お前を想う 年は過ぎ
なぁ、ギンコ。
もう夜も更けたのに、お前。
何処にいるんだ
約束したのに、今年が終わっちまうよ。
化野は卓の上で冷えていく馳走を、ぼんやりと眺めながら、盃に酒を注いだ。とっておきの上等の酒だ。ギンコが暮れに来ると言うから、大事に取っておいたのだ。それなのに、一人で飲んでしまって、もう半分残っているかどうか。
来れないんなら、来るようなこと、言うな。ただ、こうして待っている気持ちがどんなか、お前、ちっとも判ってやしないんだな。魚に肉、貝に山菜に、庭で取れた野菜。二人でも食べきれないかもと思ったものを、一人で食えと、お前は言うのか。
ふと立って縁側への障子を開ければ、離れた隣家から零れてくる、幸せそうな灯りと、賑わしい声。先生もくれば、と何回も誘われて、化野は誘われた数だけ、遠慮しとくと断った。ギンコの顔を、嬉しい気持ちで思い浮かべながら。
想う気持ちの裏側に、こんな憎しみがあるなんて、俺もお前も、誰も知らない。今すぐ木戸を叩いてくれないかと、叶いそうもないことを思う。縁側からひょいとこっち覗き込んで、遅くなったなと笑ってくれ。
そうじゃなきゃ、俺がお前の顔を見た時、どんな酷いことを言っちまうのか判らない。だから頼む…頼む…。
想えば想うほど、流れる時は速くなった。隣家の賑やかさも、少しずつ静まり、いつ過ぎたか判らないが、きっともう新年になったのだろう。二人で飲むはずの上等の酒は、もう残り少ない。目の前の馳走はどれも冷え切っている。
薪を足すのを忘れていて、気付けば囲炉裏の火は消えかけている。それを横目に見ながら、体を投げ出すようにゴロリと横になり、化野は天井板のフシを数えた。数え終えて目を閉じて、いつの間にか眠ってしまった。
*** *** ***
化野、すまん。
もう夜も更けたのに、俺は
まだこんなとこにいる。
約束なんかするんじゃなかった。もう今年が終わる。
ギンコは雪に足を取られて、山道の横へと転げていた。転ぶのが何回目か、もう数えるのも馬鹿馬鹿しい。急いだって無駄だ。どうせ間に合わないのにと、心で繰り返しつつも、足はどんどん先を目指す。
あと、谷一つ、山一つ。もうすぐだけど、すぐじゃない。雪の香りに混じるように、潮の匂いが時折したが、化野の住む里から、潮の匂いがここへくるようには、ギンコはすぐに辿りつけない。
気の急いた一刻は、酷く短かった。まだ昼過ぎ、まだ夕暮れと思ううちに、あっという間に日が落ちて、ランプに火を入れなきゃならない。古びたランプの硝子の中で、ゆらゆら揺れる紅い火が、ギンコは憎くてならなかった。
乱暴に走れば火が消える。火が消えれば足を止めて、もう一度灯さねばならない。そうこうするうち時は過ぎていくのに、なんで脚なぞ止めなきゃならんのか。
夜の暗がりも憎い。明るきゃランプはいらないだろう。雪も憎い。こんなに走りにくくちゃ、谷一つ山一つ越えるのに、時間がかかってしょうがない。それよりもギンコは自分が憎かった。こんな守れない約束なんかして、どういうつもりだったのか。
服の下の肌が冷たい。温めて欲しくて、なお凍える。冷え過ぎて痛い指を、化野はさすってくれるだろうか。白い息を吐く唇を、化野は吸ってくれるだろうか。思えば思うほど、もっと焦がれて、先を急ぐ脚がもつれ、またギンコは雪の中に転んだ。
彼の髪と同じ色の大地が、彼を引きとめるように、ギンコの脚を捕らえるのだ。雪の中でも枝についたままの葉の、深くくすんだ緑の色が、似た色のギンコの目に映っていた。
やがて風に乗って、何処かの寺の鐘が鳴り始めたのが聞こえる。それを最後まで聞き終え、歩き続けたギンコの目の前に、やっと海が広がった。東の空が、もうあんなに明るくなってきている。化野の家はまだ見えない。
