.
シロオオカミ  1〜6



1


 ずっと背中に視線を感じる。困ったもんだ、この俺が。たったそれだけのことで今夜は、客の相手をする気もなくなっちまって、気が乗らねぇだなんだと、金持ちそうな奴に指名されても断っちまった。

 後でなんか支配人に言われるかもな。別にいい。それにしても…

 あぁ、あの客。まただ。 

 いい加減に、すりぁいいのにな、とそう思う。なんだあの優柔不断。この髪の色を珍しがってるのかもしれないが、ずっと俺ばっか見てる癖、ドアんとこに立ってるクマドに「御指名は」と、平坦に聞かれると、いっつもへどもどして言うのだ。

 いや、無いよ…。空いてる人で。

 そうしていつからだっけか、イサザがよく付くようになって、今日もほら、あいつが他の客の相手と掛け持ちでやってる。

 またその柄? 好きなんだね、可愛いネクタイ。

 イサザがそう言って、からかい紛いの声で笑うのへ、答える言葉が聞こえた。

 その…、こ、これは妻の趣味なんだ。
 この柄以外、締めさせてもらえなくって。

 困ってるんだけど、などと言って苦笑する顔は、確か前にも見た気がする。その時も確かに、色違いの同じような柄、ドットの大きさは違っても、どれもこれも「水玉模様」と呼んじまえる、そのネクタイ。

 視線が、ふ、とまた俺へ向いた。目が合っちまう。逸らさないで直視すれば、向こうは慌てて自分の膝の辺へ目を落とす。あの耳は、今、きっと赤い。多分首筋も。薄暗い照明でも判るほど、色白だものな。

 ああ、いつのまに俺は、あんたをこんなに見てたんだろ。ネクタイの色は、紺、グレー、臙脂、水色、それよりも少し濃い青。五本ぽっちを、ぐるぐる、使う。そのどれも水玉の模様。あいつの妻の趣味だとかいう。

 だから、いい加減にしろよ、と言うんだよ。来た最初の日から視線はずっと、熱いくらいに俺ばっか見てる癖、指名すんのが怖いのか、流されちまうのかしらねぇけど。だったらもう、俺を見るのは止せよと思う。視線で背中をなぞられるのが気になって、仕事を放棄してる俺も俺だがな。

 そうしていつものように、閉店一時間前にきたあいつは、もちろん閉店ぎりぎりまでいて帰っていく。も少しいてよ、俺をお持ち帰りしてくんないの?などと、甘えた声出してるイサザを、困ったように遠慮しぃしぃ断って。

 家は、どこなんだろうな。ふと思った。終電は終わってる。タクシーを呼ばせたこともねぇ。いつも来るのは一人で、医者らしいって話を、随分前に聞いたけど、それもよく判りもしないただの噂話で。

 そういや、今日は雨だぜ? 傘は…。

「そんなに腹が痛いなら帰れ」

 いきなり後ろからそう言われて、俺は少し、飛び上がったかもしれない。振り向いて、少し上を見上げればクマドの顔。奴は自分の傘を俺へ押し付けて、有無を言わせず俺を店外へ押し出した。

 何考えてんだか、あいつ、相変わらず判んねえな、と口の中でぼやけば、顔を上げた視線の先に、傘を持たない後姿が、ぽつり。

「おい」

 そう呼んだ。名前なんか知らない「水玉ネクタイ」のことを。

 水玉ネクタイは、俺の声を聞いただけで、ぎくん、と震えたように跳ねて、なんか怖いものでも見るみたいに、ゆっくりゆっくり振り向いた。

「あ…」
「今日はサービスディなんで、傘のないお客様には、こうして傘を差しかけて、家までお送りさせて頂くことになってるんだ」

 そんな押し付けがましいサービスがあるもんか。困るだろうよ。ホストなんかに家まで送られた日にゃあ、水玉模様の大好きなあんたの妻が、そりゃ、さぞやびっくりするぜ?

