ともし文 前編






やわく甘い灯をともす

あの男に来て欲しい時 あの男と夜を過ごす時
過ごした後 去られて一人残された時

あの男に小さく熱い灯を分ける

去っていく時 

どうか その灯を見るたびに 
俺を恋しがって くれるようにと



「ご覧よ、この洋灯。なかなかに美しい細工だろう。とは言っても、ただの舶来もんてだけじゃあないよ。それだったらここへなんか、わざわざ持ち込んだりするもんかい。お察しだよなぁ、先生。そうだよ、曰く因縁あり、先生の大好きな不可思議事象付きの珍品だよ」

 口上を聞いて、むむぅ、と化野は一つ唸った。以前、くだんの硯でひと騒動あって、それ以来買い物をしようとすれば、ギンコの渋り顔が目の前にチラつく。腕を組んで首をえらく傾げ、唸ったきり止まってしまった化野へ、商人は熱心に言い続ける。

「あれっ? 先生にぴったりの品だと思ってたのに。買うか買うまいか悩むんなら、どれだけ不可思議な品なのかって、聞いてからでもいいだろうに。ん? いらない? そうかぁー。じゃ、しょうがない。残念だけど、別の買い手を…」

「…い、いや、まぁ待て待て!」

 

 縁側に一人居て、いつの間にか日はとっぷりと暮れている。空の色が灰藍色に陰り、それよりも一足先に海には漆黒が訪れていたから、ひとつも灯りを灯さずにいる彼の家は真っ暗だ。

「そろそろ、いいかなぁ…」

 化野は呟いて、縁側の軒に吊るしたランプへと近寄った。結局は買ってしまったわけなのだが、それも仕方ないだろう。だってこの灯りを言うとおりの方法で灯せば、会いたい相手を傍に引き寄せることが出来ると聞いてしまったのだから。

 詳しい意味は、はっきり言って商人も知らなかった。「引き寄せる」というのが、願掛けの意味なのか、それとも具体的に、旅の空のギンコの足が、ただちにこちらへ向いてくれるのか、それとも…それとも、まさかすぐに会えるとか…?

 いやぁ、まさかそんな。そんな都合のいいことがある筈が。

 苦笑しながらもどきどきと胸を高鳴らせ、化野はランプの方へ手を伸ばした。本当に美しい細工だった。硝子部分にはうっすらと小鳥の紋様。他の銅版部分は細かな枝と葉と花が描かれ、同じく銅で出来ているらしい持ち手には、異国の言葉が、極小さな字で綴られている。

 勿論、読めるわけではないが、とにかく、異国からきたものであるのは間違いがないらしい。化野はそのランプに触れて、細いこよりでとめてある細長い紐のようなものを、手のひらの幅二つ分ほど下へと垂らす。

「ここへ火をつければいいんだったな」

 細々と燃やしている囲炉裏から、いらない紙切れに火を移すと、少々の勿体無さを感じながら、化野は燃え続けている囲炉裏の炎に灰をかけて消してしまった。そうしなければならない、と言われたからだ。傍に別の灯りがあると、ランプはその不可思議な力を発揮しないのだとか。

 風で消えてしまわないように、もう一方の手で覆って庇いながら、彼は慎重にランプから垂れた糸に火をつける。ついたと見るや急いで部屋の真ん中まで下がって、彼はじっとランプを見つめた。

 じりじり、と糸が燃えていく。段々と短くなって、硝子の筒の中に小さな火が吸い込まれていく。

 一瞬、世界は暗転した。

 いいや違う。そうではない。ランプの明かりは見える。ランプと、その周囲へ、円を作るように広がる。くすんだ橙色の光。だが、見えないのだ。ランプを吊るした筈の鴨居。そのすぐ傍の、開いた障子も。闇だとしても目が慣れれば、徐々に見えてきそうな、部屋の中の様子も、庭の木々も草も地面も。

「な、んだ…これは…」

 目が、俺の目がおかしいのか、と化野はいぶかった。無意識に立ち上がり、ランプの方へと近付こうとして、寸でのところで思い留まる。絶対に、火が消えるまでは寄るな、と言われたのだ。油も少ししか入れていないのだから、それほど持たずに消えるはず。

「いや…落ち着け、俺。不可思議なことがおこる、と、そもそも聞いて買い取ったのだろう。ならば何も、驚くことはないんだ。つまり…あの商人の弁は、まるきり嘘ってわけじゃないってことだろう。つまりはギンコに、会えるかもしれんという…」

