縛 ト 草
「んん…っ。なんだ昨夜は雨が降ってたのか…」
化野は雨戸を開けて、伸びをしながら外を見て、濡れた土や木々の葉を見てそう呟いた。それらを見ぬうちに気づけたこともある。空気がしっとりと、寒いほどに冷えていた。
こんな朝は隣のかみさん、腰が痛むんじゃなかったっけ。
いつも食べ物の世話など焼いてくれる、隣家の家のものの心配をして、化野は出しっ放しで露に濡れてしまっている下駄を突っかける。そろそろもう、素足に下駄も寒い季節になっていた。
からからと音鳴らして、庭を横切り垣根を越え、門の前を通り過ぎるとき、視線がどうしてか足元に落ちる。なんだか判らないものが、視界を横切ったような気がした。何かが彼に、それを知らせたのかもしれなかった。
「お…。これは」
靴の跡だ。大降りの雨にややぬかるんで、化野の下駄の跡もくっきりと残す地面が、濡れそぼって少しばかり崩れた靴の足跡を残している。足跡は、そこで幾度か迷うように乱れて、さらに先へと進んでいた。
靴。
そんなものを履く人間は、もちろんこの里にいやしないし、ギンコ以外に思い当たらない。いいや、他のヤツかと思ってみるのも愚かしいほど、それはギンコの靴跡に間違いはなかった。
ギンコ。ゆうべ、ここへ来た…のか?
それで、俺に顔も見せずに去ったのか?
いったいどうして。なぜ。
思ってみても理由など判らない。隣のかみさんの腰のことなど一瞬で忘れ、化野はふらふらと、ギンコの足跡を追い掛けた。門の前に一度立ち止まった跡。それから少し行って、縁側の見える垣根の辺りまで続き、そこでまた足跡は、庭の中の方へ向いて立ち止まっている。
まるで…そう…。門の前で一度、そうして縁側の見える場所で一度、ギンコが化野を想い、行き過ぎてしまえずに過ごしていたように思えた。
ギンコ。お前何か、思い悩んででもいるのか?
それを俺へ打ち明けられず、ここで暫し迷って、
そのまま、また旅へ出て行ってしまったのか?
化野はそこで屈んで、泥の道へ片膝をつき、ギンコの足跡を指先で撫でた。ただの足跡に過ぎなくても、それがギンコのものだと判っていれば、こんなにも愛しくて、会えなかったことが切なくて、何か悩んでいるかも知れぬ彼が、心配で堪らなくなる。
そうして化野は顔を上げ、さらに続いているギンコの足跡を目で追おうとして、そこで急に眉をしかめた。途切れているのだ。ふっつりと。そこから五、六歩進んだ先で、掻き消すように。それとも空気でも踏んで、空へと徐々に昇っていったように。
これじゃあまるで、ギンコが空の上へと、化野の手が届かない場所へと、行ってしまったようで…。
「ど、どういう、ことだ…。お前、いったい…」
呆然として、化野はそれだけをやっと呟いた。見れど見れど、足跡の続きは見当たらない。振り返って戻ってみれば、門まで続いた足跡は、さらに続いて山道の方へと続いていた。
「…あっ、ギ、ギンコ…ッ!!」
化野は、懐かしいその姿を見て叫んだ。まだ早朝で、静かな空気にその声が一気に広がり、空気を痺れさせたように思えた。そのくらい大きな声だった。
*** *** ***
山奥。
ある斜面にて、ぐねりとうねったその太い幹の下に、ギンコは雨を凌いでいた。幸い、その場所の草は乾いていたから、腰を下ろして寄り掛かって、脚を休めているうちに、ギンコは寝入ってしまったらしい。
濡れた体が冷えてきて、ぶるり、と一つ身を震わせ、うっすら目を開いた彼の目に一瞬映った、ちょいと妙な姿の影。
うさぎ … ?
