谷底の花々





 まるで、一本の木だな。と、彼は見ているものに思わせた。それほど視線を引き寄せるわけではなく、ただ立ち並ぶ木々の幹の隙間ごとの、後ろへと流れていく見慣れた風景の中に…。

 そう、歩みを止めずに男はゆく。ただ、視線だけを一度そちらへと流して、草の葉を踏みしだき、山を下る。下ってゆく。





「なぁ…」

 呼び止められたのは気付いたが、聞こえぬ振りでさらに道を下る。もうじき里へと出るゆえ、淡々と、深々と、心はよどんだ。人里は少し、苦手だった。いやおう無く、誰かと会わねばならないのが、面倒だからだ。
 空が…。ここらの里を取り巻く空気が、これから荒れると判っていなければ、好んで人里になど下りようとは思わない。

「なぁ」

 もう一度、呼び止められて顔を向ければ、先ほど山中で見かけた時とは違う「人」らしい顔で男…イサザは笑っていた。つい少し前に、幹と幹の合間合間に見えた姿は、まるで「木」のようだった。無表情に、静かに、ただ上を見上げる姿だったのを、思い出してみる。空でも読んでいるように見えた。

 クマドは足を止めた。

「あ、珍しい。俺なんかの相手してくれんの? 若様」
「誰が」

 誰が相手をすると言った、という意味か。それとも「若様」だなどと、ふざけた呼び方をされたことを言ったのか。古く由緒ある、薬袋の跡取りの彼を、そう呼ぶものもなくはないが、こんなふうに揶揄して言うものはない。

「あんたは若様だろ。旧家の薬袋のさ」

 進もうとしていた方向を変えて、クマドはその男の方へ近付く。男はワタリだ。この男に聞けば、里には出ずにこの夜を山中で明かせるだろう。ワタリは山を知り尽くすと言われる。

「何か欲しいの? どこかの光脈筋の情報? ここのヌシのこと? それとも蟲の噂とか」
「……」
「…あんた、里が苦手かい…? それなら俺と、おんなじだ」

 木々の隙間の空を見て、流れていく雲を、目を細めて眺めて、イサザはそう言った。ゆら、と揺れた髪が、小さく広がって静まる。風に葉を揺らす木のようだ。

「ここから遠い岩の洞、すぐ傍の雨風の届かない谷底。どっちがいい? どちらでも案内するよ。俺も傍にいていいならね」

 静かに笑う顔が、谷底の花のようだと、似合わぬことをクマドは思った。




「ぁ…、あんた、不思議だ。もっとさ…冷たいのかと思ってたんだ」

 くすくす、笑いながらイサザは言った。谷底の草も、白いばかりの小さな花も、風に揺れることはなく、ただ時を止めたように生きている。届かぬ筈の、風に似た音は、湿った草の上の裸の体から聞こえる息遣いだ。

「触ってすぐは、冷たかったから。やっぱり、て、思ったのにさ。外れたな。そっか…、ちゃんと生身、なんだよね」
「………」
 
 さり、と、肌の下で草と草が擦れている。擦れて潰された草が、土と匂いを混ぜて、イサザは身を反らす。身の内の楔は焦がすように熱い。淡々と冷えた石のような、この男の熱が、そこにすべて集まって燃えているようだと思った。

「ぁ、あ…っつ…。凄いよ、溶けそう…」
「…戯言を」

 一言零れてきた声は、少し苛立っているように聞こえた。嘘じゃあ、ないよ、とイサザは言い、ずっと握っていた草を離して、代わりにクマドの着物の袖を握った。広げていた片膝を持ち上げて、彼の腰にそっと摺り寄せる。ゆら、と揺れた茎が、白い滴りを零しながら震えた。

 仰け反った首をそのままに、その唇で…

「熱いよ…」

 と、イサザは言った。谷底には荒れた風の一つも届かなかったが、遠くで木々が撓む音だけは届いているように思った。




 夜が明けると、空は遥かに高い。屋根も壁も無くて、それでも雨風の届かない谷底で、しかも夜間に身を冷やさずに過ごせて、失うものも、代わりに支払ったものもなかった。クマドは谷を出て、また淡々と歩いていく。ただ…。


 嘘じゃあないよ、熱かった。

 そう言った声が耳について、慣れぬ響きに身の内が落ち着かない。

 俺はワタリだからね、きっとまた会う。
 イサザっていうんだ。覚えといて。
 また、相手してよ、若様。

 クマドだ、と、言いかけて止まった唇が、ひいやりと冷たかった。熱くなどない。自分で生きているのか、そうでないのか、判らないくらいなのだから。だけれど、言われた言葉が耳について…。

 

 ちゃんと、生身、なんだよね。

 


 終







また随分長いこと放置していたもんだよww


09/10/12の
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