 独り言が長過ぎる。それも動揺しているからだ。ごくり、と息を飲んで、それでも元の場所に腰を下ろして、化野は瞬きすら惜しむ気持ちでランプを見つめ続ける。ギンコ、ギンコ、引き寄せられて来い。元気でいる顔を見せてくれ。そう祈るように心で繰り返し、頼りないランプの明かりに願いを込めた。

 どれだけ時間が経ったろう。もう消えるのじゃないかと思い始め、力を入れてた肩を、落胆にがくりと落としかけた頃、空に浮くようにあるランプの向こうに、何かがそっと見え始める…。

 それは化野が待ち兼ねた、白い綺麗な髪の色だった。









ともし文 中編






 ギンコは調べ物をしていた。空は真っ黒く帳を下ろしている。背中を寄りかける大きな木は、丁度いい具合に一本の枝を低く下ろしていて、その枝の一つにランプをひっかけて灯し、紙を閉じて自分で作った蟲の記録を、彼は捲っていた。

 風が少しある。月は出ていない。

 何故だか眠れずに、ランプの油が無駄になると判っていながら、一度は横たえた体を起こして読み物をしていたと言うわけだ。きし、と木の枝が音を鳴らしている。静かな夜だからこそ、そんな音が耳につく。

 きし、きし、と枝が軋む。ぼ…ぼ…、とランプの中の火の、かすかな音まで聞こえる気がした。風で炎が少しでも揺れると、視野がおぼつかなくなる。書物の文字が読みにくくて、ふと顔を上げたその時に、枝に吊るしたランプの火が消えた。

「ち…。油はまだ足りてた筈だが。芯が悪ぃのかね」

 立ち上がり、ランプの方へ伸ばす手は、ほんの少しも惑いがない。ギンコは夜目が効くので、こんなふうに唐突に訪れた闇なんぞ、そこしの妨げにもならないからだ。

「お…っと。…うわ」

 それなのに、ギンコは足を止めた。小さく声まで立てて、足元の木の根を踏んだところで動きを止め、いぶかしむように闇の中に吊られているランプを見る。踏んでいるはずの木の根、その感触が足下から消える。目の前にはただ闇が広がっていた。

 吊られているはずのランプすら見えない…。

「どうしたことだ。…蟲か。気配を、感じる」

 ポケットを探って煙草を取り出し、それへ火を灯そうと、懐へと手を入れる。滅多に使わない高価な燐寸を擦って、手早く煙草へ火をつけようとした。燐寸を擦ったその刹那、手元に生まれたごく小さな火に向こうに見えたのは…。

「…化野…っ!」

 それは丁度、ランプを吊る下げてあるはずの向こうだった。化野の顔が一瞬見え、それが小さな燐寸の火に脅かされるように消えたのだ。あまりにはっきり見えた。だけれどもうそれは、見えない。

 おいおい、そんなに会いてぇ…ってか? ギンコは小さく自嘲する。幻を見るほど会いたくなってたなんて、そりゃあ自分で思っている以上の恋しがり方だ。いいや、待てよ。これはただの幻じゃない。その証拠に蟲の気配はさっきよりも濃く感じて、それがまったく薄れていかなかった。

「なんだってんだ、ったく」

 高価なのだ、そんなに簡単に使いたくないのに、と、そう思いながらもギンコは燐寸をもう一本擦った。ぼぼ、と小さく囁いて、儚い炎がそこに灯る。腕を精一杯伸ばして、さっき化野の顔が見えた方向へと寄せれば、またそこには顔が見えてくる。

 見え方は、暗がりにいる化野の姿を、ほんの僅かな頼りない灯りで、照らして見ているような感じだ。

「あだしの…。これは、幻か?」

 幻。それならいい。その方がいい。蟲の気配も気のせいで、ただ会いたさゆえの幻視なら、化野に危険の及ぶはずもない。だけれどギンコの問いかけに、化野の口が小さく動く。声が聞こえなくとも、彼の心を知っているから、唇の動きだけで判った。

『ギンコっ、ギンコだな。会いたかった…っ。待ってろ、今、俺がそこへ行く』
「幻…じゃあない…? それじゃ一体…」

 見えている化野の姿が、蜃気楼のようにゆらゆらと揺れて立ち上がり、彼の懐かしい姿が、一歩、一歩とギンコへ近付く。さっきまで吹いていた風は止んでいて、その代わりに、すうすうと下から上へ吹き上げるような、柔らかい空気の流れがあって、それがギンコの手元の燐寸を揺らしている。