と、ギンコはそう思ったのだ。長くて大きな二つの耳があって、ひょこりと立ち上がった姿は、兎そのものに見えたから。だけれど寝ぼけていた頭がはっきりしてくると、本当はそれが兎じゃないのも判る。深い緑色をした兎なんぞ、どこの世界にいるだろう。
「見間違い…だったのかね」
呟いて立ち上がり「兎のようなもの」の見えた場所を見るが、それはもう何処にもいない。
「それとも、寝惚けたか」
ギンコは立ち上がり、びっしょり濡れた草を踏んで少し斜面を下っていく。寝入る前まで歩いていた山道へと戻り、半ば泥のような危うい地面を踏んで歩いた。…が。
そこには、足跡がある。逆に、その前に付けたギンコの足跡は消えている。ギンコに雨しのぎの場所をくれた木の傍の、草を踏みつけた行きの足跡が無くなっていて、道までの戻りの足跡は、ギンコが歩くより先にそこにあるのだ。先に付けられてある跡をなぞるように、彼は黙々とゆく。
ギンコはそれへ気付かずに暫し行き、それでも夜になる直前に、やっと気付いた。自分の足跡が、常に先に付けられているということに。
「…しまっ…た…。縛ト草だ。行き先を縛られちまってる…。この方向は…」
折り悪く、というか。その時、木箱の中でコトコトと、ウロ繭の筒が騒ぎ出した。
足を止めて木箱を下ろし、もどかしくそれを取り出して文を読むと、ここから程近い山と山の境の谷で、蟲師の集まる市が開かれるという知らせだ。蟲煙草なんかも、安く売りに出されるのだとか。他にも色々と、欲しかった品が破格の値で。
「市。うぅ…。行けやしねぇ…っ」
はぁ…と溜息を吐くその息の色に、嬉しさが滲んでいるだなどと、ギンコは知らない。他の誰かも勿論、そんなことは知らない。
「んなつもり、ねぇのに。これっぽっちだって…」
ギンコはそう呟きながら、先をゆく足跡の上に足を重ねた。追うように、追うように、実は嬉々として、足跡の命じる行き先へ。深緑の影のような、不思議な兎の姿を、行く先に目を凝らして探すが、それはずっと歩いていても見つからなかった。
*** *** ***
「…あっ、ギ、ギンコ…ッ!!」
「……よぉ、しばらくぶりだな。随分と早起きで」
「お前っ、ど、どうして…っ」
足跡は向こうへと進んで消えているのに、どうしてギンコが今、こうして山道の方から来るのか、化野には理解できない。勿論、判らなくて当たり前のことだった。
「どうして…って、そりゃ蟲が…。いや、これを話せば長くなるんだ…が、って! 化野っ、お、ぉいっ!」
ぎゅう、といきなり抱きすくめられて、門の前でギンコの足がもつれた。それまでも決めらていたのか、予めついている跡から、ギンコの靴の足が逸れることはない。
「ギンコっ、ギンコぉ…心配させやがって!」
「な、なんで心配したってんだっ、俺はなんにも…っ」
心配しているところへ姿を見て、こうして抱き締めることもできて、化野は何やら無我夢中だ。ギンコを抱きすくめ、抱き締め、そうしながら彼の首筋に愛しさを込めて吸い付いた。
「ぅわ…よせ、こんなとこでっ」
なんとか化野の体を自分から引き剥がし、ギンコは顔を真っ赤にしたまま、それを隠すついでに項垂れて、土に残る足跡を追った。また捕まって抱擁されないように、ずんずんと先へ進む足は、やはり足跡の上に重なっている。
縛ト草は、まだ先へ行ってしまっているようだった。ギンコ、おいギンコ、と後ろから名を呼びつつもついて来る化野のことは振り返らない。赤い顔を見られるのも嫌なのだし。
「おい、蟲ってな、なんなんだ…?」
「縛ト草。深緑色の、兎の形に似た影みたいな蟲だよ。追いかけて来ながら人や獣の足跡を奪うんだ」
それで奪った足跡を、道の先へ次々と付けながら、追い抜いてどんどん行ってしまう。足跡を奪われたものは、付けられたその足跡から逸れて進む事はできなくなり、したがって、何か余所へ行く用事が出来ても、絶対に別の道へは行けない。
「それでお前の足跡が、ここについてたわけか。あぁ、よかった…。俺はてっきりお前が、俺のとこへ来たのに、会わずにいっちまったんだと思ったし、何かお前に大変なことが起こったのかと、気が気じゃなくて。…ギンコ。ギンコ、なぁ…少しはこっちを見てくれても」