 だが、水玉ネクタイは言ったのだ。なんだか困ったような、嬉しそうな顔で笑いながら、小さく頭を傾げて、俺の傘へ入り…。

「よかった。一度外で、ゆっくり話してみたいと思ってたんだよ」
「…いや、話なんかより、もっと違うことを、俺はあんたとしてみたいけどな。奥さんが困るようなことだぜ? いいのかよ」

 ぽろりと言った。俺も随分舞い上がってたらしい。

「そんなの、居ないよ。このネクタイも、ほんとは俺の趣味だ」
「………」

 ならなんで、妻のだとか。

「妻がだとか、職場の女の子の話をすると、君がいつも振り向くから」
「…」
 
 随分と遠回りなくせに、土壇場で直球なこの男の、水玉模様のネクタイを、むしり取ってやりたいと俺は思った。いや、むしり取ってしまおうと思っていた。もちろん、ネクタイだけで許してやる気もさらさらない。

 傘が、雨の音を騒々しく鳴らす。水玉の模様は俺も別に嫌いじゃない。街灯の灯りで透けた傘には、綺麗な水滴の模様が弾けていた。








2


ぱらぱらぱら

 雨の音が傘の上で弾けている。大の男が一つきりの傘の下、互いの肩を触れ合わせるようにして、窮屈な、窮屈な帰り道。あぁ、帰るのは俺じゃぁねぇよ。こっちの水玉ネクタイの男だけだ。

 俺は、今日はさ、あんたの家に泊まるんだ。
 寝る暇はないと思うけど。

 判っているのか居ないのか、能天気な笑顔でニコニコして、水玉ネクタイは上擦った声でずっと喋っている。

   「そのぅ、ずっと、話をしたいと思ってたんだよ」
   「そういや声を聞くのも殆ど初めてなんだ」
   「妙だよなぁ、あんなに何度も会っているのになぁ」

 妙はあんただけだろ。ずっと「俺に」会いにきてたくせ、
 たった一度だって、指名もしねぇで。
 顔見にくるだけにしちゃ、うちの店は安くないだろ。

 あんたの声を聞きながら、俺は心でばっかり返事をしてる。男にしては綺麗な手が、ふと気付いたように、すい、と動いて、俺の手の傘をやんわりと奪う。言い難そうにあんたは聞いた。

「ところで、あの店はどういう店なのかな」
「…は……?」
「いや、ウェイターさんは男性ばかりだし、席に一緒に座るし。あれ? ウェイターは男で当たり前か? ははは」
「参ったな。随分…世間知らずなんだな、あんた」

 呆れ返ったようにいってしまってから、あぁ、しまった、と俺は思う。いくらなんでも、こりゃ怒るだろ。だけど水玉ネクタイは、一瞬呆けたあとで、ぽりぽりと頭を掻いて、よく言われるんだと照れながら笑った。

「あー。まぁ、そうだろうね。にしても言い方が悪かった」

 詫びるように、こくんと頭を下げて、顔を上げたあとで、じっと目を見た。ゆるゆると足を止めて、立ち止まらせて、二秒、三秒。ゆっくりと染まってくる頬を、間近で見ながら教えてやる。

「あの店の店員はな、店内では酒を売ってて、外へ出りゃ…体を売るのさ。…判らなきゃ困るんで言うが、もちろん、俺もだぜ?」

 反応は、見事としか言いようがなかった。男の手から傘がばさり、と落ちる。見ていたように、雨が強くなった。四秒、五秒、六秒、俺の髪も、男の髪も散々に濡れて、毛先からはつぎつぎ水滴が落ちていく。

「……え…っ…?」
「え、じゃねぇだろ?」
「…え、あ…。その、じゃあ…」

 しどろもどろ、意味をなさない声ばかり。視線だけは俺へ釘付けで、瞬き一つしていない。あぁ、めんどくせぇな、駄目なら駄目、その気ならその気、はっきりしてくんねぇと、ここまで送った俺は笑いものだろ。こっちはあんたを「喰う」気、満々だしな。

「まだ先? あんたの家」
「あ…。そこの角を曲がった、四階建ての小さいマンショ…」
「へぇー。何階? そういや、なんて名前、あんた」
「アダシノ。部屋は、三階の奥」

 ぷ、と思わず小さく吹き出した。少しは他人を疑えよって、教えてやりたくなっちまう。

「なぁ、いいこと教えてやるよ」
「な…何…」
「俺さ、白オオカミって呼ばれてんだ。…要するに、送りオオカミ。意味、判るだろ? 家まで送ったら、そのまま黙って帰る、なんてことはねぇ」

