り出した。
「これ、上げるよ、先生。気持ちが決まったらさ、店に来て、ギンコを指名してこれを渡せば…」
「……こっちのにしろ。封を切ってないし、初めてならこの方がいい」
呆れたように見ていたクマドが、サイドテーブルの小さな抽斗から出した、別の容器を差し出す。
「あぁ、そうだね。ローションのの方がいいかも」
まだ意味も分かってなさそうな化野の手に、無理やりそれを握らせて、クマドは部屋の灯りを消した。イサザの腕を掴んで、彼はさっさと隣室に行ってしまう。
窓から差している外の明かりに目が慣れると、ローションの容器がよく見えてきた。瓶に書いてある説明は日本語じゃなかったが、幸いというか、化野にはその言葉が読めてしまって、彼の微熱が、微熱じゃ済まなくなってしまった。
無意識に、脳裏に色んなことが浮かんで、額どころか体全部が熱くなる。
「…うん…、君のことが、好きだよ、ギンコ」
ぽつり、化野はそう言って、お守りのように瓶を握って目を閉じた。
続
12
「お前に指名だ、ギンコ」
店に入るなりクマドにそう言われ、ギンコは面倒くさそうに溜息をついた、告げられた席が店で一番いい場所で、余計にげんなりする。この前のあの男かと思ったのだ。
「いらっしゃい」も「ようこそ」も、ましてや先日の礼などいう気がなくて、無愛想な顔のまま席へと行けば、そこで顔をあげた客の顔に足が止まる。
「…あんた」
「相変わらずの[あんた]呼ばわりか? そういう言葉は客を選べよ」
淡々と低い声がそう言って笑う。呼び方は[あんた]だったが、ギンコの態度はいつもと違って、彼の言葉遣いが少し丁寧になっていた。
「いや、珍しいと思ったんだ。随分、暫くぶりで…」
「招かれたんだよ。この店を開店した時に、俺の常連客から贈られた揃いのグラスがあったんだが、それをうっかりと一つ割ったから、その詫びだとか。クマドは相変わらず固いな。そんなだから任せられるってもんだが」
「そりゃ…元のオーナー相手なら、それくらい。…で、なんで指名が俺なんだ? スグロ」
座れという身振りも何もないから、ギンコはボックスの横に立ったままでそう聞いた。スグロはこの店の元のオーナーで、今は立場をクマドに譲って退いている。極々たまに店にくるが、大抵はカウンターの隅にひとりで座って、クマドと少し話をするだけで帰るのだ。
そして、スグロが帰った後、クマドは大抵早めに店を上がるから、そのあともっと色んな話をしているのかもしれないし、それとも話以外の何かをしているのかもしれないが。
「…別に。いい常連をつかまえたって話は、さっきクマドから聞いたしな」
あぁ。と、ギンコはまたげんなりする。この前の金持ちの男のことだったら、悪いが次に来たときには、うまく気分を害させて追い払う気だった。この店に合わないし、正直、虫唾が走るほど嫌いだ。
「あの客のことだったら…」
「ギ…っ、ギンコ君…っ!!」
叱られるのを承知で言い掛けたその時、店中に響くような声で名を呼ばれたのだ。振り向く必要はなかった。この男だってもう店の常連なのだから、声だけで誰なのかすぐに判る。
「きっ、君を指名しに来たんだ…っ…!」
呆れた。別にそんな大声で宣言しなくとも。
大体今は、スグロに呼ばれてこの席にきたばかりだ。どちらを優先するかなんて、判断するまでもないこと。ギンコの翡翠色の目の中に、うっすら感情の色が揺れて、そのまま沈み…。
「…噂をすれば、その[常連]の彼だな。なるほど、水玉のネクタイが似合う」
「は…? いや、何…」
一瞬、何を言われたのか理解できなかった。店が喜ぶのは、金を落としていってくれる上客のことに決まっていて、あの金持ちの男が一晩で落として行った金と、化野がここに何ヶ月も通って使った金とでは、桁が一つ違っている。なのに、スグロは笑って言ったのだ。
「ああいう客を上客というんだ。ギンコ、お前、何年この仕事をしてるんだ? 間違うなよ」
