響きの声 3
傍で音を立てたりしないように、ギンコは少し化野から離れてから、木箱を下ろし、手持ちの文献を捲ってみた。雨に関する蟲の記述を拾い読みしたが、対処はそれぞれ違っていて、どれをやってみればいいのか見当もつかない。
そうしているうちに、雨が小降りになってきた。霧雨がまだ降っているのに、日差しが少し注いできて、降っている雫も、葉の上の雫も、きらきらと白く輝いて見える。手がかりは無いかと見上げて、ギンコは一瞬、何かを見たように思った。
なん、だ、何かが光って…。
雨の雫じゃない、もっと細い、何か…。
それは、細い糸に綴られた雫。よく近付いてよく見れば、それはもみじの葉の連なりからぶら下がっていて、微かな風に揺られている。目を凝らして見ていると、糸に綴られた雫は、それ一つだけではないようだった。
蟲の見えるギンコが、目を凝らして凝らして、やっと見える細い糸。糸は蜘蛛の巣のように、小さな網の形をしているところもあって、そうして広がってうまくもみじの葉に引っかかっていた。
ギンコは、そっと手を伸ばし、恐る恐るそれへと触れる。今にも零れそうな、その雫に指が触れると、途端に音が…異変を来たす。
「う、ぁ…っ」
雨の雫が、葉から滴り落ちる音、木の葉同士が風に揺れて触れ合う音、自分の心臓の鼓動、衣服の擦れる音までが、反響して、呼応して、大音量で耳の中に暴れ回る。
苦痛に堪えながら、ギンコは糸を視線で辿った。
糸は今にも切れてしまいそうに細い存在なのに、ギンコの見つけたみもじから、隣に広がっている山吹の枝へと下りている。さらに辿ると次は傍らの菖蒲の葉へ。ところどころ、銀色の水滴をつけつつも、途切れることなく、次へ、次へ。そうして糸は、とうとう、化野の髪へと辿り着く。
「あだしの…」
「…ぎん…っ、まさかお前まで、耳が……うぅ」
「馬鹿! そんな大ご…。い…っつ…ッ」
ギンコの辛そうな様子を見て、思わず化野は声を大きくする。ギンコはそれを咎めようとして、化野よりも大きな声になって、二人して痛みに顔を歪めた。糸を見失わないように、ずっとそれへ触れているギンコも、今は蟲の影響下にあるのだ。
「はぁ…。でも、もう大丈夫だぞ…。今、楽にしてやるから…」
「楽に…な…、ははっ」
化野は何故かそこで笑った。くしゃりと歪めた顔のまま、自分の頭の方へ伸ばされるギンコの手を見ている。そうして髪に触れられながら、彼は目を閉じた。細い細い銀色の糸と、それへと綴られた透き通った雫が、するり、と滑るように化野の髪から下へと零れて行く。
「………どうだ? 痛みは、まだ?」
「いや、もう治ったようだ。お前の声も、普通に聞こえるよ」
治っているのに、自分からそうは言わず、ただ黙って顔を見つめていた化野の頭を、ギンコは怒った顔で殴った。
「治ったんなら治ったと言え!」
「あぁ。はは、そう言やそうだった」
「…ったく、世話の焼ける」
そう言って背中を向けて、ギンコは唐突にその場にしゃがみ込んだ。足元に溜まった水の中に、さっき化野の髪から滑り落ちた蟲達がいる。右手だけを伸ばし、水溜りの中から彼はそれを拾い上げるのだ。当然、苦痛がまた襲う。
静かに静かにしていたくとも、痛みの為に息が速くなり、鼓動も騒いで、食い縛った歯が、ぎり、と音を立てる。
ああ、今度は蟲助け…か。
声に出さずに化野は思い、ギンコの隣へ行って、自分も手を差し出した。糸は見えないが、雫のようなものが、ぼんやりと宙に浮いて見える。触れるとまた、さっきまでの苦痛、だ。だけれど怯まずに、それをすぐ道の脇の、名も知らない葉の群れの上へ、そっと引っ掛けるようにしてやった。
「うまくいったな」
笑ってそう呟く化野。ギンコは迷惑そうにちらりと化野を見て、すぐ彼へ背中を向けた。あんな苦痛など、二度と味わって欲しくしないのに、自分と一緒に蟲に触れて、異なる命を助けようとする化野。そんな彼だからこそ、自分も好きになったと判っているが、それとこれとは…。
化野は傍らのもみじの葉の上の、きらきらと光る雫を見上げて、小さな声でぼそりと言った。これと同じ姿の蟲。こんな綺麗な形の命を、疎んじたりできそうもない。見れば傍らの、都忘れの可憐な花も、小さな雫を受け止めている。
ギンコもつられるようにして草の雫を眺めた。
「音が変になったのも、頭痛が酷いのも困ったがな。まぁ、生きてりゃ痛いのも苦しいのも、全部は避けて通れない。お前がいつも係わってる蟲とやらが、今回は俺に引っ付いたわけだが…」
俺は、それでついつい、嬉しかったがな。悪いが俺は、楽に、なんて、してほしかないなぁ、ギンコ…。言えばきっと怒るだろうから言わないが、ここに危ない蟲がいるらしいと、そんな噂を耳にして、自分で来た俺なのだよ。
お前が蟲を見て、蟲に左右されて生きているなら、
俺だって、少なからずそれへ係わりたいのだ。
そんなことを思いつつ、化野はやんわりと笑っている。その視線をギンコへやれば、考えていることが判ったとも思えないが、ギンコは呆れたように息をついた。
「なんでそんなに蟲が好きなんだか。ろくに見えもせん癖に」
「…それならお前は? いつだって憑かれて追われて囲まれて、旅暮らしを余儀なくされてるくせに、好きじゃないのか、この命が」
命、と化野は言った。ギンコの胸に、その言葉はすとん、と落ちて、体の芯を温めるようだった。にやりと笑って、化野は誘う。その顔に、さっきまでの苦痛の欠片も残っていない。
「さ、うちに帰るぞ、ギンコ。ずぶ濡れだ」
「……さっさと風呂に入りてぇな」
「すぐ沸かそう。で、一緒に入ろうか」
「……夏風邪、引いたら困るしな」
そう返事して、ギンコはふい、と横を向いた。傍らの葉の上で、蟲と見紛う小さな雫が、きらきらと並んで輝いている。この世話の焼ける困った男のことが、どうにも好きで堪らないと、唇を引き結んで、ギンコは思っているのだった。
雨に濡れた、長い階段を下りながら。
終
や、ちょっと、最初から最後まで、無理やりな展開だったよ。写真使うんならもっと練ってからにしましょー、という教訓の残ったノベルです。とほほほほ。でもまぁ、写真飾れたからいいか。とかなんとか、ほざいてます。
まぁ、ギンコさんや、あとでハタと、我にかえって、風呂場ででも先生をこっぴどく叱り付けるといいよ。そのあと、エチで仲直りするといいよ。うんー。
09/06/21