もう一度走り出そうとして、ギンコは唐突に進むのをやめた。脚を止めて、背にしていた海の方を向いて、雪の原に腰を下ろす。
目映い金色の光が、ゆっくりと空に広がり、その光が突然、海原へと零れ出した。そうして新しい年の太陽が、ギンコの視野を明るく染め替えていく。美しい来光だった。一緒に見たかったと心底思い、項垂れてギンコは涙を拭った。
「俺はお前を、………だぞ、化野」
ぽつりと言って、また日の出を見つめる。言葉にするのは簡単でも、あまりに大事すぎて言えない言葉が、また喉の奥でかすれた吐息になった。息を吸い込むと、冷えた空気が針のように胸に刺さって、疲れた体を苦しめる。
約束ひとつ守れなくても、本当なんだ。
「化野…なぁ、嘘じゃないからな」
その時、ギンコが雪の中に付いた手のひらに、ほんの小さな振動を感じた。気のせいかと思ったがそうではなく、思わず振り向いた彼の目に、走ってくる化野の姿が映る。
「ギンコ…っ。ギンコかっ、ギンコだろう…ッ」
「あ、うん…、そう…、遅れて」
「ギンコっっ」
そんなにしなくとも、逃げやしないのに。
化野は雪を蹴立てて駆け寄って、そのまま崩れるように雪原に膝を付き、広げた腕の中にギンコを捕まえた。もうもうと舞い上がる雪が、昇ってくる太陽の光を受けて、きらきらと金色に光っている。
「…あ…い、たかった…っ…」
一体、どれくらい離れた場所からギンコを見つけて走ってきたのか、化野は息を整えることも出来ず、喘ぎながら彼を抱き締め続けていた。抱き締められて嬉しいより、抱き付かれて突き倒されたことに驚いて、ギンコはただただ目を見開いている。
体の下で雪が溶けて、水溜りになるんじゃないかと思うほど、長いこと抱き締められ続け、やっとギンコがもがき出すと、化野は顔も上げないままで妙なことを言う。
「ギンコだよな?」
「…そりゃそうだ。別の誰かにゃ見えんだろう」
「いや、もしや幻かと。会いたいあまりに幻を見て、知らない野郎を抱き締めてたりしたらどうしようかと、つい思ってな」
言いながらやっと身を起こし、化野は間近からギンコの顔を見た。雪の上に白い髪を広げて、翡翠の色で自分を見上げる瞳を見て、化野はゆっくりと目を細めている。
暫くぶりに見るギンコの姿は、とても綺麗だった。あんまり焦がれていたからかもしれない。会いたくて会いたくてたまらなかったから、何倍増しにも端正に見えるのかもしれない。そう思ってもう一度まじまじと見て、化野はその答えに気付いた。
髪が、凄く綺麗に見える。昇り来る太陽の色に染められて、いつもとは違った色に輝いている。
そうしてそれだけじゃなく、瞳の色も美しい。今や空一面に広がる来光の色が、仰向けにされたギンコの瞳の色に混じって見えるのだ。いつもならばもっと深い翠が、水晶に碧を溶かしたように淡く薄れて、そこに澄んだ金色が一差し。
その美しさは、今ここで、この刻でなければ見られなかった。そう思えば、心を暗く染めて待ち続けた、何時間もの時も、すべて貴いものに変わる気がする。
「俺だろう」
「ああ、ギンコだ。こんな綺麗なのは、ギンコ以外にいない」
「……お、前っ、酔ってるんだな…っ」
あまりに奇妙なことを言われるから、ギンコは化野から匂う酒の匂いに気付いた。別に怒る理由にもならないが、照れ隠しに化野の体を押し退けて、立ち上がろうとするのに、ギンコは脚が動かない。
「……っと。その…化野…?」
「ん? どうしたんだ。早く家に行こう」
「や…、その。お、負ぶってくれるか…?」
「…? なんで」
なんで、と聞きながら化野はギンコの腕を引っ張って起こし、背中を向けて膝を付く。
「負ぶうのはいいが、なんだ、疲れてるからか」
