小さな月の零れる…





 畳の細かな目の上に、ほろり、と白い小さな月が零れた。

 化野はそれを視界の隅で気付いて、庭へと流していた眼差しを、それへ向ける。くたびれた白いシャツの背中を丸め、片方の膝を抱えるような恰好で、ギンコが何やら小刀を手にしているのだ。

「何して…」
「いや、なに、足の爪を、な」

 畳に零れた白い小さな月は、ギンコの足の爪だったのか。彼からは風呂上りの、柔らかな湯の香りが漂い、化野はギンコの白い髪が、曖昧に拭かれたまま、まだすっかり乾いていない様を眺めて言う。

「爪? 切ってるのか。止せよな、そんな暗い蝋燭の灯りなんかで、切り過ぎても痛くしても俺は知らんぞ」
「…いや、そうなりゃお前は、ちゃんと診てくれるだろ。何しろ里にただ一人の、人徳高き医家なんだから。暗くたって平気だ、いつもは月明かりだけで切ってる」

 笑った声が憎らしい。

「貸してみろ。俺がやってやる」
「んー。構うなよ、自分でやるさ」
「いいから、貸せっ」

 危なげだ、と自分でもひやりとしながら、化野はギンコの手から小刀を奪った。ギンコの足首を掴んで引き寄せ、わぁ、とか言いながら、畳に半ば転げた恰好で、それでも身を預けてくれる様子に化野はどこか嬉しくなる。

 他愛の無いものだよな、ヒトを恋うる人、なんてもんは。

 身を預けてくれる姿に、くらりとする。
 そもそもなんだ、畳に落ちた爪の欠片が、
 小さな月と見るだなんてな。
 
 そうだなぁ、月みたい、かもしれんな。
 遠くてきれいで、
 きれいで届かなくて、
 届かないのにいつまでも、
 手を伸ばし続けたくなるほど、
 きれいなんだよ、お前は。
 恋を、
 恋をしているのだな、俺は。
 切ないが、いつもは居てくれないこの男に。

 小指から、一本ずつ、。ギンコの足の指を、自分の手の、人差し指と親指で掴まえ、よくよく研がれた小刀で、その小さな爪の伸びたところを削り落とす。しゅり、しゅり、と微かな音がする。

 この手がほんの僅か滑って、もしもギンコが足の指に深い傷でも負えば、それで数日、滞在が延びたりとかしないものかと、愚かしい迷いが、何度も脳裏を行き来した。

「あだしの」
「あ…っ、あぁ、なんだ?」
「あまり短くし過ぎないでくれよな。歩き通しだと、靴の内側に指先が擦れて痛み出すから」
「うん…。まぁ、その…。判った、よ」

 右足の五本の指、全部の爪を綺麗に、それでも切り過ぎないよう切ってやって、化野はギンコのその指の先を、親指の腹でそろり、そろりと撫でてやる。一つずつ、丁寧に。

「どうだ? このくらいで」
「…ん…っ、そ、そうだな、いいんじゃねぇか。その…こっちの足は、自分でやるよ、もう」
「…ま、遠慮すんな。してやるって、どら」
「いい…っ」
「感じる、とか?」

 言われた途端のギンコの反応。一気に頬が染まり、首筋や耳朶まで朱に染めて、捕まりそうだった逆の足で、化野の腹のあたりを、ぐい、と蹴るように押し退ける。

「足蹴か。ひでぇなぁ、ギンコ」
「は、離っ…」

 逃げる間もなく逆足まで掴まえられて、右と左と、肩幅より広げた形に畳に押さえられれば、ギンコは翡翠の目に、感情の欠片の小さな火を揺らす。

 怒った色か、それは。
 いいや違うな、羞恥の色だろう。
 足の爪切ることなんざ、後回しにしたくなってきたって、
 そういう欲情の色だろう?

 足首にだって、体温はあるのだから、この医家の器用な手のひらに、ギンコの心の読めないはずも無い。そもそも湯上りの匂いさせながら、すぐ隣に腰を下ろして爪なんか切って、そんなギンコの鼓動の音も、そういや聞こえていたような。

「したい、って言やいいのに、相変わらずだな」
「…言えるか、そんなの」
「ははぁ。やっぱそうなのか?」
「……逆の方の爪、どうすんだ」

 くす、と化野は含み笑って、右足を掴まえていた手のひらで、ゆっくりゆっくりとギンコの足を上へと辿った。

「切るさ。してやるって、言っただろう。でも、ま、暫し後にな。お前がもしも、気ぃ失ってたって、ちゃんと切ってやるから、安心してろ」
「…ゃ、何す…っ。く、ぅ…ッ」

 足の指の間を、尖らせた舌先で、ぬるり、と舐め上げてやれば、肩すくめ、胸を無理に畳に伏せるようにして、ギンコは喉を反らす。

 月明かりと、蝋燭の灯りの落ちる畳に、ゆらゆらと揺らめく二人の男の影は、一つと思えるほど、ぴたりと重なり暫し離れない。

 縁側への障子などは広く開け放たれたままだ。虫の声すらそろそろしそうな初秋の今、涼しい通り越して寒い筈だが、それも黙って座っていてこそ。

 りりりりりー、
 と、その時、本当に虫が鳴いた。
 
 掻き毟られて、少し傷の入る畳の目の上で、削られ落ちた白く小さな月のような。その月の欠片のような。可愛い綺麗なギンコの爪は、やがて脱ぎ捨てられた二人分の衣服の下へと、隠されて見えなくなっていた。

 りりりりり、りー、
 虫が鳴く。

 音も失く、ほろり、と
 白い月の光が、二人の上に注いでいた。



 終








 足の爪を切る、なんて、妙なテーマで拍手ノベル。どんな場面でも、恋し合う二人は、それなり素敵な素敵な雰囲気を出してくれますよね。拍手らしい、やや短文な一品でした。


08/09/20の拍手文、090725再アップ。