そして[離すな]と、スグロが低く言って笑った。ギンコはたっぷり数秒間も、スグロの横顔ばかりを見つめていた。この堂々とした態度に苛々する。相変わらず俺は手の上かよ、と、そう思いながら、やっと入り口の方を向いた。
ドアの前で、クマドに足止めをくらって入っても来られずに、それでも必死の目をして化野はギンコを見ている。その目を受け止めたとき、背筋がぞくりとして、体の芯が痺れた。欲しくて、気が変になりそうだと、そう思ったのた。
「ギ、ギンコ君。あの…俺なら、す、隅の席で待つから…」
「…ふぅん、俺が別の男といちゃつくのをつまみに、酒を飲むのか? あんた」
傍まで行って、ギンコはそう言った。意地悪だな、と化野は辛そうな苦笑いをして、それでも唇を噛んで視線を逸らさずにいる。そうして化野はポケットに手を入れて、中からハンカチを取り出した。
「忘れ物だよ。傘も持ってきて彼に渡したから、あとで受け取っといてくれ」
「あぁ、傘は元々俺のじゃなくて…」
言いながら、手を差し伸べてハンカチを受け取る。指先が一瞬触れて、その刹那が胸に刻まれた気がした。初心なガキの恋みたいなそんなことが、くすぐったくて堪らない。
その時、ギンコの足元に、小さな何かが落ちてフロアを転がった。視線で追うと、カウンター席の傍まで行ってそれは止まる。丁度その傍にいた若い客が拾って、見る間に微妙な顔になっていく。
「…あっ!」
「え?」
「そ、その、か、返してくれ…っ。それは…あ、あの…後で使…っ。いや…拾ってくれて、あ、ありが…」
その動揺っぷりに、拾った男が笑い出す。カウンターの中にいたカイも堪らず吹き出した。
「いや、凄いですね。ストレートだ」
客からカイがそれを受け取り、カウンターから出て歩いてくると、にこにこと笑いながら、その「落とし物」を、化野ではなくてギンコに渡した。ギンコは手の中のそれを、まじまじと見つめ、それから酷く満足そうに、にやりと笑って化野を見た。
「こんなの、よく買えたな。通販とか?」
「いや、それは…あの、イサザ君と、このドアボーイの彼が」
言われたクマドは眉一つ動かさないが、聞いたギンコも常連曲も、ホストたちもまた吹きそうになる。口を開けば開くほど、皆が分かってても言わないことや、妙なことがぽんぽんと出るので、ドアの傍に立ったままの二人は皆の視線を浴びっぱなしだ。
「で、今日後で? それとも後日?」
「君の…い、いい時で…っ」
「…なら、今からすぐだけどな」
耳まで染めて答えた化野のネクタイを、ギンコは強く握って引いた。びっくりして一歩前へ踏み出した化野の体が、ギンコの腕の中に掴まり、顎が捕まえられる。
「んっ、ふ、んん…っ?! ギン…っ」
「…キスしてる時は、喋るなと言っただろ?」
ギンコは笑ってそう言った。
「クマド、悪いけど、俺さ」
「…今度はなんだ、頭痛か?」
止まったような固い表情のままで、それでも目の中に笑いを滲ませてクマドが早退の理由を聞く。ギンコが答える前に、奥の席でスグロが呟いた。
「きっと風邪だろう。帰った方がいい」
いつの間にかカウンターの中にいたイサザが、カイの隣に並んで笑っている。
「丁度いいじゃない。先生に診察もして貰えるんだからさ」
「………」
ギンコと化野のことは、当事者がちっとも知らない間に、店の中では周知の事実だったらしい。見世物かよ、と、ぼやきながら、ギンコは化野の手を引いた。
外へ出て見上げると、今夜は雲のない星天。ネオンに染まって降る雨とは違った、小さな煌きが空にあった。
「す、好きだよ…っ。ギンコ君…ッ」
意を決したように化野がそう言った。
「そりゃどうも」
笑って、振り向きもしないままでギンコが言った。さっきから握ったままの化野の手の指に、自分の指をゆっくりと絡めた。少し痛いと感じるくらい、その手を互いに握り締めた。
初心なガキの恋みたいに。
終
11/04/10