水揺らぐ夜 sui you ya 11
口に溢れたものを、本気で甘い、と化野は思ったのだ。そんな筈がないのは知識として重々承知。けれどもそれを判っていても、甘いと思った。舌に、ではなく、心で甘いと。
喉を鳴らして飲み下し、満ち足りた思いでギンコの顔を見れば、羞恥に顔を紅くして、翡翠の瞳に涙を溜めているのが見える。愛しくて、イったものをそのまま離さず、小刻みに吸い上げれば、とうとう髪を引っ張られて引き離される。
「…辛いか。だろうな。もう止す。ありがとう」
淡々と礼を言われるのまで恥ずかしい。口の端に零れた液を、腕の包帯で軽く拭い、化野は自分でゆっくりと、ギンコの膝から頭を下した。イってしまったせいで、四肢の力が抜けて動けないギンコに、手を貸すことは出来ないが、言葉で精一杯気を使う。
「立てるか? …立てないんなら、ここに一緒に横になるか?」
「立て…ない」
「じゃあ、入れ。狭いが、寄り添えば温かいだろう」
遠慮する、とそう言う筈が、どうしてか体は化野のいう事を聞き、そのままギンコは、狭い布団の中に入り込む。包帯だらけの手で、嬉しげにギンコを抱き寄せて、化野は間近から彼の目を覗き込むのだ。
何か珍しい綺麗なものを、見つめるのと同じ目なのかもしれないが、その眼差しは温かくて、ギンコは知らないうちに満ち足りていく。目を閉じると、まだ遠いはずの春が、自分を包んでいるような気がした。温かい、優しい春。終わらない春が。
*** *** ***
それから数日経った朝、ギンコは朝になっても中々起きられず、布団の中でだるそうに寝返りを打っていた。起きていかないのには、ただだるいというだけの理由ではなく、化野にどんな顔をして見せればいいのか判らないからだった。
一番だるいのは腰と、脚。暫く四つん這いでいたからか、臂も少し痛かったし、布団に爪を立て続けたせいで、指先も少し痛む。殆ど一晩中、泣いてたからか目まで霞んでいるのだ。
昨夜、随分怪我が治ったと、化野が包帯を外して見せ、それを近付いて確かめているギンコを、唐突に押し倒して抱いてしまった。抵抗は、していない。戸惑いはあっても嫌悪などなく、それが化野から自分への「好き」の証だと思うから、ギンコはただ幸福感に包まれた。
そうしてこの朝、気付いた時にはもう、化野の姿は隣にない。思い出すことの全部に羞恥して、両手で顔を覆っていると、縁側の方から、途切れ途切れに声が聞こえた。誰か来ているのか。
「…いや、もう何も買わんよ。え? 特別な品? う…ん、じゃあ、見るだけ見てみるかな。おぉ…っ、こりゃ珍しい。いったい幾ら…。あ、いや、買わんよ…買わないって」
そしてしばし沈黙。その後にまた声が聞こえてくる。
「…この世にこれ一つしかないってか。うぅ〜ん…。いや、しかしな」
ぼそぼそと声が続いて、やがて客は帰っていったらしい。程なくして障子がすーっと開き、ギンコが横になったまま、自分を見上げていると気付くと、彼はそこで立ち尽くし、バツが悪そうに曖昧に笑った。
「別に…好きなら買えばいいだろう」
「いや、お前に全財産支払うと決めたからには、俺の金は俺のもんじゃないのだし」
くす、と、ギンコは布団の中で笑った。その笑いには、少しばかりの寂しさが染みていて、それに敏感に気付いた化野が、傍らに近付いて彼を見つめる。
「…あ、今日、立つんだったか? でも、今日はちょっと、無理かもしれんぞ? 昨夜は随分、無理させちまったから」
「いや、夕方くらいには発つよ。ずるずる延ばしてもしょうがないからな」
引き止めようとして抱いたわけじゃない。寧ろ、離れなければならないと判っているから、まだ痛む四肢に無理をして愛した。それでもギンコは旅立つという。こんなに想っている化野を置いて、行ってしまうとそう言うのだ。
「次はいつ来るか、約束してってくれるか…?」
「…あぁ、そうだな、春の間には」
「え?」
まだ冬も来ないのに、春などと。それを聞いた化野は、驚いたように目を見開き、信じたくないと言いたげに聞き返した。
「は、春? そんなに会えないのか? 雪の降る前にもう一度とか、寄れないのか? どうしてだ?」
「……説明は難しいが、まぁ、俺が居座って人里にいいことなんか、一つもないんだ。仕方ない」
「だから、どうして」
「…それは、今は、言いたくない」
