続・モノクローム
Closed door 10
電話が鳴った。充電器にのせられ、棚の上にある化野のスマートフォンだ。ちら、とギンコは視線をやり、近付くでもなく放置。鳴り止む様子はなくて、淡々と呼び出し音を聞いている。
三十秒も鳴り続けただろうか、その音が途切れたすぐ後に、バスルームの扉が開く気配。ラフな部屋着に着替えた化野が、濡れ髪にタオルをあてつつ現れるのへ、こう言った。
「電話、鳴ってたぜ? かなりしつこく。急患だったりしてな…?」
さっ、と化野の顔色が変わり、文字通り飛び付く様にスマホを手にし、その一瞬、彼は不思議そうな顔をした。
「…病院からじゃない。掛け直して構わないだろうか、恩師からで」
言っている途中でまた鳴り出して、嫌も応も待つ余裕なく、化野は慌てて通話を繋げる。
「化野です」
『あぁ、よかった。深夜に済まない、なかなか体が空かなくて。少し話したいんだが、今、構わないかね』
「あ…、今、ですか?」
困ったように化野はギンコの眼差しを求めた。ギンコは軽く肩を竦め、化野が用意したタオルを取り、バスルームへと足を向ける。
「あの、先生、今日はありがとうございました。貴重なお時間を割いて頂きまして…。お話と言うのは」
『いや、他でもない、今日の指示のことだよ。あれから考えてみたかね? 君なりに』
「…ええ、考えては、みました」
問われて、体が凍り付くような心地がした。正直、言われたことは随分ショックで、ずっと尊敬してきた恩師が、そんな乱暴なことを言ったことを、信じたくない思いもあったのだ。正論が仮にそうであろうとも、もっと別の手立てはないものかと、共に考えてくれるような、誠実な人だと思っていたから。
『悩んだだろう…? そんな乱暴な方法しかないのか、と。私が、精神疾患について、以前君に助言したことを覚えているか? くれぐれも、と言ったと思うが』
「…はい……」
記憶が、遠い過去を探る。電話の向こうに居るこの医者に、何年も前に言われた記憶が、ゆっくりと心の表へ浮き上がってきた。精神疾患、所謂メンタルクリニックの領分に、君は踏み込むべきじゃない、と、恩師である彼は、化野にそう言ったのだ。
「覚えて、います」
曖昧な言い方になるが、君は心が柔らかでありすぎる。
患者自身や患者の家族に、親身に心を添わせ過ぎる。
治してやりたいと思うあまり、近くなり過ぎて、
君自身が壊れてしまうことになり兼ねないんだ。
メンタルの領域だと、特にね。
それが患者の為にならないことを、覚えておきなさい。
「よく、覚えて」
『そうか。…君には、もっとも乱暴な方法だけをあえて聞かせたんだ。それを、思い出して貰うために。化野君、自身の患者を、他の医者に任せるのは無責任だと思うかもしれないが、メンタル面で経験の深い、ベテランの医師に任せるべきだよ。紹介状は私が書く。それが言いたくて電話した。正しい選択をしたまえ。…遅くにすまなかった』
ぷつ、つーーーー。
「…ありがとう、ございます」
もう切れてしまった電話に向かいそう言って、化野は深く頭を下げた。体から力が抜けて、どさりとベッドに腰を下ろす。そのまま後ろに倒れて目を閉じた。急にシャワーの音が耳について、彼は少し焦って起き上がる。
「あ、そうだ。着替えか何か」
あっただろうか、出来ればまだ袖を通してない服がいいけど。クロゼットを漁って、見つけたのはクリーニングから戻ったままの、ラフなシャツ。下はいいのがなくて、仕方なく上だけ。腕にかけて戻ってきて、それを椅子の背に。
テーブルに放られたままのコンドームに目が行って、そろり、それへと手を伸ばす。所持していたことぐらいある。大学時代に、一応。付き合ってた子がいたこともあったんだから。でも、今日これを使うのは、自分ではなくて。
「……も、もっと…ちゃんと洗ってくればよかった…」
行為を想像して、独り言の声さえ上擦った。顔や首筋が熱くて、赤くなっているのだと分かる。ガチャ、とドアが開き、化野は弾かれたように顔を上げた。
「っ…」
「…緊張、してんのかい…?」
何度も見た表情で、薄く笑うギンコの顔色は、少し青く見えたが、気のせいだと思える程度で。
「そ、れは…少しぐらいは…っ」
「眠らない覚悟って言ってたよな? だったら、優しく、ゆっくりしてやるよ」
上半身は裸で、下は自分の服のままで、ギンコはゆっくりと化野に近付いた。動けずその場で掴まって、ゴツ、と椅子の背に腰がぶつかる。椅子はもう一度ガタリと音を立てた。ギンコの手のひらが、彼の着ている服ごしに、其処をやんわりと握り、すりすりと撫で始めたのだ。
「あ…っ、待っ…」
「『待った』は三度まで許してやるから、こんなところで使うな」
ジ…っ。ジッパーが下まで下ろされて、連なる動作のように中に手が滑り混んでくる。下着と素肌の間に、指を一本くぐらせて、ギンコは其処へと直に触れた。
「ん…ふぅ…ッ」
声が出ると同時に、膝から見事に力が抜けて、支えられてベッドに導かれる。仰向けに寝かされると、自分が酷く無防備に思えた。
「ぁ、あぁ…ぁ…」
「あんたやっぱり、いい声だよな。腰、浮かせて」
