VOICE PARTNER 3
飛行機の中で、さっきから化野は酷く不安な思いをしていた。
もうじき日本というところで「彼」が起動しなくなってしまったのだ。何度電源をオンオフしても反応しない。電池を外して入れ直しても同じだった。濡らした覚えもないし、外気温だって、端末の動作が狂うほど過酷だった覚えはない。
家に戻ったら、すぐに修理して貰うしかないと、そう思って、帰国手続きをする間もずっと気が急いていた。勿論、データはこの中だけにしか無いわけじゃないから、すべてが駄目になる心配はないが、それでも彼の声が聞けないことに、平気で居られるわけがなかった。
「大丈夫か、なぁ? きっと、何か無理がかかったんだな。悪かったよ。だから、また声を聞かせてくれ。お前まで消えたら、俺は」
やっと部屋の前まで帰ってきて、カードキーをドアに翳すのももどかしい。焦ってまばたきが多いからか、夕方で暗いからなのか、ドアカメラの瞳孔認証もうまくいかない。
「くそっ。ギンコが、ギンコが大変な時に、こんな…っ」
散々かかってドアが開いて、鞄も脱いだ上着も、玄関内に放り出し、修理に必要な書類を用意するために、化野は早足にリビングを横切った。真っ直ぐ寝室へと入って、ベッド脇にある書類ケースを開けようと、そこに屈んだあと、化野の心臓は、急に大きく、どくり、と鳴った。
「…待て、今」
脳裏で、今さっき通った部屋のことを思う。何か、大事なものを見過ごした気がしてならない。
「い、今、部屋に。リビングの、ソファに…。だ、誰…」
錯覚だ。薄暗かったから、きっと錯覚したんだ。99%、錯覚に決まっている。そう思いながら体の震えを止められなくて、やっと立ち上がり、寝室のドアを開け、その向こうに戻ろうと…。
「わ…」
片手で握ったままの端末の液晶が、急に煌々と明かりを灯した。そして待ち望んだ「彼」の声が聞こえたのだ。
「2117年08月19日、午後05時17分。おかえり、化野。まずは8日振りのコーヒーでもどうだい?」
「あ…。治…っ」
ほっとして、液晶を見て、でも、違う、と思った。いつもなら「彼」が喋る時、液晶には現在の日付と時刻が表示される筈なのだ。なのに画面に表示されているのは…。
通話中
08秒…
09秒…
12秒…
16秒…
「通、話…? 何、どういう…?」
頭で理解する前に、体に力が入らなくなって、そのまま其処に座り込んだ。だから伸ばした手が届かなくて、化野は閉じたドアを空けることが出来なかった。端末から、また「声」がする。
「…なぁ、おい。お前の物好きは、よく知ってたつもりだったけど。それでもさすがに驚いたんだぜ?」
それは、プログラムされた声ではなかった。明らかに、違っていた。
「お前さ、勝手に録ったこの声のデータを使う時、俺のこと伴侶だ、とか、ふざけたことを書類に書いただろ。子供と親の関係か、近い親族か、または…互いに相手をそうと認めたパートナーの間柄じゃないと、ボイスパートナーのプログラムに肉声を使う、なんてのは出来ないからな。それでその時国外に居た俺の端末に、確認の連絡が入ったんだよ」
確かにこの人はあなたの伴侶ですか?
あなたの声のデータを使って、
ボイスパートナーのプログラミングを行うのを、
あなたは容認しますか?
「そういう手続きを知らないまんまのお前にも、正直びっくりだったけど、俺にも、魔が差す、なんてことが起こるもんなんだなぁ。いきなりだったんで、うっかり『容認します』って、言っちまった。
そしたらメールで詳細が届いた。万が一にも声を悪用されないように、俺の端末からの操作で、いつでもサービスを停止できる。さらに、プログラムに対して話し掛けてるお前の声の一部を、こっちも聞ける、って書いてあって、そのための暗証コードも」
きぃ、と小さな音を立てて、リビングと寝室の間のドアが開いた。そこに立って居る彼は、窓から差す夕の色を体に浴びたまま、自分の端末を耳に当て、深く顔を下に向けていた。
「…お前さ。あんまり恥ずかしいこと、言うなよな。おやすみの挨拶かしらんが、毎晩毎晩。聞いてるこっちがどうにかなるだろ。すぐに会えない遠くに居るのに、とんだ嫌がらせだったぜ…?」
ギンコ、夢ででもいいから、
会いたいよ、おやすみ。
ギンコ、今頃何処に居るんだ。
会いたいよ、おやすみ。
ギンコ、もう会えないのか?