「…だ」
『ギンコ、会いたかったんだ。会えて嬉しい』
「駄目だっ。化野、来るなっ」

 声は届いていないだろうが、ギンコの必死な様子に、びくり、と化野の動きが止まった。彼はそれでも、また足を踏み出そうとして、激しい拒絶に会う。

「来るなと言ってんだろうッ、それ以上くれば絶交だっ。金輪際、お前とは…ッ」『駄目だというのか? …何でだギンコ…。せっかく…会えたのに』
「…危ないと言ってんのが、判らな…ッッ…」

 危険を感じ、とにかく化野を思い留まらせようと、ギンコの方が、ほんの少しだけ足を前に出した。そうしたら、ガクリ、と彼の体が下へと沈み、危うく落ちていきそうに。

 どこへ? おそらく、この世とは別の、異なる世の狭間へ…。




「ギンコっ。ギンコ…!!」

 その時、ふ、と、世界は再び暗転した。化野は縁側の外に身を投げ出して、庭の踏み石で強かに腹を打ち、あまりの痛みに暫くは立ち上がることも出来なくなっていたし、ギンコは…ギンコは、どうしただろう。

 見回しても、何も見えない。
 そもそも、あれは、幻だったのか。それとも…。 





  


ともし文 後編






 化野はギンコに文を書いた。まだ明けたばかりの早朝で、空気はきりきりと冴えている。囲炉裏に火を入れるのも後回し、傍らには、紙で包んで箱に収めた、例の洋灯が置かれていた。

 罪を告白するための文だった。安否を問うための文でもある。

 筆を持つ指が震えている。目の中には後悔の色が濃い。あのあと布団に潜り込んだが、勿論一睡も出来ず、判りようもないギンコの安否を、ずっと祈り続けて過ごしたのだった。

 旅の空の下、どんな暮らしをしているのか。病になってはいないか、怪我はしていないだろうか。そうやって心を震わせながらお前を想い、日々を過ごしているというのに、恋しがり会いたがる俺の心が、お前の身を危険に曝してしまった。あぁ、ギンコ、どうか…無事でいてくれ。

 お前にもしも何かあったら、俺は…。

「…ッ、ギンコっ!」

 文を書き終え、それを急ぎ託そうと、腰を上げて立ち上がった化野の前に、そうやって案じていた相手が、無事な姿で立ち塞がっていた。

「こぉ、んの、馬鹿…ッ!!」
「…い…ッ…」

 張り飛ばされて、化野はよろめいた。手加減抜きのこぶしだった。そのこぶしは顎と頬の間あたりにあたって、一瞬、歯の一本か二本も折れたかと思った。よろめいて振り回した手が障子にぶつかり、指で障子紙が斜めに裂ける。ギンコに手を上げられたことなどなくて、化野はあまりの出来事に言葉も出ない。

「反省はしてるんだろうが、全っ然、足りねぇぞ! 化野…ッ」
「わ、わ…っ…」

 張り飛ばされて四肢をついていた化野は、そのまま土下座の格好になって、畳に頭を擦り付けた。

「悪かったっ。俺が悪かったッ、お前をあんな危ない目に…」
「よく判ってもいねぇくせに、あんな危ねぇ目、っつったってな」

 一々があまりにもっともで、化野は目に涙まで浮かべて震えた。ギンコは、長く雄弁なため息をついて、のしのしと化野の前までくると、彼の着物の襟に両手を掛けて顔を上げさせ、落胆と後悔の色に染め抜かれた化野の顔を見た。

「ヒトは、ヒトの本来出来ねぇことに、手ぇ出すもんじゃあないんだ」

 そう言って、ギンコは化野の顔に顔を寄せた。そうしてそのまま口付けをして、すぐに離れる。化野は、びく、と身を震わせて受け止めた。

「ギン…」
「これか、ともし文を灯した品は」
「あ、ああ、そう…」
「来い」

 ギンコは箱の中から無造作に洋灯を取り上げると、それを片手に持ったままで蔵へと急いだ。訳も判らずに着いていくと、ギンコは蔵の二階へ上がり、明り取りの窓に分厚い布を掛け、さらに窓の前に色んな箱を積み上げて、蔵の中を真っ暗にしてしまった。

