草笛吹く合間に




「いや、別に怪我で来たわけじゃない。最近、何かここらで変わったことはないか、と、そう聞いたら言われたんだ。変わったことなら、医家先生に聞きゃぁいい、とさ」

 そう言って、男は縁側に腰掛けたまま、遠くを見る目で草笛を吹いた。ぴぃ…と澄んだ音色が鳴って、その音が風にのって、目の前の坂道を下って行く。男の視線も坂を下り、そこから見える海を眺めていた。酷く静かな目だ。

「変わったことなら俺に聞けってか。そりゃ、変わったもの、の間違いだろう。俺が好きなのは珍品で、そういう事象じゃないからなぁ」

 言いながら笑って、化野は客人に茶を振る舞った。着物の肩に蓑をのせて、どことなく年よりも老いた雰囲気だけれど、その男は化野と同じくらいか、それよりも一つ二つ若いだろう。

「うーん、変わったこと。変わったこと。雲喰みの一件も、移動する沼の件も、もう随分前だしな」

 化野がそう呟くと、目の前の男はちょっと眉を上げて、今、初めて見るような顔をして彼を見た。不躾に感じるくらいじっと見つめ、それからはっきりと目元で笑って、ぴぃ、と再び草笛を鳴らす。

「あぁ、もしかして、あんたが…化野先生。そうか…なるほど」
「え? 俺のことを誰かから聞いてたのか?」
「聞いてたよ。色々とね。…俺はイサザと言うんだが、俺のことは聞いてなかったかい?」
「いや…覚えがないが」


 そんな名前、知り人の誰からも聞いてない。
 聞いていないが、言われた途端、
 誰のことを言っているのか想像がついた。


 ギンコだ。


 年もギンコと同じくらいだし、なんとなく…。本当になんとなくなのだが、雰囲気が何処か似ている気がした。なんというか、野に生きるもの、と言った感じが。じゃあ、この男はギンコの知り合いなのか。

 イサザと名乗った男は、いつまでも薄い笑いを浮かべたままで、器用に草の笛を鳴らし続けている。何か、微妙に節のある音色を奏で、一区切り拭き終えてから、ぽい、と草の切れ端を足元に投げて、物言いたげに、また化野の顔を眺めた。

「俺はここ一年は会ってないけど、今頃どこでどうしてんだか。あいつ、ガキの頃からなんか無茶なとこがあるから、思い出すと心配になる。先生もそうだろう」

 そう言ったイサザの言葉を聞いた途端、化野はこの男が少し嫌いになった。ずっと穏やかに笑っている口元も、年よりもずっと老成して見える目も、ギンコのそれと似て見える手も指も。

 ガキの頃から? こいつ…そんなに前から、ギンコを知ってるのか。俺は出会って数年なのに、それより十年も前から知っているような口振りで。あいつのことを大して知らない俺を、揶揄するような態度。

 変わったことなんか、ここのところ何も起こってやしない。俺がこいつに話すことは何もない。さっきまで近所の婆さんの治療の記録をとってたんだから、暇じゃないんだ。早いとこ帰ってもらおう。

「悪いが、今、忙し…」
「なぁ…あんた。あんたは自分の身を蟲に与えてるギンコを、見たことあるかい?」
「な…に…?」
「あぁ、蟲が見えないんだったか? それじゃ判らないだろうけど。なら、もしかすると、あんたの傍でも、あれ、やってたかもな。自分に寄ってくる蟲の餌に、自分がなってやるやつ」

 開けた口を塞ぐのも忘れて、化野が食い付いているのを眺め見て、イサザはゆっくりと縁側から立ち上がる。庭の垣根の辺りに生えてる細長い草を、無造作に一本千切り取り、彼はまた器用に草の音を鳴らした。

「…けど、忙しかったなら、邪魔して悪かったんだな。もう行く。ギンコがきたら、よろしく言っといてくれ。俺は元気にしてるから、とな」
「あ、ちょっ、ちょっと待ってくれ。別にその、い、忙しくない。今の、今の話、聞かせてくれ。茶菓子も出すから。なんなら昼飯も」

 歩み去ろうとするイサザの、着物の袖を慌てて掴んで、化野は懸命に彼を引き止める。

 蟲の餌になるギンコ?! そんな話、聞かずに帰らせたら、その後、頭でいろいろ想像して、心配して、あっという間に胃に穴が開きそうだ。聞かずに帰してなるものか。

「昼飯、なぁ。それなら、日持ちがして、持ち歩きも出来るものがいい。実は結構な人数で旅してるから、少しずつでも全員に行き渡るものが有り難い」
「あー…。うん、大丈夫だっ。果物を甘く煮付けて干した菓子だが、それでよければ!」

 珍しい干し菓子なのだが、ギンコの話には替え難い。化野は早速蔵にそれを取りに行き、戻ってきて大量のそれを渡して、イサザに話の続きを促した。イサザはその干し果物を一つ味見して嬉しそうに笑って、また草笛を、ぴぃ、と鳴らす。


 *** *** ***


 冬のね、さなかに見たんだ。

 冬だけじゃなく、秋にも春にも見たことがあるが、冬に見たあれは、結構凄かったよ。さすがに驚いて、少し眺めた後に止めたが、その時触ったギンコの肌は、氷のように冷たかったっけ。あいつ、雪蟲に体温をくれてやってたんだ。