 キス、しちまおうか。

 そう思ったけど、それはやめた。もっと楽しみたいから、大事な通過点は先送りする。身を屈めて、ひょい、と傘を拾い、濡れちまったなぁ、って、髪を掻きあげた。翡翠みたいだ、と、よく言われる目で、もう一度念を入れて見つめる。

「医者なんだって?」

 急に話を変える。いかにも寒そうに震えて見せて、首を傾げて顔を覗く。

「なら、今日は料金はいいから、俺が風邪引いたときは診てくれよ。あんたが仕事してるとこ、ちょっと見てぇんだ」

 拾った傘は差さないで、たたんで脇に挟んで、くるりとアダシノの前に立つ。伸べた手でネクタイに触れ、するする撫でる。そうして濡れてほどけにくくなってるその結び目に、ゆっくりと人差し指を差し入れた。

「なぁ? これ、ほんとにあんたの趣味? 奥さんじゃなくても、恋人からの贈り物じゃねぇの?」

 固く締まってた結び目の穴を、じりじり広げるように指を揺らす。ちょっと濡れてたって、こんなの簡単だ。言わばこれが俺らの職業だもんな。次は人差し指の次に、中指も入れる。揃えて入れたその指を、互いに擦り合わせるように…。

 我ながら、エロい動きだよなぁ。こうしてやろうか? 固く閉じて結ばれてる、あんたのそっちの穴もさ。

「あ、あの…ほんとだ、よ。全部、じ、自分で買ったんだ」
 
 しゅり…と微かな音が鳴って、とうとうネクタイは解けて落ちた。いいや、地べたになんか落ちてない、俺の指にちゃんと引っかかってる。いつの間にか、濡れた塀に背中で寄りかかって、アダシノは目を閉じていた。

 ほんとに色白。睫毛が長ぇ。髪は真っ黒で艶やかで、この上もなく美味に見える。

「なぁ…」

 声はしっとりと、ほんの少しの甘さを残して、俺の指はアダシノのワイシャツの、二番目のボタンを、もう既に外していた。

「しようぜ? 先生。何事も経験だろ…?」
「…し、しようって。そんな…」
「いいから…。どっちみち、逃がさねぇよ、ここまできたら」

 やっとほどいたネクタイだけど、今度はその結び目を、もう一度作りたいとぼんやり思う。今度はシャツの襟に、じゃなくて、あんたの腕を縛りたいんだ。いっそ足まで縛りたかった。

 あんたを俺に…縛りたい…。








3

 
 閉じてた瞼を漸く開いて「水玉ネクタイ」、いいや…アダシノは、それでも視線を逸らしてる。壁に背中を押し付けられ、逃げ場を奪われて、その動揺が手に取るようで、面白い。シャツの襟の中に忍ばせた指で、する、と鎖骨をなぞれば、眉根が寄せられて色っぽかった。

「こ、こんなとこにいちゃ、か…風邪をひく…」

 雨音よりもか細い声で、先生はそう言った。下へおろしたままの手が、握りこぶしを作って震えている。

「だ、だから…その…。だから…」
「…あぁ、そうだな。風邪ひいたら診てくれるんだっけ? それだったら尚更このまま」
「駄目だよ…!」

 唐突に激しい声でそう言われ、声よりも唐突にアダシノは俺の手首を掴んだ。あんたのシャツの中で、ゆるゆると肌をなぞって、お楽しみの最中だった俺の左手首と、解いて奪ったネクタイを、指に引っ掛けている右の手首。

「たかが風邪だと思ってちゃいけない。昔から言うだろう、風邪は万病の元…っ……。…ん…ッ」

 あーぁ、まだ後に取っておこうと思ってたのに、しちまった、キス。両腕の自由を奪われてるのは俺の方なのに、あんたは身じろぎもしない。目を見開いて、怯えたように、震えて…。手首に伝わるあんたの震えが、寒気の来るほど気持ちよかった。

