白と結ぶ








「結びの祠?」

 化野は目の前に座る老婆に、程よく冷ました茶を差し出しながら聞き返した。老婆は里の長老の妻だが、結構な変わり者で滅多に人に会ったりはしないのだが、この年の暮れに、腰が痛くなって辛いとかで、化野を家に呼んだのだった。

 そのわり、腰などは大したことがないようで、招かれた側の化野に茶を入れさせ、まるで自分が客人のように、縁側のいい場所に座って茶を啜る。

「そうだよ。知らんのかね、あんたさん。はて、もう何年も、この里に住まいしてなさると思ったに。知らんのか、そうか、そうか」
「い、いや、知らないことはないが。丁度この坂を下った先にある、岩洞の祠のことだろう。でも、そんな名だとは知らなかったな。結び?」
「名ぁ聞いて少しはなんぞ感じるだろぉさ。結びってのはひととひととの縁のことでね。つまりは「えにし」の絆結び。どの里にでもある言い伝えが、この里にもあるってこったが、若造せんせ。みぃんなちゃんと知っとるよ、結びの祠のことはの」

 若造とはあんまりな言いようだが、まぁ、この老婆と並んでいたら、化野などまだ子供のようなものかも知れない。

「俺は一度も聞いた事がないが」
「そりゃ、言ったら効き目がのうなるからぞ」

 老婆が言うには、この里のものは、みんな一度はその祠に、願掛けに言っているらしいのだ。それでそのことを人に言うと、効き目がなくなってしまうそうで、だから誰もその言い伝えの事を言葉にはしようとしない。

 年も暮れてゆく夜が凪の海だったら、なんとか出来る通り道を通って、夜中にその祠へ、愛しく思うものと連れ立って出向く。そしてそのままそこで睦まじく、新しい年を迎えると、二人の「えにし」の絆は永遠に、固く一つに結ばれるのだと。

 老婆は、にたり、と笑って見せた。

「もうそんなことするにゃ、年も行き過ぎかもしらんがの。でも、せんせも独り身だしの。試しに行ってみたらいいが。あんたさんにそれと誘われて、首を横に振るおなごは、この里には多分おらんよな。添うものがたとい居たって、手ぇ引きゃ、祠へとついつい、ついて来るかも知らんて。の?」
「ははは…。いやまぁ、その。そんな相手はいやしないから」

 腰に塗る膏薬を作ってやって、化野はその家を後にした。帰る道々、その事ばかりが頭の中をくるくると回る。年の暮れと言えばもうすぐだ。そして想う相手は、彼にもちゃんといる。それこそ、心底惚れ抜いて、好きで好きで堪らない相手だ。

「に、したって、なぁ…。お前はどこにいるのやら、だ」

 溜息をつきながら振り向くと、海は荒れている。今は満ち潮の時間だし、風も少し出ているから。祠は、確か、この坂を下ったその先のはず。脚を止めて、ついつい少し下って行って、化野は道の端の草むらに、何かもがくものがあるのに気付いたのだった。



・・・・・・・・・・・・



 あだしの…?

 ギンコは遠くを横切る化野の姿に、少し立ち止まって首を傾げた。あれは確かに化野だろう。だけれどなんで踊ってるんだ? いや、踊ってるのとは違うか。でもなんだか変な様子なのだ。上半身をゆらゆら揺らして、腕組みしたまま岩場の方へと下りていく。

 声を掛けるには遠いし、こんなとこで大声出したら、この静かな暮れの一夜が自分のせいでえらく騒々しくなってしまう。そう思うほど、海沿いのこの里は今、静まり返っていた。海の波もあまり音を立てていない。

「ったく、またなんか、変なことに手ぇ出してなきゃぁ、いいんだがな」

 などと言いつつ溜息付いて、ギンコは化野の行った方へと自分も歩いて下っていく。時々風にのせられて来る化野の声が、誰かに話しかけているようで。

「…こらこらっ、大丈夫だから、平気だからなっ、じっとしててくれ、頼むよ、おい、ギンコ。な…?」

 え? 俺? 俺ならここにいるが。

 蟲煙草に火をつけようとしていたのも忘れ、それをそのままくしゃりとポケットへ突っ込み、足を速めて化野に追いつこうとする。海がもう目前だ。風は無く波も無く、月明かりだけを頼りに、続いている岩場を乗り越えて進むが、化野はまだ何かぶつぶつ言いつつ、ゆらゆらと体を揺らして危なっかしい。