 ギンコにはものが見えているだろうが、化野にとっては限りなく闇に近い。夕べの闇を思い出して、化野は声を震わせた。

「ギンコ…ギ、ギンコ…」

 ギシ、とすぐ傍で床板が軋む。 耳元にギンコの掠れた声が聞こえた。

「暗がりが怖いだろう。化野、獣は大概みんながそうだ。ヒトだって闇を恐れる獣のうちだからな」
「お、お前も? お前は暗くともものが見えるんだろうに」
「この程度の闇は俺には闇じゃないからな。でも、本当に見えない闇ならば、俺だって怖い。…点けるぞ」

 ギンコは燐寸を擦った。小さな灯りがともって、蔵の階段の下へ吊るされた洋灯が浮かび上がる。

「何するんだっ、やめてくれ…やめてくれッ!」
「今そうやって恐れる気持ちの半分でいいから、自分でよく判らないものへの恐れをいだいてくんねぇかな、化野先生」

 ギンコは化野が怯えて叫ぶ声を聞きながら、そのまま洋灯へ灯りをともした。油が入っていなくとも、火を点ける糸もなくとも本当は関係ない。火を灯されるのは「ともし文」という名の蟲だからだった。

 ぽう、と灯った火を、ほんの少しの間近くで眺めてから、ギンコは化野の傍へきて、彼の体を絡め取るようにしながら、二人で蟲の灯火から離れる。やがて、空気の流れが変わった。

 ここは蔵の中で、狭い閉ざされた空間なのに、下から上へと風が通るのが判る。あの時と同じだ。と、ギンコは思う。昨日と同じだ、と化野は思った。そして火は小さく燃え続けているのに、その火の回りの狭い場所だけを残して、あたりは真の闇に飲まれている。

「見ろ、化野…。俺の姿が見える」
「…どうして。ギンコは、ここにいるのに」
「時間と空間の両方が、歪められて引き寄せられてるからだ。どうやら少し先の俺だな。季節が違うのが判るだろう…。だから、ここと向こうが繋がることはない。その間には必ず時空の裂け目があって、そこに落ちたら…終わりだ」

 いったん言葉を切って、ギンコはぽつり、と言った。

「危うくそこに落ちるとこだったんだ、お前は」

 違う、落ちかけたのはギンコだ。化野が浅はかにも、よく知らない蟲を使おうとしたせいで。怯え切って、化野は浅い息を何度もついている。そんな彼の体をギンコは支えて、ふたりはじっと時空の裂け目の向こうを見ていた。

 見えているギンコも、じっとこちらの方を見ている。不意に消えてしまったランプの向こうに、化野と自分自身の姿が見えているはずなのに、たじろぎもしない。そうだ。ここに見えるギンコは未来のギンコだから、すべてがもう判っているのだ。

 そのうち飽きたように、横になり寝返り打って背中を向けてしまった。どこかの山の中で、彼は木の根を枕にしている。傍らにスミレの花が一つ二つ咲いていた。季節は春のようだった。

 やがて、蔵の中で灯っていた洋灯の灯りが揺らいで消えて、春の夜の中のギンコの姿は見えなくなってしまった。

「判ったか。もうしないか」
「し…しない。き、肝に命じる。ほんとうだ…」
「どうだか、な…」

 意地悪くギンコは言った。

「これは没収だ。異論はないな」
「無い。持ってってくれ。本当に、悪かったと思ってるんだ、ギンコ」
「当たり前だ」

 お前はたった一晩俺を案じただけだろうがな。俺は半月も案じ続けて、ここまで寝るのも惜しんで飛んできたんだ。お前の安否を知るために。

 夕べ、化野が見たギンコの姿は、半月も前の彼だったのだ。

「ギンコ…」
「ん?」
「ゆ、許して、くれるか。俺を」
「…あぁ」

 惚れた弱みだ。しょうがねぇ。

 蔵から出るとき、落ちている文をギンコは拾った。化野が彼に宛てて書いた文だった。


 お前がもしも、もうこの世にいないなら、 
 俺をお前のいるとこへ呼んでくれ。

 
 結びの言葉にそうあった。く、とギンコは苦笑して、心の中ではこう思う。


 死んでからお前を傍に呼び寄せる力があるくらいなら、
 今だって離れ離れで暮らしてるもんかね。
 ヒトは、ヒトの本来出来ねぇことに、手ぇ出すもんじゃあないのさ。




 終







 
09/12/13の拍手文 11/08/18再UP