「何が…駄目だって?」
「あ…、だ、駄目…だ、こんな…。だっ…て…」
「しどろもどろばっかだな、先生。寒くて、凍えて、舌が回ってねぇんだろうよ。部屋でブランデーでも飲んだら? まぁ、ホットミルクでもいいけど。そこはあんたの好きなほう」

 ちょっと苦くても、かっ、と熱くなれる方がいい? それともほんのり甘くて、優しい方が? 選ぶのは早くした方がいいんだぜ。選ばせてやる余裕なんか、今だってあんまりねぇんだから。

「で、俺はもう帰った方がいいかい?」

 思ってる言とは逆に、俺はそう言った。押してばかりじゃ芸がねぇんだ。女をオトす手管と同じ。揺さぶるのが面白い。揺さぶられて迷うあんたが堪らねぇ。

「そ…っ、それも駄目だよ。風邪を引かせたくない…」

 視線を合わせないように、それでも誠実に言う姿が、俺には酷く物珍しい。

 ちゃり…って、小さな音。俺の手首を離した先生の右手が、スーツのポケットから鍵を取り出したんだ。キーホルダーもない、ただのリングに一個だけ通した鍵は、震える指でちりちりと音を鳴らす。

 そうして、連れて行かれたマンションの三階、奥の部屋の鍵穴に、かちかちと鍵の先端が当たる。あえて何も言わず、もちろん手伝いもせずに、その鍵穴に時間をかけて鍵が通るのを見ていた。

 オトす相手の部屋の鍵が、開けられる一瞬が案外好きだぜ。小さな穴、尖った鍵の先端、焦って何度も仕損じるのが、焦らされるようで興奮するんだ。根元まで鍵が刺さって回される時は、背筋がぞくりとする。快楽の芯を抉られるみてぇ…。

 …ったく、俺も大概、堕ちた人種だ。
 綺麗で…呆れるほど汚れてない、あんたなんかが、
 知り合っていい相手じゃなかったのにな。

 あぁ、あんたの穴も、そんなふうに焦らして欲しいかい? 俺のは元々あんたのと対じゃぁないから、少しは強引に捻じ込むことになるだろうけど、痛いばっかじゃねぇのだけは保証するさ。

 俺の思ってることなんか、逆立ちしたって想像つかねぇだろう顔で、あんたは言う。まだそんなことを言ってるんだ。一つ間違えば、苛々させられちまいそうな、清純な顔して。

「や、やっと開いた。…ごめん。なんだか…。どうかしてるな。こんなくらいの寒さで、凍えてんのかなぁ、俺。さ、入って。暖まっていってほしいよ。…狭いけど」

 開いたドア内側に入った途端、俺はアダシノの自由を奪ってた。片腕を掴んで体ごと俺を振り向かせ、そのまま身をあてるにして、狭い玄関の壁に追い詰める。息のかかるような至近距離で、真っ直ぐに見つめた。胸が重ねって鼓動が聞こえる。

「なぁ、先生…。あんたは俺をこうして部屋に入れて、自分がこれからどうなるのか、少しはわかってんのか?」

 白オオカミ、って俺が呼ばれてる意味を。ここまできて、まだ判ってないってんなら、あとはもう…。

 カチン。後ろ手に俺は、あんたの逃げ道のドアに、鍵をかけた。





4


「何度も、警告したぜ…?」

 目の前にある翡翠の色の瞳。綺麗な白い髪。かすれたような声は、魔力でもあるかのように、化野の耳に滑り込んだ。押さえ付けられて身をすくませて、重なった胸からは、濡れた衣服越しの体温が伝わってくる。

 鼓動が凄くて、今にも破裂しそうだ、と何処か遠い意識で化野は思っていた。息も浅い。

 これから、どうなるのか…?
 どう…なるんだろう。
 部屋に入れちゃ、いけなかったのかもしれない。
 でも、すっかりずぶ濡れで、
 このまんま雨の中を帰すなんて、そんな…。

 く…っ、と見てる前で彼は小さく笑った。凍る寸前の水のように、クールに見えていた瞳が、ゆらりと揺れるようで本当に綺麗だ。あぁ、綺麗で、話しかけたいと思ってた。もっと傍で見たくて、だから…友達に、なれないだうろかと思っていたんだ。