 上着脱いで、半袖の白い薄い服一枚になって、襟も開いて。

 ギンコの体に積もってる雪は、本当は雪じゃなくて雪蟲だから、雪よりも冷たくて、その上、肌の上でも溶けないで積もっていく。目の中にも雪が入るからか、上を向いたまんま目だけは閉じて。

 でも、口は少し開いて、口ん中の舌の上にまで、雪蟲を乗せてたな。勿論、髪にも、額にも、頬にも。見てる前で、あいつ、どんどん青白い透き通るような顔色になって、吐く息にも白い色が付かなくなってて。

 なんでそんなの黙って見てたんだ…って? あぁ、みんな見惚れてたんだ。俺だけじゃなくて、そこにいた仲間もみんな、な。あれは本当に綺麗だったしな。

 実際、俺らワタリはもう、ヒトなんかに見惚れたりしないんだけど、あいつはちょっと…特別だ。先生もあいつを知ってるんなら、判るだろ…? あんたの目が、判るって、さっきから言ってるよ。

 優しい…って言うのかな、あれは。蟲でも人でも、一生懸命に生きてるのを見ると、ギンコは惜しみなく手ぇ差し伸べて助けちまう。ほんと言うと、一人で旅なんかさせたくないね。今だって、どっかで蟲とか人とか助けて、自分は瀕死になってそうだ。

 先生、なんか、目、潤んでるよ。ほんとに好きなんだな、あんた。え? いや、別にそこまでギンコから聞いてたわけじゃないけど、ちらちらっと、話聞いたらもう判ったさ。

 ギンコが化野って呼んでるその医家先生は、ギンコのことが凄く大事で、ギンコは…。いや、これ言うと怒られるか。俺の見て思っただけのことだから、合ってるかどうか知らんしな。

 さっき言った雪蟲、「銀風花」っていうんだが、そいつの餌になってやってて、春だと「ハナユラ」って蟲にずーっと纏いつかれて精気与えてたし、秋も色付いた楓の葉そっくりな、「彩羽虫」の散り落ちる中に、ずっと立ってるのを一度見たな。

 よく今まで死なんでいるもんだ。聞いたら、そう思うだろう、あんたも。…先生? 震えてんのかい? やっぱりあんた、そんなにギンコが好きなんだ。


*** *** ***


「…そうらしい」

 聞いた話に震えながら、半ばうわの空で化野は言った。その様子を暫し眺めていたイサザは、まずい事を言ったかな?などと思いつつも、言った言葉は今から引っ込められない。

「まぁ、ギンコも蟲のことはちゃんと判ってるんだろうし、判ってて気ぃつけてやってるんだろうから、大丈夫なんだろうよ」

 イサザは最後にそう言ったが、青くなってしまった化野の顔色は元に戻らない。肩をすくめ、貰った干し果物の袋を肩に背負い、イサザは縁側から腰を上げた。

 年に一度か、数年に一度、このところギンコに会うたびに、この医家のことを聞かされて、実は嫉妬する気持ちがあるのだと、イサザは自分でも多少判っている。

 イサザからギンコに恋心などなくとも、あのギンコを、誰かが独り占めするというのは、許されざることだと大真面目に思ってしまうのだ。

 綺麗に澄んだ湖や、美しい川の流れと同じに、ギンコは誰かのものじゃなく、ただ、自然の中にあり、そっと見ては姿が綺麗だとか、その心の優しさに心打たれるとか、そういうものであってほしい。ギンコ本人からしたら、それも勝手な言い分なのだが。

 草笛を吹きながら、イサザは坂道を海の方へと下りていき、随分遠ざかってから化野の家を振り返った。さっき自分がいた時と同じに、化野は縁側に呆然と座ったままで、きっとギンコのことばかりを考えているのだろう。

 …やっぱりちょっと、まずかったか…。
 嘘は言ってないが、言い方がちょっと
 大袈裟だったかもしれない。

 イサザは懐に手を入れ、竹筒の中からウロ繭を取り出して耳を近づける。ほんの微かな気配があり、ウロがそこにいると知れた。…ギンコにふみを書いとくか。なんて書いたらあいつ、真っ直ぐここに来るかな。

 考えた末、山道の脇に腰を下ろして、イサザは小さな紙片に、ギンコに宛てたふみを書く。


 お前に聞いてた医家に会った。
 お前のことを少し教えたら、驚いてたようだった。
 食料を分けてもらったから、次にここに来たときは、
 よく礼を言っといてくれ。

                      イサザ

 
 読み返してイサザは満足そうに頷いた。嘘は書いていないが、この文面なら、いったい何を話されたかと思って、すぐに飛んでくるだろう。あいつとは、次にいつ会うか判らないから、怒られるされるとしても随分後だから、それは考えないでおく。

 イサザは手にしていた草を、また道の端にぽいと捨て、新しい草の葉を一つとって、澄んだ音色を奏でた。


                                     終











 たぶん、イサザは初書き? うちのイサザはこんなんになりました。な、何か違う気がするけど、もう修正きかない! ガックリ。まぁ、こういうイサザもありかと、笑って許して下さい。

 ワタリの皆さんは、ギンコが好きらしいです。もしかしたら「ギンコはみんなのもの、独り占めしちゃ駄目!」的な、暗黙の了解が出来ていたり。そんなわけないか。笑。もしそうなら、先生、袋叩きじゃん。…ひィッ!

 連載を始めるには、まだ何かが足りないし、企画も始めちゃったしで、どうしようか迷っている迷い惑い星。中継ぎなんていうと、イサザに悪いけど、こんな話を書いちゃいました。かるーく読んでやって下さいませね〜。


08/01/19