「あぁ、はいはい。見りゃあいいんだろ、先生」
顔の赤いのもそろそろおさまっただろうと、ギンコはやっと足を止めて振り向いた。そこが丁度、縁側の見える場所で、彼の足は半端に雨戸の開いたそちらの方へ向き、やはり靴跡を正確に踏んでいる。
化野がまた、熱っぽく見つめてくるので、ギンコの頬はまた熱くなる。頬が赤らむ前に、と、つれなく視線を逸らして、また前を向いて、さらに五歩、六歩。
「ギンコ…っ」
「え。ぅうわ…ぁ…っ」
化野はギンコの片腕を引っ張って、そのまま低い垣根を跨ぎ越した。垣根の外にあるギンコの足跡も、ちょうどそこまで。そうして、見れば次の足跡は、垣根の内の、踏み石の傍や、踏み石の上に、草の踏まれて潰された跡もある。
足跡はさらに庭を斜めに横切って、縁側へと下りる石の上にもあり、そこから縁側の中の板の上、その向こうの畳の上にも足の跡が。家の中では靴ではなく、いくつかの濡れた素足の跡だ。足指の形もくっきりと。
ギンコは化野に引きずられてずり落ちた、木箱の肩紐を引っ掴み、縁側に上がりながら、それでも片方ずつ足を振り回して靴を脱ぎ飛ばす。化野もそれは同様。二人の靴と下駄は、それ故やたらと行儀悪く、庭のあちらこちらに転がることになる。
「お前、何考えてっ」
「口に出して言って欲しいなら言うが、お前を抱きたいんだ」
「なっ、何、考えて…ッ」
「今、言ったぞ」
「な…っ、な…。だからっ、朝だし」
ギンコを失ったのかもしれないと、一瞬でも思った心が、恐らくは化野を、そんな行動へと走らせるのだろう。止めようもない衝動。恐怖と安堵。そしてやっと会えた恋しさ。大切なその存在を、肌で確かめたい想い。
心配ばかりかけさせる愛しい相手に、少しは仕置きしてやりたい気持ちも、無くはない。そうしてギンコの心にも、そのまま流されて抱かれたい想いが、刹那ごとに溢れて、嫌がる腕から力は抜ける。
元より、足跡は既に付けられてあるのだから、それだけでも逃げられはしないのだ。
「判った、判ったから…。化野、なぁ。そう…乱暴にしないでくれ」
弱々しいような声に、化野は彼を引き摺る腕を緩めて、そこでもう一度抱き締めて口を吸った。
「好きだぞ。全部、想う故なんだからな、ギンコ」
「…んっ。もう、飽きるほど判ってる、って…。あだし…。んん…」
長い口づけに酔わされて、それでもギンコは、またも行儀悪く化野の片足が、掛布団の端を蹴り上げて捲くるのを見た。そうしてそこに、またほんの少し濡れたような、ギンコ自身の裸足の足跡。
それに、ひょこり、と耳が生えた。うっすら緑色の影のような。兎は…縛兎草の深緑色した兎は、化野の温もりの残る布団の中で、一休みしていたものだろうか。ギンコは化野に腕を引かれるまま、心で惹かれるまま、一歩を踏み出して、布団の上で兎の形の影を踏んだ。
やっと足跡は取り返した。今ここでこうしていては、市へ間に合わず、安く買える蟲煙草も、欲しかった何やら色々も、諦めることになるのだが、それはもういい。
ぬくいこの布団で、化野と、長々ゆるゆる肌絡め合うことこそ、ギンコが今、一番欲しいものなのだ。
そうして、暫しあと、半端に開いたままの雨戸の隙間の向こう、気付けば草の中に、緑の長い耳が二つ見え、それは風に吹かれて揺れている。それから、縛兎草のその耳が、消えていくわけではなかったが、いつの間にかそれは他の草の葉に紛れて判らなくなっていた。
終
あー、思い付いたら書かずに居られない、そんな病気が末期です。笑。先日、バトンの中でちらりと触れてた靴跡のノベル、お届けしますよー。読みたいと思ってくださった方が、少しはいらしたようなので、喜び勇んで書き書き書きっ。
消えたと思いきや、ちょっと離れた垣根の向こうに続いていた足跡…。野生のウサギって、キツネやなんかの追跡をまく為に、いきなり、ぴょーん、と遠く真横に飛んで、足跡が急に消えているように見せかけるそうですよ。
そんなことも思い出したノベルでございます。
09/10/20