 もしも友達になれたら、ああいう薄暗い店の中とかじゃなくて、昼の日差しの下の、この髪の色と、瞳の色が見られるのに。そんなことを思って、何度も、何度も通った。

 給料前とかで苦しくても、一週間もあの店に行かないと、姿が見たくて、声を聞きたくて堪らなくなって。

「…ぁ……」

 小さく、声が零れた。それ以上は声が漏れるのを封じられた。唇が重ねられてる。二度目だ。顔を逸らす隙なんか無い。不意打ちよりも上手に顔が寄せられて、気付いたらもう唇を吸われてた。

 そっと擦り合わせるように、表面だけでかすめて、そのまま何か言うように彼の唇が動く。それを意識するかしないかのうちに、上唇だけを小さく吸って…。ちゅ、と微かに音をさせて、今度は舌先が、するりと伸ばされて、唇と唇の間の、小さな隙間をなぞるのだ。

「…ん…ん、っふ…」

 あぁ、こんなこと…・流されてる場合じゃないのに。それは判っていても、化野の体は動かない。胸に置かれた片手のひらが、濡れたシャツ越しに肌を撫でてる。口付けは、揺らぎを楽しむように深くなったり浅くなったり。一瞬離したかと思うと、次の瞬間には噛み付くようにされ、ちゅるりと音を立てて舌を吸われる。

 体に力が少しも入らない。触れられている場所、重なっている胴以外の、腕や脚なんか、どこかへ行ってしまった気がする。

「あ…」
「いいから」
「や…。そんな…」

 何が? 言葉を零してから気付く。彼の手のひらが、いつの間にかズボンのベルトにかかっていた。カチャと金具が音を立て、次に、ジ…、小さな振動が響くのは…、ジッパー…が、下ろされ…。

「だ、駄目…だ…」
「…っつ…。痛ぇな、爪」

 苛立ったように言って、ギンコはきつい目で化野を睨んだ。重なった胸は離さないままで、彼は自分の片手を顔の位置まで上げて、軽く横を向いて手首の内側を舐める。血の、匂いがした。眩む目に間近にある赤い色が見えて、自分が彼を傷つけたのだ、と化野は思った。

「あぁ…、俺が? ご、ごめん。手当て、とか…」
「…そんな場合かよ? 余裕だな、先生」

 壁に両手を付いて、腕と腕の間に化野を捕まえたまま、ギンコはあからさまに、獲物を見下ろすような目。冷めたような言い方で、それでもゆらゆらと火の灯ったように性欲を揺らす目で、視線だけを下に滑らせた。

「こんなになってんのに、人の怪我の心配かよ」







5


 笑い混じりの声で揶揄されて、化野は自分自身の姿へ視線を落す。目に映ったものに、息が止まった。喉が小さく痙攣するようで、声も出ない。

 曝された胸。外されたベルト。下着まで少し下ろされ、黒い繁みが覗いているのが、こんな薄暗がりの中でも判る。前を広げられたズボンの中で、窮屈そうに下着を押し上げているのが何なのか、理解すると同時に体がカッ、と熱くなった。

「あ……」
「…感度がいいな。まだ殆ど触ってもいないんだぜ? そら、下着越しでも滲んでるのが判る」
「…ゃ…ッ、ぁ…」

 無造作に、なんの躊躇も無く、ギンコはそれに手を触れた。布越しの形をちらりと見て、右手をそこへと差し伸べ、指先で先端を突付く。ぬるりとした感触を笑って、人差し指と中指と、親指の先だけでくりくりと愛撫してやる。

「やめ、てくれ…。ぅう…ぁ…。や…」

 逃げるように、もしくは本能のままに、化野の下肢が揺らぐ。切れ切れの懇願を聞きながら、それを無視したままギンコはそこを弄くり、合間には下着を少しずつ引き下ろしていく。やがては、すっかり高ぶってしまったそれが、零れるように剥き出しにされて、今にも雫が落ちそうだ。

「たの…む、やめ…」
「……やめるったって、今やめたら辛いだけだろ?」

 両方の手のひらの中に、それを包むようにしたまま、ギンコは化野の胸に自分の胸を押し付け、額と額をつけて囁く。息が掛かるだけで、苦しそうに顔を歪め、それでも化野は初めてギンコに抗議した。弱弱しい声で、涙まで浮かべながら、彼はギンコと視線を合わせる。