言われたことを、ただ心で反芻するのが精いっぱい。それも分かっているのだろう。ギンコは化野の両膝を開かせ、その片方を自分の腰の位置で横抱きにして、ベッドから腰を持ち上げさせた、器用に、ズボンと下着をずらされて、みっともない格好だと思うのか、化野が頬を更に朱に染めた。
「怖いかい?」
声が、笑っている。揶揄するように。ギンコは顔を近付け、ちっ、と小さな音が鳴るキスをした。そのまま胸へと顔が下りて、いつの間にか開けられていたシャツの内側に、ギンコの前髪と額が触れた。
なんて、冷たい。
そう思った。まるで、真冬の外から戻ったばかりのように。いいや、いっそまだ雪の降る中にいるかのように。体が勝手に動いていた。何も考えてなんかいない。知らずにシーツを握っていた指がほどけて、そのまま、腕を…。
ふわり、と首を抱かれ、ギンコの愛撫が止まる。化野の胸へと顔が押し付けられる。どっ、どっ、大きく鳴っている心臓の音が、触れた箇所から体に響いて、嫌だと、そう、ギンコは思ったのだ。
「離せ」
「…どうして?」
「どうって。これじゃあんたを抱けねぇだろ?」
ぎゅ。更に、化野の両腕に力が籠る。笑って軽口を叩く声。動作はひとつも無い癖、強張ったギンコの体からは、怯える子供のような、いたいけさが零れて思えた。
「体が冷たいよ。温まりたいって言ったのは君だ。性行為なんかしなくても温め合える。なんなら互いに服を全部脱いで、もっと肌を重ね合わせれば」
耳朶に直接注ぐように、そう言った。抱いた腕の片方を背へと滑らせ、ゆっくりと撫でると、ギンコの体が少しずつ弛緩するのが分かった。気を許してくれるのかと、満ちるてくるような喜びを感じたその時、ギンコは、笑った。
「ふ…。はは…っ…」
上げられた顔の、その眼差しのなんという、挑むような。
「あんた、自分を万能だとでも思ってんのか? いいぜ? してみなよ? 俺はあんたにとって、あの子よりも、ずっと簡単な患者ってことかい?」
反論の言葉を言う暇など無かった。言い切られたその次の一瞬、化野の脚は絡められ、腰をきつく抱き取られる。重なったままで互いの体が四分の一回転。これ以上は無いほど四肢が密着した。腕も脚も胸も。ギンコは顔を化野の首筋へと埋めて、動脈の上に唇を押し当てた。
氷。
解けない氷があるとしたら、
きっと、こんなふうだ。
冷たい、寒い。
触れているあらゆる箇所から、
すべての熱を奪われていく。
いいや違う、そうじゃない。それならいっそ、嬉しいのに、熱はただただ、無理やりに、冷たさへと切り替えられていくような気がした。ギンコを温めてやれないだけではなく。自分の体が冷えて、凍えてしまう。
自分が壊されていくような、恐怖。寒いことは怖いことなのだと、初めてはっきり意識した。重ねられた体を剥がして逃げたいと、抗えぬ本能のように思って、無力だと感じた。
でも、嫌だ。
このまま負けたくない。
あぁ、違うよ。
勝ち負けじゃない。
俺の中の想いが言うんだ。
欲しいのなら逃げるな、と。
逃げない。ぎりぎりまで、逃げない。そのぎりぎりを越えても逃げたくない。一度でも逃げたらきっと君は、やっと空いたドアの隙間に、取り返しのつかないものを流し込んで、閉じこもったまま閉ざされてしまうのだろう。
だから、逃げたくない。逃げ、ない。
ごぉーーー…
たた たた かたたん
かた たた たたん
たたん たた た たん …
あぁ、一番電車の音だ。化野はそう思って、目を閉じたまま静かに息を吸い込み、静かに吐いた。なんだか体が冷えていて、体の上に毛布を引き上げようと手探りして、自分が何も掛けていないことに気付く。
え。なんで。
寒いと思った。風邪を引く。
そして起きる動作をしかけて目を開き、見えたものに、痺れたような感覚を味わったのだ。目の前に、同じベッドの上に、酷く美しい人が、居た。カーテン越しの淡い光を浴びた、白とも銀ともつかない髪の色。血管が透けていないのが不思議なほどの、白い肌。
逆端から落ちそうな位置だと思った。あとほんの十センチずれたら落ちる。
「もっと…、こっちに」
名を呼ぶでもなく、無意識にそう言って、それへと呼応するようにギンコの唇が動くのを見た。声も少し、聞こえた。
「……る…せぇ、な…。スグ……」
どこから来たのか分からないような敗北感。罪悪を感じながら手を伸ばして、自分に一番近い位置にある片手に触れた。緩く開いた手のひらの内側へ、手の甲を重ねるように。
ほんの僅かだが、確かな温もり。
身を起こして毛布の一枚を広げて、そうっと、出来うる限りそうっと、ギンコの体を覆ってやって、化野は元の位置にもう一度横たわる。掛けるものなどなくて、寒かったがそれでもよかった。
「いいだろう? 見飽きるまで見てていいと言ったのは、君自身なんだから…」
この眠りを妨げず、もう少しだけ見ていることが、今の彼の願いだった。
終
勿論、シリーズが終わったわけじゃないんですよー。何しろスケール?がでかい話だから、本当の完結なんてどこらへんにあるのかまだ見えていませんからねっ。でもひとまずここで、止めておいて、また書き始める時まで眠らせて置くのです。
必ず続きを書きますので、どうぞ待っていてやって下さいね。次回のタイトルは恐らく『Flower Flowers』。乙女なタイトルだなー////
14/05/05