【ノック】
あんた、俺のこと忘れてるだろ。
さらりと髪を掻き上げてギンコが言う。
自分の仕事に夢中な化野は気付かない。
二人の間のテーブル上を、こつんと、
ノックひとつして気を引いてから、
おい、とギンコは呼び掛けた。
ノートに何やら書いていた化野が、
伸びかけた前髪の下からこちらを見る。
暫し何も言わず、まだ己の中、の顔。
ノックを、またギンコはふたつ。
はた、と化野は目をしばたいて、
ラテン語の専門知識の中から帰ってきた。
しっかりとギンコを映した眼差し。
脳の中を今度は「恋人」で満たしてくれ。
分厚い本だな、そんなのよく読める。
レポートかなんかなのか?
どうでもよさそうな問い掛けなのに、
化野はいらなく丁寧に説明を始めた。
まだラテン語で医療の知識を得てた頃の
臨床学の本を読んでるんだよ。
テクノロジーが発達した今だって、
長い歴史を学ぶのは無意味じゃない。
どんな分野でも同じだけど、これは…
かったりいよ、楽しいことしようぜ?
一言で、ばっさり。
とんでもなく無作法だけれど。
ノックを今度は三つ、少し強くしてみせ。
恋人の、分かりにくく拗ねた目に、
今やっと気付いて化野は本を閉じた。
し、しようか…
キスから始める、長い夜。
(文頭文字をある短歌の言葉順にするという遊びで書いてます)
13/10/13転載
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