「は、恥だと、お…思わ、ないのか…? こ、こんな…無理やり、人の、い…っ、嫌がることして」
「…あんたは嫌がってない」
「い、嫌がってるだろ…っ」
「嫌がってない。さっきはちょっと引っかかれたけどな。そっから先、腕にも指にも力が入ってないぜ。あんたの手は、俺の手首に掛かってるだけだ。その上、こんな感じちまってるしな」

 一度言葉を止めて、ギンコは笑った。触れ合わせていた額が離れると同時に、ギンコは化野の耳の下に、ちゅ、と音を立ててキスをする。耳朶を噛んで、舌でなぶって、震え上がらせながら彼は言うのだ。

「あんた、俺を好きだろ? 俺目当てで店に通ってたんだろう」

 今更のように聞かれると、化野はその一瞬に息を詰める。それだけは偽れない。白い綺麗な髪と、美しい翠の目が好きだ。目が合うといつも息が止まってしまう。今、この瞬間のように。

「でも、まぁ…。こんなことされちゃ、もう嫌いになっただろうけどな」
「………」
「どうせこれきりなんだから、喰われちまいなよ。男と女じゃないんだ。ガキの出来る心配だけはねぇからさ」
「…ぅ…あ…っ、ぁあ!」

 びく、と体を震わせて、粗く施される愛撫に化野は喘いだ。快楽に沈められて喘ぎながら、それでも化野は、必死になってギンコの目を見て、何のつもりなのか数回首を横に振る仕草をする。がくがくと震えている唇が、切れ切れの声を紡いだ。

「ギン、コ…。ギ…」

 縋るような目が、何かを伝えてくる。イかされそうになって、化野はギンコの肩に顔を埋め、やっとの思いで何かを言葉にした。

「き、聞い…てく…れ…、聞い、て…」
「…何を? まぁ、まず一回イっとけば?」
「ひ、ぁ…、ぁーーーっ!」
「あんまし動くなって、零れちまう」

 ぱしゃ、と小さく水が零れるように、ギンコの手のひらに熱い雫が満ちた。両手で器を作るようにして先端を包み、一滴も床に滴らせることなく受け止めると、崩れるように寄り掛かってくる化野の体を、自分の肩と胸で器用に支えた。

「あ、っ…。ぁあ…あ…」
「…化野」

 耳元にもう一度、ギンコは囁く。初めて呼ばれた名に、化野の心で何かが動いた。

「聞こえてるか? 化野。俺の上着のポケットに、ハンカチが入ってんだ。取ってくれよ。…右側」
「み…ぎ…」

 崩れ落ちそうになりながら、化野は律儀にギンコの言葉へ耳を貸す。地味なグレイに何かのワンポイントの、どこにでもありそうなハンカチを、化野はギンコの言うとおりに取り出す。指が震えて、落しそうになる。

「広げて…。あとは、見てない方がいいぜ?」

 見なくても、どういうつもりなのかは判る。ギンコの両手の上に広げたハンカチをのせ、化野は顔を逸らし、目を閉じた。ギンコは手で受け止めた化野の滴りを処理するのだろう。慣れたその所作に、微かな痛みを感じた。これはギンコの「仕事」なのだ。

 でも、それでも俺は…。
 それでもさっき、言われたようには…。

「歩けるか? 支えるからシャワーを使えよ」

 そう言って化野のズボンの前を閉めてやり、肩を貸して上手に体を支え、当てずっぽうにギンコは彼の部屋の中を奥へと進んだ。最初に居間。向こうのドアは多分寝室。小さなキッチンが見えて、とすればバスルームはあちら側。

 シャワールームのドアの前まで連れて行き、洗面台に掴まらせて、ギンコが手を離そうとすると、その腕を、震える指が強く掴んだのだ。

「か、帰…らないでくれ。話を、したいんだ…」
「あー、そういや、さっき何か言ってたな。何の話だかしらないけど、無理しないでいいぜ。ほんとはもう一分一秒も俺と居たくねぇだろう」
「違う。…違うんだ…。君を…」

