Go to home 1
汽車を下り、また別の汽車に乗る。移動すること一日半。途中でレールが途切れているから、古い車を使った、タクシーのようなものにも乗った。日本の中古車だった。車は今にも空中分解してしまいそうに、ぎしぎしと軋みを上げ続ける。
フロントガラスには放射状にヒビが入っていて、既にここが安全な土地ではないと分からせてくる。安全ではないからこそ、ギンコを呼んだ男は、この土地に居るのだ。ボランティアによって賄われている、小さな医療施設。やっと辿り着いたそこで、ギンコは彼の所在を聞く。
『あなたが、ミスタ・ギンコ?』
現地の人であろう女性から、あまり上手でない英語で問われる。
「イエス」
そう答えてから背中のリュックを下ろし、携えてきたものを見せると。女性は緊張を解いた顔で頷いてギンコを案内した。そこから片言の日本語になる。
「ワタシ、チイサイ日本語ワカリマス。マグリブ、チイサイおしえてくれた。だからチイサイ言葉ワタシわかる」
『チイサイ』は要するに『少し』と言いたいのだろうとギンコは納得する。マグリブはこれからギンコが会う男の名前だ。イチエ=マグリブ=ヤツガヤ。名前を聞いてやっと思い出した彼の顔、聞いてはいたものの、殆ど忘れていた彼の出自。
一衛はワンエイス。八分の一だけこの国の血を持つ男だ。国籍は日本。けれどこの国の言葉に堪能で、どことなく、こちらの人間に容姿が似ている。そして、ここでのカメラマン歴は驚くほど長い。
「一衛。いや、マグリブは元気なのか? 怪我はいつ治る?」
意識してゆっくりと、簡単な言葉で問いかけると、その気遣いが分かったのか、女性は足を緩めてぽつぽつと話した。
「体ワルカッタ、とても。でもマグリブがんばった。起きられるなった。でもマダ杖。カメラのシゴト無理。でもマグリブ帰るしない。国にムスメいる。オカネいる。ワタシ気持ちワカル。でもマグリブの仕事キライ。マグリブ、キライない。でもマグリブの写真、とてもキライ」
言い終えて立ち止まり、彼女は廊下を指さした。短い廊下の突き当りの部屋に、一衛は居るらしかった。
「ありがとう。言葉、よくわかったよ」
女性が居なくなると、人の声は何も聞こえなくなった。いくつかの閉じたドアの中に、誰かがいる気配はあるのに、話し声はしないのだ。ギンコは廊下を進み、教えられたドアを軽くノックする。
応じる声が聞こえて、元々隙間の空いていたドアを、ギンコは静かに押し開けた。
「よぉ…」
ベッドに浅く腰かけて、胸にも腕にも包帯をし、そして片脚にギプスをつけた男がギンコを見ている。ギンコもその男、一衛の顔をじっと眺め、彼との記憶を思い出そうとしたが、殆ど思い出せなかった。
「なんかお前変わんねぇなぁ。あれから何年も経っている気がしねぇや。元気だったかい?」
「悪いが」
ギンコが何か言い掛けると、一衛は笑い飛ばすように声を大きくする。
「ははッ。あんまし俺を覚えてねぇんだろ? 二か月は一緒に行動してたのによ。だってお前さ、あいつのことばっかだったもんなぁ」
じっと見つめる男の顔に、まるで裂いたような惨い傷跡。歪んだ顔。その傷を見て、ギンコは堪えられずに視線を逸らした。目の前にフラッシュする、黒で塗りつぶされた赤。爆風と、乾いた砂と…。
「悪ぃ…。流石に無神経が過ぎた。来てくれと頼んだのは俺だが、お前、よくまた来る気になったな。恨んでるだろ? この国のことを。俺も恨んでるぜ、心から、恨んでいる。一生許さねぇ…。まぁ、座んなよ」
傾いだ椅子を勧められ、ギンコが座ると、一衛は逆に立ち上がった。窓にかかっている分厚いカーテンを、薄汚れた杖で半端に開けて、窓ガラスの向こうの風景へ目をやる。
風が吹くたびに霞んで消える風景を、漠然と目に写しながら一衛は話した。
国に娘がいる、生れ付き目が悪い。殆ど見えねぇんだ。今、鼻と鼻がくっつくほど顔を寄せて、なんとか俺のことがわかる程度の視力だ。年々失明に近付いてる。
娘の治療と、ゆくゆくの手術の為に金が要る。俺は金のためにこの仕事を選んだ。危ねぇなんてのは、最初からわかってたさ。終いには命を落とすかもしんねぇって。でもそれならそれでよかった。ただ、即死だけは死んでもしねぇ。
生きたまんまで国に戻って、この目を娘にくれてやるつもりだった。それが夢だったと言ってもいい。
なのにこの様だぜ。命は要らないって言ってんのに、無駄に命は残った。その代わり、両目の角膜に傷を負った。こうしてちゃんと見える癖に、カメラマンも続けられるのに、移植すんのはもう出来ねぇっていうんだぜ。俺は、娘に目をやる夢だけ、断たれたんだよ。
なぁ? なぁっ? この国は、俺になんの恨みがあるんだ? 野次馬みてぇにレンズを向けて、金儲けの材料にしたからか? その復讐かっ?