素っ気無い拒絶めいた言葉に、化野は辛そうな目になり、その目の奥に、一瞬だけ強い色を揺らめかせて言った。
「…俺は、欲しいものを我慢するのが下手なんだ。あっちの蔵に、お前縛って閉じ込めたいよ。いや、まさか本当にそうは、しないけどな」
そのまま化野はギンコに顔を寄せ、深く静かに唇を塞ぎ、長い口づけでギンコを困らせた。本当にはしない、と言いながら、その目の中の本気の色には、ギンコだって気付いてしまう。
それへ恐怖を感じつつも、消しようが無い嬉しさも同時に感じ、ギンコは黙って化野の背中を抱いた。
「ちゃんと春にはくるから、勘弁してくれ、化野。約束する」
次に来たときか、そのまた次か、打ち明けても嫌われたりしないのだと、本当に安心できる時が来たら、自分の事もみんな、お前に聞いて欲しいんだ。
好きになり過ぎてしまったから、逆にこれ以上近寄るのが怖い。全部知られるのが怖い。もしもそれで嫌われたら、どんなに辛いか想像もしたくない。想うゆえのギンコの臆病さは、今の化野には判らないのだ。
「ほんとに春には来るな? 来なかったら俺は飢え死にするぞ」
「飢え死にって…。俺に払う金のせいでか? 大袈裟だな。ちゃんと食うもん食えよ」
「そういう意味じゃない、お前に餓えて変になるって言ってるんだ」
耳元に熱く囁かれて、ギンコは慌てて化野の体を押し離す。ついさっきまで抱かれていたのに、また体が火照って、妙な気分になりそうだったからだ。
「ちゃんと来るから、今まで通り、好きな珍品集めして待っててくれ。俺は化野が、そういう品を見てるときの姿が好きだから、そうして欲しいと思うんだ。それで俺が来たときに、それを自慢して見せてくれよ」
「俺の事、す、好きだって…い、言ったのか? 今…。嬉しいぞっ、ギンコ…ッ」
また痛いほど抱きすくめられて、ギンコは化野の腕の中でもがく。このままでは、蜜に浸けられた果実のように、芯まで甘く甘くとろけさせられて、ずっと傍を離れられなくなりそうな。
「ゆ、夕方発つからな…っ。夕方っ」
自分に言い聞かせるように、ギンコは強くそう言った。枕からずれて仰け反った彼の視線の先には、自分の着てきた上着と、蟲師の木箱。それを眺めて、ギンコは心の中で何度も繰り返す。
夕方発つ。夕方発つ。夕方発つ。
明日の夕方じゃなくて、今日の夕方だ。
今から半日ちょっとしたら発つ。
夕方発つ。夕方発つ。夕方、夕方、夕方。
そうして春には、ここに来る。
化野に会いに春には来るのだ。
だいたい、五ヶ月くらい後か?
旅をしていりゃそんな月日なんかすぐに経つよな。
五ヵ月後、五ヵ月後、五ヵ月後。
ギンコはここへ来て、幾つかのものをなくした。他人に触れられた事のないカラダと、待つもののない気楽な生き方。
そうして沢山のものを手に入れた。誰かを愛する気持ちと、帰りたい場所、焦がれる想い、想われる幸福感、いとしがられて抱かれる悦び。共に生きたいと願う人。ここを離れて、旅に発つ時の痛み。
運命は人の自由になどならない。人に読める運命などない。地獄から天国へと、一晩きりで変わる、そんな日もあるのだ。人をモノ扱いして強姦する気違い医者が、一日足らずで、心から愛する相手に変わることもある。
人生は、捨てたもんじゃない。
夕方に離れる痛みを今から味わいつつ、ギンコは心の奥で、ぽつりとそう呟いて微笑んだ。その微笑に気付いた化野は、暫し見惚れて心の芯から本気で言う。
「好きだぞ、ギンコ。ずっと待ってる」
人生は本当に、捨てたもんじゃない。
終
ええと。暴露話です。ちょっとね、色々、既にUPしてある部分を書きなおそうと思ってます。いや、もう書きなおしたんで、今から色々変えます。暇な方は、それを見てみるのも良し? いや、見なくてもいいです。ってーか、見ないで? 笑。
このノベルは、犬神屋よろず店さまと「同キーワードでお互い書く」という企画をして頂いて書いてたんですが。何しろ長すぎ! ヘタレ過ぎ。大変申し訳ありません。
しかもなんか…もっとエロっちくなる筈のシーンをすっ飛ばして、初本番シーンまでぼかしたよ、私。なんだか一からエッチを書く気分になれなくて、もーしわけないです。
とりあえずラストまで書きましたので、また機会がありましたら、これについての話題をブログやチャットなどで語らせ頂きますね。それでは、こんなヘタレではありますが、これが2008新年初のノベルでございます。玉砕…? パタ。
2008/1/2