 どうしてか、言い掛けた言葉の先が、判るような気がした。真摯な目が、怯えを滲ませながらも真っ直ぐだった。ギンコは彼の眼差しを、逸らすことも出来ずに見つめ返して受け止めて、胸の芯にある何かが、ゆらりと揺らぐのを感じた。こんな気持ちは、初めてかもしれない。

「好きなんだ…」
「だから、まずシャワーを浴びなって」

 ギンコは淡々と言った。縋ってくる手の熱さが、痛いほどに思えた。

「帰らねぇから。…俺の今日の客は、あんただからな」




 


6
 
 ギンコは一人リビングへと戻って、淡い色のカーテンが掛かった窓辺に近付いた。そのカーテンに手を添えて、窓硝子に顔を寄せて外を見る。深夜…。遠くにネオンらしきものが微かに見えるけれど、窓に強く打ち付ける雨が、何もかもを遠く見せている。

 こうして窓の傍にいると、化野が浴びているシャワーの音は聞こえない。

「……好きなんだ、ってか…」

 呟いて、くす、と笑った。無意識に尻ポケットの煙草を探るが、ぐっしょりと濡れいるのに気付いて、彼は小さく舌打ちする。自分が今、少しばかり苛立っていることに気付いてしまった。

 好き? 何が。何にも知らないくせにな。

 皮肉るように心で呟いて、視線で部屋の中を辿る。落とした照明に浮かび上がる室内は、それほど贅沢そうにも見えないが、どこもみな綺麗に整っていて、これで本当に男の一人暮らしで、付き合っている女もいないのなら、化野というあの男は随分と几帳面なのだろう。

 窓から離れると、微かなシャワーの音。ギンコは部屋を横切って、正面に見えた閉じた扉を無造作に開ける。部屋の中にはベッドが一つに、サイドテーブル、背の高いライトに、クローゼット。

 勝手に覗き見るのみならず、何の気負いもせずに足を踏み入れて、奥のクローゼットの扉を開いた。扉の内側には、見覚えのあるネクタイがずらり。どれもこれも、本当に水玉模様で、思わず笑いが込み上げた。

 紺色に、渋みのあるダークグレーの細かい水玉の、趣味のいい一本に、指の背でするりと触れて、その感触を楽しむ。ギンコの視線が、きちんとメイクされたベッドを眺めていた。それを今から、めちゃめちゃにすることになるだろう、と、そう思う。

 帰らないでくれ。

 話をしたい。

 君を好きなんだ。

 帰るな、好きだ、は、判る。間に挟まった「話をしたい」の意味が判らなくて、その煩わしさに、自分は苛立っているのだろうか。

 俺を「好き」なんだろう。気に入ったんだろう。俺もあんたを気に入ったんだ。だったらお互いガキじゃあねぇ。欲しいまま、求めるままに快楽を貪ればいい。それ以外は煩わしいだけじゃねぇか。違うのか。

 例えそれへ反論されようとも、ギンコには相手を捻じ伏せるだけの自信がある。人間ならば誰でも「快楽」に抗うように出来ていない筈だから。

 ネクタイの一本へ指を滑らせながら、ぼんやりと考えていたギンコは、次の瞬間、クローゼットの扉を開けたまま、鋭く振り向いていた。突然、バスルームの方から、何かを引っくり返したような派手な音が響いたのだ。

 ドアを開けると、バスタブに片手で掴まった格好で、タイルの床に膝を付き、今にも崩れ落ちてしまいそうな化野の姿。

「……大丈夫か…?」
「あ、あぁ…。ちょっと、力が入らなくて、足が滑っ…。…ッ!」

 無理に立ち上がろうとする足が、床に転がったボディソープのボトルを蹴る。見れば、化野の足の傍には、剃刀や石鹸も散乱していた。

「いい。もう出ろよ。簡単に流すくらいしたんだろう。どっちみち一人じゃ無理なようだしな」
「い、いや…まだちゃんと洗ってな…」
「…そんな隅々綺麗にしてどうすんだ。続きが欲しいのか?」
「ち、違…っ…。……ぁ…」

