変わらぬ変容   10 






 素っ頓狂な声で言われて、イサザは思わず怯んだ。こんな場面で咎められるほどのことだったかと思い、そういや大事にしろと言われたっけ、と今更のように思い出した。イサザの振り向いた視線と合って、大声を上げた男の方が逆に焦って頭を掻く。

「いや、悪ぃ。けど、その実っつったら、想い合う相手同士で…その…。とにかく、そういう意味があるもんだって聞いてたから…っ。生涯の契りっての? ほら、分かるだろっ」

 見回せば、他の面々も真顔でこくこくと頷いている。イサザの顔が、かぁ、と熱くなり、差し出されたままの片手とその実とを、彼は改めてクマドに押し返した。

「い、いんだよ。これは、約束の印なんだからっ」

 約束って、なんの?! 皆が余計に色めき立つ。ワタリの若い長と蟲師の大家、薬袋家の当主との間に、何が?! けれど皆の奇妙な戸惑いと興奮を余所に、当のクマドは言ったのである。

「何か約束していたか、そこまでは記憶にないが」
「…ぁ、あぁ、そう。って! そんな話してる場合かよっ。皆、ひとまずここを離れるぞ、視界が悪い、はぐれるなよ! 仲間の顔、互いに確認しながら、最初のあの場所に集まれっ」

 そうしてイサザはクマドに言った。

「あんたも来てくれ。あんときの子供もいる。あんたがくれた薬のお蔭で、無事にでかくなったよ」

 記憶にないと言っているのに、イサザは構いもせずにそんなことを言っている。子供、それに薬。脳裏であの赤い実がチラチラと光っていた。あぁ、支払いのこと、か。もう記憶にはない筈なのに、どうしてか分かった。

 それからワタリらの落ち合う場所まで連れてい行かれ、クマドはそこにいた二人の子供と、二組の夫婦ものに頭を下げられた。高価な薬を分けて頂き、お蔭で我が子が助かりました。そんなことを言われた。あぁ、とか、おぉ、とか、無愛想に頷くだけのクマドなのに、下げられた頭は中々上がらない。

 ちら、とイサザの方を見ると、黙っとけ、とでも言うように、一本立てた指を唇に当てていた。金を請求していることは言わなくていいから、と読み取れた。

 干し肉と乾燥させた穀物だけを入れた、粗末な粥を差し出され、病人の為の食べ物のように見えたが、子供も大人も、若い者も老いたものも、嬉しそうにそれを食べていて、クマドも頭を下げてそれを受け取った。隣に座っているイサザに、やがて、クマドはぽつりと聞いた。

「約束というのは」
「あぁ…あれな。二つあるよ。一つはあんたが、蟲の見えなかった子供の頃のヤツ。また会ったら、俺の好きな蟲を教えてやるって言ったんだ。それからもう一つは、さっきあいつらが礼を言ってた薬の代金、まだちょっとしか払ってねぇから、会うたび払うよって、そういう約束」

 今日も、あとで少し、払うから。

 妙に小声になってイサザはそう言い添えた。言葉を切ってから、ちら、とクマドの方を見て、反応の無い顔に肩をすくめる。イサザは軽く腰を上げて、ほんの少しクマドに近付き、もう一度そこへ座り直した。触れてはいなくとも、僅かに温度の伝わる距離だ。

「ほら、そこ」

 イサザが夕の薄闇の中へ手を伸ばした。少し離れた場所で燃えている焚火の炎が、夕の色に揺れる斑を作っている。

「キノコ、あるだろ? あいつも動くんだぜ? 餓鬼の頃教えたあの蟲みたいに。あれは群になって列を作って歩くけど、あのきのこは散るようにばらばらに移動するんだ。少し歩いて土に潜って、一晩で隣の山まで動くらしい。案外足の速いヤツさ」
「傘ノ子」
「そうそう、そりゃ知ってるよなぁ、あんた薬袋家当主だもんな。じゃあ、俺にはもう教えるもんがねぇか…」

 残念そうに言う横顔を見ながら、クマドは思っている。

 苔童子。そうだ、あれは薬袋家縁の家の一つだった。蟲が見えない俺のことを、イサザが凄い剣幕で咎めた。踏むな、って。お前、蟲の通り道塞いでる、って。

 覚えている。
 ちゃんと記憶が残っている。

 あぁ、そうだった。そしてそれから何年も経って、次に会ったのは山中だ。コゴリドロの澱みの中に、お前の声が鋭く届いた。何してんだって、やっぱり凄い剣幕で。

 その時の声も耳に蘇る。
 忘れたと思っていた。

 クマドは懐からあの布包みを取り出して、膝の上で開いて触れた。赤く透き通る不思議な実は、こんな夕闇近付く山中では、濁ったような色にしか見えない。そっと茎の部分をつまんで、顔よりも高い位置に持ち上げて眺めていたら、気付いたイサザが言った。