そろそろ我慢の限界だよ、おやすみ。
ギンコ、
ギンコ、
ギンコ…
ギンコ、こんなにも好きだよ。
会うためなら俺は、何でもする、
おやすみ…。
項垂れた彼の顔は、床に座り込んでいる化野からは、よく見えた。今まで見たこともないその表情から、化野は、どうしても目が離せなかった。
「…だっ…て。本当に、本当に会いたかったんだ、ギンコ。不安だった。怖かったんだ、とうに限界だった。会い…た…」
「あーーー、だから。聞き飽きてるんだって、もう」
ピっ。小さな音を立てて、ギンコの方から通話が切られた。そのあと朝まで、言葉の要らない時間しか、ふたりの間にはなかった。目を閉じると、それぞれの脳裏に、マヨン山の美しい姿が映る。あの島の雲の無い夜の、満点の星々も、神の子の神秘的な眼差しも。
最高の「運」を、ありがとう。
次の朝、ふたりでは少し狭いベッドの上で、ギンコの端末がコールを響かせた。外をゆくAIR BUSの飛行音が、少し煩く感じるのは、調整降雨の為の雲が、空を厚く覆っているからだろう。
「もしもし。あぁ、リアッドか。世話になったな。たまたまお前があの機に乗ってて助かったよ。連絡くれたのも感謝してる。俺は入れ違いで此処に戻っちまってたしな」
次にそっちに行ったら、ちゃんと借りは返すよ。俺の端末に入ってるこいつの写真、お前が勝手に盗み見てた分も帳消しにしとくさ、と、ギンコは少し拗ねたような声で言っている。
「それにしても、ティーシエ探しまで付き合わせて、よかったのか? いいならいいけど。ああなったら、ヒトの話聞きゃしないもんでなぁ、化野は。ん? 此処にいるけど。出せって? 出せるか、馬鹿。いやいや余計な気をまわすなよ。疲れて眠ってるだけだ。いや、だからそういうことじゃない。あー、どうせもう分かってんなら、まぜっかえすな、悪趣味め。切るぞ」
マナエト島でずっと世話になっていたリアッドに、ギンコはそうやってぞんざいな口を聞く。仕事関係の相手というより、既に気の置けない友のようなものだからだ。でも本当に切る前に、彼は言った。
「もしまた病が再発したら、すぐ俺を呼んでくれ。今回お前に預けた薬は少量だったからな。川に撒いて蟲を散らす薬は、こっちの薬草じゃないと作れないから、量が出来たら持って行くよ。一匹一匹ティーシエを捕まえて、蟲下し飲ませるわけにいかないしなぁ。あ? 化野も連れて来い? 馬鹿言うな、嫌なこったよ!」
今度こそ通話を切って、もう一度毛布に潜り込もうとしたら、此方を見ている目と合った。無視して寝返りを打つが、向けた背中に化野の言葉が刺さってくる。
「…おかしいと思ったんだ。リアッドには医者だなんて話はしてないのに、二度もセンセイって呼ばれたからな。どういうことなんだっ、ギンコっ、詳しく話せっ、端末の写真ってなんなんだっ? 俺のか? 俺の写真かっ。あとあの可愛い猿たち、ティーシエのことも色々教えろっ」
「あぁー…。はいはい、分かったって。起きたら教えるよ。まだ眠いんだ、もうちょっと寝かせろ」
眠ろうとするギンコと、なんとか起こして話をさせようとする化野。騒いでいるうちに、化野の端末が液晶を光らせた。
「2117年08月20日、午前07時00分。起床時間だ。たまには一回で起きろ」
聞こえてきた自分自身の声に、ギンコは化野の毛布を奪いながら、体を丸めてこう言い放った。
「俺はアラームなんかなくても、いつもちゃんと起きてるっ。俺の癖にっっ。こいつと俺を一緒にするなっ!」
「……ぶ…っ」
化野は盛大に吹き出してから、アラームのリピートを取り消す指示を、小さな声で端末に伝えるのだった。
「今日はもう、起こさなくていいよ」
ありがとう、もう一人の『ギンコ』
終
もんのすごーーーーーーーーーーく、楽しかったですっ。楽し過ぎてこんなに伸びてしまったぞっ。短めとは言え連載を、数日通して書き続けてラストまで書き上げたのも、随分珍しいことでした。だって、とにかく楽しかったしっ。
ではっ、最後一言、言わせて頂きます。
このお話を通して「おかえりなさい」を貴方に。
2017/08/14
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