 どうやら眩暈もしているらしい。立ち上がろうと力を入れるたび、化野の体はがくりと傾く。壁に置いた白い指先は震えていて、顔は真っ青だった。

「…世話を焼かすなよ」

 ギンコはそう言って、いきなり化野の体を抱き上げる。全身を濡らしたままの彼を抱いたまま、部屋を横切り、寝室へと向かっていく。化野は驚いて思わず息を止め、もがくか大人しくするか迷ったが、結局は顔を下へ向けてぽつりと言った。

「力、あるんだな。…そうは見えないのに」
「別にそうでもねぇよ。今、無理にもがかれたら、すぐにあんたを床へ落っことす自信があるね」

 そうやって軽口を叩きながら、ベッドの上に化野を下ろした。ギンコは一度バスルームに戻ると、適当にあちこち探ってバスタオルを見つけ、それを手に寝室へ戻ってくる。

「…なんなら俺が拭いてやろうか?」
「じ、自分で出来るから」

 化野はギンコの方を見られないまま、大急ぎで体の水滴を拭き取り、ベットカバーの端を捲って、逃げるように潜り込む。胸まで布団を引き上げて、濡れた髪した化野は言った。

「ごめん。ほんとに、迷惑なことばかりで」
「………」
「もう、帰ればよかったと、思ってるだろう…?」
「別に思ってないけどな。…まだ、俺はあんたに何もしてない。あんなのは、何かした内に入らないんだぜ?」

 玄関口でした事を、あっさりと流すようにそう言えば、見る間に化野の頬が染まっていく。ギンコは唐突に、自分が今着ているシャツのボタンに指をかけた。上から一つずつ、手早く外してしまうと、するりと脱いで、床へ落とす。

「ぐしょ濡れだ。着たままじゃかえって寒い…。シャワーは帰る前に借りるぜ。今浴びたんじゃ二度手間になる」

 その言葉の意味の深さを、化野は判っているだろうか。

 あらわれた裸の胸に、彼の視線が一瞬絡んで、次にはすぐに逸らされた。ギンコはサイドテーブルに腰を寄せ掛けるようにして、少しの間黙っていた。その短い沈黙の間、化野は何度か口を開いては閉じ、ギンコを盗み見ようとして、そう出来ずに項垂れた。

「…思ってたんだよ。ずっと」
「何を?」
「君のことを、あの店で最初に見てから、何でこんなに君のことが気になるんだろう、って。…君は女の子じゃないし、俺だって女じゃないのに、どうして俺は、君のことばかり考えてしまうんだろう。ずっと考えていても…答えは、出なかったよ。だからきっと、俺は君と友達になりたいんだろうと、そう思って…」

 ふう、と、聞こえよがしにギンコはため息をついた。

 煙草が指にあったら、白い煙を、この男の顔に吹きかけていたかもしれない。ゲイも、ホモも、同性愛も、今のこの時代に溢れかえっていて珍しくも無いのに、そこまで意固地に「あり得ない」ことと思わなくても良さそうなものだろうに。

「で、先生は今も俺と『お友達』になりたいのか? だとしても、願い下げだけどな。普通に友達になるには、あんたは俺にとって扇情的過ぎるんだよ。清い友人付き合いなんか、できる筈がねぇ。…判るだろ? 言ってることが」
「…す、少しは、わかるよ…。だけど」
「だけど、じゃねぇよ」

 ギシ、と小さくベッドが軋んだ。ギンコはいつの間にかベッドの上へと乗り出し、化野の体の傍に手を付いていた。

「俺はあんたを抱きてぇ。あんたは俺を好きだという。なら、何の問題もない。なぁ? どこも違わないだろ…?」
「…で…も、これは君の、仕事でしか…な…」

 する、とギンコの手のひらが化野の頬を撫でた。まだしっとりと濡れた化野の髪が、彼の指先に絡むように揺れる。

「…少し、口を開けてな。舌と唇だけで、どれだけ感じるのか、教えてやるぜ…?」
「だ…っ、駄目だ、よ…、ギ…」

 間近で見る白い髪。近付いてくる翡翠色の瞳が、あまりに綺麗で、また一瞬の眩暈。あぁ、と饒舌な息を付きながら、化野はいつしか、ギンコの背中にすがり付いていたのだった。