「ギンコ、お前、俺を信用出来んのか、大丈夫だというのに…。そりゃあ海が怖いのかもしれんが。…わッ! お、おいっ」

 岩場で転び掛ける化野。ギンコは自分も声を上げそうになって、傍らを飛びすぎていく白いものに息を飲んだ。白い、白くて長いひょろりとしたものが、彼の右足と左足の間を抜けてった。小さな四つ足の、その後足の片方に、包帯らしき布が巻きつけられてあった。

 今のは…「テン」? エゾクロテンじゃないのか? しかし、こんな南にはいない筈だぞ。

 色々と不思議ではあったが、逃げた野生動物を人間の足で追うことの愚かさをギンコは重々しっている。それに今は、テンよりも化野だろう。あいつ、なんでいったいこんなとこに、あんなの連れてきてるんだか。

 腕組みしたままゆらゆらと、なんだか踊っているようにも見えたのは、多分、にげようとするあの生き物を、なんとか抱いて進もうとしていたからだろう。テンの逃げた方向から、化野の方へと視線を戻し、ギンコは彼の名を呼びかけて黙った。さっきまで遠くに見えた化野の姿が、何処にも見えなかったからだ。

「…どこ行ったんだ、あいつ」

 見上げれば月明かり、そのまま下へと見下ろせば、そこでは静かな海原が、銀色にきらきらと輝いて美しい。ギンコは吸い寄せられるように、化野が行った道を自分も下りていき、岩場へと脚を踏み入れた。

 音も立てずに岩場を進めば、やがては遠くに化野の姿が見えてくる。だが、声をかけようと息を吸い込んだ時、再びその姿は、ふ、と闇に飲まれるように消えてしまう。

「お…。ど、どこだ…? 化野っ?!」

 大きく声を上げて呼んだが、少しずつ高く鳴り出している波音が、その声を掻き消してしまうのだった。


** * *** * **


 化野は一人、洞の奥で佇んでいた。目の前には小さな祠。誰も来ないようなこんな場所だが、どうやら幾人もの里人が、時々ここへ来ては、祠の汚れを落としたり、周りの岩を拭いたりしているらしい。少し変に思うほど、そこは清潔で綺麗だった。

「…なぁ、祠の神様。ものは相談なんだが、な」

 と、化野は祠の前に座って言う。

「見ての通り、俺一人だが、これでもちゃんと想う相手はいる。いるが、今はここにはいないんだよ。姿の似たのを、せめて代わりに連れてこようと思ったんだが、途中で逃げちまってなぁ。俺一人で来て、なんとか願いを叶えてくれ、なんてのは、駄目なんだろな…?」

 代わり、というのは逃げたテンのことだ。怪我したテンの手当てをしてやっているうち、その白い姿がギンコに似て見えて、願掛けに来る時に、ついつい連れて出てきた、と。

 ふぅ、と化野は溜息をつき、それでも祠の前に酒の器を一つ置くと、そこで深く頭を下げた。

「頼むよ、心底愛しい相手なんだ。そいつと俺との絆を、なるたけ固くしっかりと結んでくれ。根無し草のあいつだから、そんな絆のひとつもなけりゃ、どっか遠くの知らないとこで、いつか一人ぼっちで命でもなんでも落としそうで、考えるだけで怖いんだ。頼むよ…。頼むよ…」

 項垂れて頭を下げる、その肩が細かく震えていた。ざん、と高く波がなる。はじけた飛沫の一滴ずつが、月明かりで煌々、煌々と、光り輝いている。どれだけ時間が経ったろう。思いの深さを告げ続け、一心に願いを唱え、それから洞の入口を振り向いて、化野は、ぎくん、と心臓を鳴らして目を見開いた。