「みっ、見えるとこにかざしてんじゃねぇよ…っ」

 凄い剣幕で、言うのだ、首も耳も赤くして。

「イサザ」

 全部、覚えている。思い出せる。多分、イサザに関わること以外も、すべて。忘れてしまったと思った記憶、蟲に喰われたと思っていた思い出、見捨てた筈のそれら全部は、多分、心の奥底に仕舞い込まれていただけなのだ。蟲に喰われたくないと思って、大事に大事に、隠してあった。

「イサザ…」
「なんだよ、さっきからっ」
「支払いは」
「…あんた、覚えてないんだろ? そういうのならいらねぇって、言うかもな」

 膝を抱えて子供のように、その膝小僧の上に顎をのせ、少し下唇を突き出した顔が、子供より子供っぽい表情で。

「でも、俺は払いたいんだけどな」
「言わない」
「え?」
「いらないなどと、言わない。…後で」

 クマドはすっくりと立ち上がり、自分の木箱をイサザの近くへ置いたまま、ワタリらの集まりを抜けて少し遠くまで歩いて行った。金色、ではなかったが、夕の中で染められた淡い紅色の靄だけが、クマドを包み込んで見える。

 不思議だ、と、イサザはそう思った。夢で何度も見たクマドの姿は、光脈にも霧や靄の中にも、溶けて消えていきそうに見えたのに、今はそうは見えない。

 人と人の中に居るより、心の無い蟲たちの流れの中や、深い霧の中にしっくりと沈んで見えるなんて、それは、淋しくて、怖いことだ。生きているものとして、切ないことの筈なのに、そんなクマドに焦がれていた自分のことも、今はもう分かっている。

 ワタリだからだ。だから光脈に惹かれるように、何事にも動じずに、心も揺らさずにいる姿に惹かれた。でも今は、もっと違うクマドに惹かれたいと思っている。

「うん、後で」

 聞こえる筈もないのに、イサザはそう呟いて、膝の間に顔を埋めた。何がどうやら分からないが「今のクマド」が嬉しくて、自然と笑ってしまうからだった。

 


「この実のことですが」

 それから暫しの後である。クマドは淡幽の前に坐して、件の実を懐深くから取り出していた。布に包んだままのそれを見下ろし、彼女は短く聞いてくる。

「何か思い出したのか?」

 淡幽は唇に何か含んででもいるように、今日会った時からずっと笑んでいた。彼女の後ろに控えているたまは、何やら信じられないものをでも見るように、一時もクマドから視線を外さない。

「お嬢さんに預かっていて貰いたく」
「なんだ、まだ何も思い出せないとか」
「いえ、持ち歩いていると壊しそうだからですが」
「ほう、そういうことなら、大事にあずかろう。で、何か思い出したことは?」
「…いずれ」

 いずれ、何だと言うのか。いずれ話すと言いたいのか、いずれ思い出すかもしれぬと言いたいのか。クマドは淡幽がいくら水を向けても、そこから先を言おうとはしなかった。そうしていつも通りの報告をし終えると、さっさと辞して去っていく。

「何も、起こりませなんだな」

 残念そうな響きを隠せず、たまがそう言った。今日のクマドはどこかが今までと違って見えたのに。それが良い変化のように思えたのに、結局変わっていないのかと。

「そうでもないようだぞ」

 淡幽がさらに笑みを含む声になる。広げた布の真ん中で、紅いあの実は一つきりだった。二つ連なっているの筈の片方が無い。彼女の目元も口元も、満面の、と言ってもいいほど笑っていた。

 二つ連なるこの実を、誰かが誰かに手渡す。そうして受け取った方は、片方を千切ってそれだけを相手に返す。戯事と言えば戯事だが、想う相手との間で交わされるその行為の意味は、中々に広く知れ渡っているのだ。

「『いずれ』の時が楽しみだな、たま」

 持ち歩け、と次の時に言ってやらねば、その方が相手も喜ぶと。あの朴念仁では、それも言ってやらずば分かるまい。たまは然程表情も変えずに、ひとつ頷いた。





 光脈は、

 地の底深くを流れている。
 そして人の記憶は、
 その魂の奥底で光っている。

 いずれも、
 容易く絶えるものではない。
 容易く損なわれるものではないのだ。

 
 

 

 
 

 


 
 全10話って…長ぇよ! 思わず自分ツッコミが入りましたーっ。いろんなところがぼかして書いてあるんですけど、きっと分かって貰えるだろうと、信じてます! などと、読者様依存ですが、すいません。でもっ私としては良い結末になったと喜んでいます!

 相手が男だと知ったら、たまと淡幽はどんな顔をするのかw 淡幽はそれでもいいことだ、って平気で言いそうだけどね。

 あ、なんでクマドがいきなりあの山に出現したかを入れる場所が無かったですけど、まぁ、路を穿つ蟲に運ばれたってことで、すいません、こんなとこで言い訳書いて! 凹。ここまで読んで下さった方、ありがとーぉうv



13/02/03




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