「…実は、膝ぁ、挫いちまってて」
「なんだって?!」
負ぶいながら化野は怒った声を出した。雪原をよろよろと進みながら、まるで尋問のように問い質す。
「お前ここまで歩いてきたんだろう?! 挫いた膝で、なんて無茶するんだ。そういう時はちゃんと冷やしておかないと」
「…ある…いては、いないかな」
よた付きながら、化野は首を傾げて問いを重ねる。
「じゃあ、なんだ。車の轍なんか見えなかったぞ。馬?」
「…いや、走っ…て…?」
「走っ……」
化野は唐突に言うのを止め、そのまま家まで無言で歩いた。縁側の閉じた雨戸をなんとか開いて、腰を屈めてギンコを下す時、地面に足をつけ、柱に手を置いたギンコの目が、卓の上の馳走に気付く。湯気の一つも上がっているはずのない、冷えた年夜の馳走だ。
「あ…」
暮れに来ると、約束をしたギンコ。それを待っていた化野。横倒しになって卓の隅に転がっている徳利の中身を、ちびりちびりと減らしてしまいながら、化野がどんなにギンコを待ち侘びていたか。
化野はギンコの隣に立って、並んでその馳走を眺めて、ふ…と小さく溜息を付いた。流れていった暮れの夜の時が、どれだけ辛く哀しかったかを、いまさらのように彼は思うのだ。
けれど、改めて振り向いて見たギンコの顔に、詫びたい色が浮かぶのに気付き、化野はじろりと彼を睨んでしまう。
「あだしの…すま…、ん、ッ、ぅ…っ」
噛み付くのに似た口づけは、短くもなく長くもなく。ただ、熱い温度と上等の酒の匂いと、泣くほどギンコが欲しかった化野の、甘い存在感がそこにあった。
雪の原の上を吹いてきた風が、二人の頬をそれぞれひと撫でして、山の方へと過ぎていく。
それから化野は、ギンコに手を貸して縁側に座らせ、靴を脱がせ、部屋に上がらせて、さらにばたばたと家の中を走り回る。手当ての準備をしながら、馳走を温めなおしながら、風呂を沸かす。それこそ酔いなぞ吹っ飛ぶような勢いで。
口も挟めず恐縮しているギンコの前で、突然ぴたりと脚を止め、化野は厳しく口調で言い放った。
「いいか、無茶するな、心配かけるな、今日の事はもう謝るな、言いたい事はそれだけだ。あ、いや…それと、明けましておめでとう。今年は去年よりも沢山ここに来い。それから、去年よりも多く泊まっていけ」
何も言えずに頷くギンコに、化野は嬉しそうな顔で笑って見せ、囲炉裏の上に吊った鍋の蓋を、取ってみながら言うのだ。
「膝を痛めたお前を負ぶうってのが、なんか最初のことを思い出すようで、新鮮な気分になるぞ。じゃあ、あの時と同じに、布団の上で手当てといくか、なぁ、ギンコ」
謝るなと言いながら、こいつまだ怒っているんじゃないのか、と、ギンコは思わずいぶかる。化野がギンコを想う裏には憎しみが、愛しむ裏には苛めたい気持ちがあるようで。
ともあれ
またひとつ
焦がれて涙す年はゆき
会っては愛しむ年はくる
互いに想う年はゆき
互いを想う年がくる
終
アイタタ。どうしよう、超シリアスなはずだったのに、ラストが微妙にギャグだよーん。大涙。読んでくださってて、今ばっちり笑っていらっしゃる貴方も貴方も、そっちの貴方も、どうか今一度、冒頭あたりの切なさを思い出してやっておくんなさい。
テーマは「切なく想い合う・ゆく年くる年」っ、あ? いかん、このテーマもどこかギャグですか? そんなそんなっ、ギャグじゃないのよぅ。切ないのよぅ。あの切なさをもう一度ったらもう一度。
読んでくださった皆様、ありがとうございます。年末年始ノベルであって、只今トップにおいてある、瞳に見惚れるキーワードの「化×ギ」ノベル「お前を想う年は過ぎ」です。
もーっ…シリアスだからね、って、言えば言うほどギャグってる気がするので、これにて。グス。
08/01/05