『わたりともり』




 ギンコは急いでいた。白い雪の中を、白い息を吐きながら、彼は懸命に走っている。

 まずい、間に合わない。もう消えてしまうかもしれない。
 あの蟲は、そんなに長くは姿を見せていてはくれないだろう。

 走り続けて、もう横っ腹が痛み出していて、何度も転びそうになった足も痛い。少しでも近道を抜けようと、道から逸れて進んだから、足元は少しも踏み固められていない深い雪なのだ。

 …くそ…っ、間に合わないか…。滅多に見れない蟲なのに。あれを見て、あいつへの土産話にしたいと思ったのに。

 ずっと柔らかで走りにくかった足元が、唐突にしっかりした感触になった。道へ出たのだと思った途端、ギンコは何かにぶつかった。ぶつかったというよりぶつかられたという感じで、跳ね飛ばされるように、そいつと一緒に深い雪の中に転がる。

 ごろごろごろ、と、斜面を幾度か転がる一瞬の間に、ギンコは気付いていたのだ。

 どうして気付いたか、なんて、そんなことは判らない。シャツやら上着やら襟巻きやら、そんな何枚もの布地越しに、体が重なった途端に判った。雪にまみれたままの恰好で、相手の腕が背中に回り、ゆっくりと、けれども強く、ギンコの体を抱き締めている。

 あだ…しの…。

「…ん、…ぅん…っ?!」

 絡まりあったまんまで、ギンコの上になった化野の体が、少しだけ離れたと思ったら、もう唇が塞がれていた。

「ギンコ、か…?」
「…お、お前…っ、俺と確かめる前に口塞いだのか…っ?!」
「…じゃないが、つい、嬉しくて。…あっ、こうしちゃおれん、さっきの光を…!!」

 どうやら化野はギンコと同じ目的で、こんな夜更けに、こんな山の中を走っていたらしい。まろびかけながら、化野は斜面を凄い勢いで登っていき、小高い場所へと出て遠くを見渡した。もう、探していたあの光は見えない。

 ギンコも化野の隣に立って見回し、夜目の聞くその目で、辛うじてそれを見つけた。だけど本当にもう、それは消えかけている。そうして光を失って、闇色になったまま、飛び去っていこうとしている。

「…ぁあ、もっと近くで、見たいと思ったんだがなぁ…」

 酷く残念そうに言う化野を、ギンコは間近からじっと見つめ、それからその体の横をすり抜けて、さらに高い場所へと進んでいく。道の先へ行き、雪の塊と見紛う大岩によじ登ると、ギンコは背負っていた木箱を足元に下した。

 中からランプを取り出すと、体で風を防いで火を灯し、それを傍らの枝先に吊るす。

「うまく行くかどうか、判らんが。それに、こういうことはあまりしちゃいけないんだけどな。まぁ、今年最後だし、少しくらい許されるだろ」

 傍に戻ってきて、化野の袖を引っ張り、隣合ってその場に屈みながら、ギンコはそんな事を言う。何がどうしたのか、どうなるのかと、聞きたそうにしている化野の唇を、今度はギンコが軽く塞ぐ。

「…しっ…。少し静かにしててみな。瞬きなんか、しない方がいいぞ。ほんの一瞬のことだから」

 暗がりの雪の中、身を寄せ合って息を潜め、二人はその時、間近に美しい光景を見た。化野とギンコとが、別々の場所で遠くから見て、ついさっきまでそれを探して、山道を走っていた、それ。

 それは小さな光の集まりだ。粉雪が白く積もった杉の木の中の、たった一本の枝々を飾るように、朧で微かな淡い光の粒が、またたくように光っていた。

 緑から青、青から白、白から紅へと、その光は移り変わり、そうして次の一瞬には、鳥が飛び立っていくように、小さな無数の光たちは、暗い夜空へと舞い上がり、上空で、ふっ…と消えてしまったのだった。

「…ワタリトモリ、って言ってな。月も星もない寒い夜に、ああして枝先で休みながら、冬から冬へと渡っていく蟲。仲間意識の強い奴らだから、なんか小さく光るもんを見せると、はぐれた仲間がいるかと思って寄ってくる」

 ランプの灯りなんかで、騙して悪かったけどな、と、ギンコは本気で済まなそうな顔をしている。

「綺麗だったろ」
「…ああ、綺麗だった」

 お互いの白い息が混じるほど傍で、ギンコと化野は目を見交わし合う。ギンコは目の前にいる化野の恰好に、やっと気付いて苦笑した。いつもの着物の上に、分厚くて大きな綿入れ、雪駄を履いてはいるものの、その中は裸足らしくて、めくれた裾から寒そうな素足が見える。

「お前、そんな恰好で」
「いや…だって、夢中だったし」

 それなのに化野は、その綿入れの前を広げて、ギンコの体を包むように抱き締める。

「俺は別に寒くないぞ。慣れてる」
「俺がお前にこうしてたいんだ。…させとけ」
「……」

 そのまま化野はギンコの体の上に圧し掛かり、またしても二人は深い雪の中で、真っ白になりながら重なり合ってしまうのだ。

 この重み。
 抱き締めてくるこの腕の
 柔らかな強さと、この優しさ。

 ギンコが化野を化野と判るのに、姿を見る目や声を聞く耳など、もういらないのかもしれない。そしてそれはきっと、化野も同じなのだ。さっきの口付けの時も、化野はギンコに触れた途端に、彼を彼と判って、心が欲しがるままに口付けた。

「おい、化野…。いい加減にしないと、二人して凍死する」
「…もうちょっと」
「お前な。朝寝坊の子供みたいなこと言うな」
「もうちょっとだけ…」
「…ったく」

 呆れたように受け答えしながらも、ギンコは自分の方から、化野の体を押し退けたりはしなかった。

 こんな寒さには慣れているからとか、そういうことじゃなく、こうして抱き締められて、抱きとめて、心が熱くて温かくて、もう少しこうしていたいのは、ギンコも同じなのだった。


                                      終 



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