でも、俺はこれからだって、事実を撮って金にするぜ。まだまだ金が要る。娘の目の治療がある。いつか誰かの目が貰えるって時に、手術の金がねぇってわけにいかねぇ。
分るだろう? なぁ? だから俺は国に帰らねぇんだ。一度戻って別のヤツがこっちに来ちまったら、簡単には戻れなくなっちまう。だから、俺がここで脚を治して、また戦場に戻る時まで、お前には中継ぎをして貰いたい。
お前は俺の仕事の代わりになる写真を撮るんだよ。いいか、なるべく酷いのがいい。瓦礫の下敷きになった体とか、吹き飛んだ足とか腕とか。流れたばっかの血とかだ。肉親が死んで、泣き喚いてるヤツの顔でもいい。
惨い写真が雑誌に載る時ゃ、いちいちモザイクがかかるが、それでも高く売れるんだよ。なぁに、撮るときは望遠で撮りゃいいんだ。望遠は倍率の凄いのを俺が持ってる。修理の済んだ俺のカメラ、持ってきてくれたんだろ?
腕利きの修理師かなんか知らねぇが、送り返せって言ったのに無視しやがって。
地図はこれだ。印のある場所の撮影許可がある。身分証明は俺のを持って行け。ちょうどいい塩梅に、顔写真のとこだけ酷く日焼けして殆ど見えない。
「………わかった…」
話を聞き終えたギンコは、鞄の中からカメラの入った箱を取り出して、ベッドの上に置いた。すぐに引っ込められた彼の手は、震えていた。
あぁ、怒っている。
と、ギンコは思っていた。ギンコの体の奥底にいる、優しい男が怒っている。でも同時に"彼"は悲しんでいた。心を傷めて、顔を歪めて、何もしてやれない無力さに、震えている。
あんた、怒ってるんだなぁ、スグロ。
誰かをじゃない、こうなってしまった運命を。
ギンコは震えの止められない自身の手を握り込み、真っ直ぐに一衛の顔を見据えて言った。
「これはあんたのカメラだ。返す。俺は使わない。何処を撮っていいかは了解した。でもどんな写真を撮るかってことまで、あんたの指示通りにする気はない。命をかけるのは俺だ。俺の撮りたいように撮る」
「なんだと?」
約束が違う、と一衛は言った。約束なんかしていない、とギンコは言い返す。実際、承諾したのはカメラを此処へ持ってくることと、彼が仕事に復帰するまでの間の中継ぎだ。
掴みかかろうとする一衛の杖を奪って、窓を開けて外へと放り投げ、無理やり彼をベッドに座らせる。
「金を稼げる写真が撮りたきゃ、早く体を治せ。俺はあんたの望みに付き合うほど人が良くはねぇよ。…スグロとは違う」
ぐい、と人差し指を、一衛の胸に押し付けて、ギンコは言ったのだ。そう言った途端に一衛は力を抜いた。きっと、ギンコが思い出したのと同じことを、彼も思い出したのだろう。
一衛はもう何も言わなかった。ギンコはひと月かふた月に一度、彼に電話をすると言ったが、そもそも電波の通じるところは限られる。都会に出て、大きい駅まで出れば或いはと思うが、戦地であるほどそれは叶わない。
一衛が日本に居るギンコに電話出来たのは、その間、彼が怪我をおして電話の可能な場所に滞在していたからだ。
「そういや、なんであんた、俺やドラ爺の連絡先を知ってたんだ?」
部屋を出ていく前にギンコが聞くと、一衛は肩をすくめて、それでも少し笑った。
「そんなことも知らねぇのかよ。あの時、俺とあいつとお前はチームだったんだぜ? 誰に何があっても助け合えるように、たとえば誰かが帰国したあとでも、必要なら支えられるように、って連絡先を交換したんだよ。あの修理屋のことも、頼っていいから、ってな」
いいヤツだったな…。
と、一衛が呟くのが、ドアの締まる直前に聞こえた。
「ミスタ・ギンコ。またココへきますか?」
来た時に案内してくれた女性が、外までギンコを見送ってくれた。一衛の部屋の外で杖を拾い、不思議がる彼女に手渡しながら、ギンコは多分、と返事をした。最後に、この施設の職員証らしきものを差し出される。写真だろう部分も、名前も、何かのシミで殆ど見えない。
明らかに身分詐称の為の工作だが、マグリブのそれといい、こういうことは当たり前に横行しているのだろう。
「キケン感じたら、コレ見せてクダサイ。タバコかアルコール一緒渡せば、見なかったことにシテくれる時アリマス」
彼女はそれを強引にギンコのポケットへ押し込み、項垂れて数歩下がって、もう一度顔を上げる。
「マグリブ、サビシイ。ここで話すのワタシだけ。他ミンナ。カレ憎い。写真、ヒドイせい。でも昔ヤサシカッタこと、ほんとはミンナ覚えてる。だからミンナ、ツライ。マグリブも、ツライ。ミスタ・ギンコ。貴方がシヌのもツライです。戻って、キテ、クダサイ」
彼女の後ろで、幾つもの部屋のカーテンに隙間があった。ひとつひとつに視線を感じた。それはどれも悪意ではないと、ギンコには分かったのだ。
「…あぁ。約束は、出来ないが」
踵を返し、ギンコは歩き出した。急いで駅へ戻らなければ、今日の汽車の最終は夕方には行ってしまうから。
続
ついこの間ラストまで書いたばかりの「Far far away」の続きに当たります。ワンフレーズシリーズですね。えっ、このタイトル、もしかしていよいよ終幕っっっ?! とか思わなくもないけど、うーーーん、どうだろうね。分りません。もうちょっと書いていたい気がヒシヒシするしなぁ、なんて。
せっかくスタートしましたが、この続きは暫くおやすみするつもりです。ちょっと熟考したいのもありますのでっ。
ではでは、また~~。
2020.02.03