・・・・・・・・・



 波が、洞の入口を塞いでいる。

 いや、引いていくときは、少しばかりの隙間が出来るが、歩いて出られるようにはとても思えない。泳いで出ようとすれば、そのまま波になぶられて、岩に体を打ちつけられる気もする。

「と、閉じ込められ…」
「いや、そうでもない。落ち着けよ」

 その時、壁に突き出た岩の向こう側から、恋しい姿がふらりと出てきて、化野の方をちらと見たのだ。本当にちらっとだけ見て、すぐに視線を逸らし、洞の入口の上の方を、小さな手燭でなんとか照らす。

「そら、そこ。草が生えてるだろう。この種の草が生えるって事は、潮風には常にさらされてても、波の下になっちまう事はないってことだ。ちゃんとよく見りゃ、それほど案ずることもねぇよ。祠だって、濡れた跡なんかない筈だぜ」
「あ、あぁ、本当だ」

 言って少しは安堵してから、化野は嬉しそうにギンコに笑い掛けた。願掛けが云々もあるのだが、とにかく会えて心底嬉しかった、とそういう顔をしてみせる。
「ギンコ、よく来たな。元気そうで何より」
「…あー、まぁな」

 ふい、と横を向いたきり、化野とは距離をとって岩に座り、ポケットから一本の煙草を取り出すが、それが真ん中でぽっきり折れているのに気付いて、ち、と忌々しげに舌打ちする。木箱を背から下して、中の抽斗を開け掛かるが、それを途中でやめて、ギンコはぽつり言ったのだ。

「で? 先生はなんで年の晦日の、こんな夜中にこんなとこに一人で?」
「…いや、別に…その、なんだ。つ、月が綺麗だったから!」
「ほぉん、なるほど。あんな珍しい生き物連れて、こんなとこへね。じゃあ、この祠の言い伝えは知らんわけだ」
「えっ? 知ってるのか? お前」

 ギンコはちょっと面白そうに笑いを見せ、またポケットから折れた煙草を出すのだが、口に咥えかけて渋い顔をしたりしている。

「意外に思うだろうが、こういう言い伝えってのは、その里の中より、隣里の方が、よく聞こえていたりする。前に山向こうの里で聞いたぞ。『結びの祠』っていうだけあって、その祠に備えられたヒノキの枝に、二人がそれぞれ持ち寄った紐をよりあわせ、それを結んで願掛けするといい、とかってな」
「ひ…紐…。そ、そんなの持ってきて無いぞっ」

 化野は思わず大きな声を出してしまった。あぁ、折角ギンコがここにいるのに。結局願いは叶わないということか。紐の事はあの老婆が伝え忘れたか、それとも、しゃんとして見えて、彼女はもう、物忘れも激しくなってきている、ということかもしれん。

「紐…。紐…どっかにないか…。紐…。ギンコは持ってるか?」
「……なんで俺が持ってなきゃならん?」
「え? あ、だって…」

 かぁ、と顔を赤らめて、化野は思わずうろたえる。

「俺はお前と、そのぅ、えにしの絆を、だな…」
「…俺との絆を? 今、以上固く結んでどうすんだ? ヘタすりゃ来世にいく時まで、解けずにずっと繋がったまんまになっちまうよ」
「ギ…」

 波が、ざざん、と音を立てた。なんでもないことのように言った声は、でもしっかりと化野に届いた。薄暗がりで見るギンコの頬も、ほんのり赤くは無いだろうか。

「あぁ、ここだともう波が掛かるな」
  岩の上から腰を上げて、ギンコはぷらぷら、化野の傍へくる。そうして照れるようなことなど、何も無いと言いたげに、染まった首筋をぽりぽり掻いて、ギンコは化野の傍らに添った。

「紐、ってのは、こんなのでもいいもんかね」

 と、ギンコは木箱を中身をガサゴソ探り、ガラス瓶の口に縛ってある紐を、器用な指でするする解く。それを見た化野は、さらに一層焦って、袂の中にまで手を入れ、懐にも手を入れ、どうしても何も無いと判って、がっくりと首を項垂れた。

「俺はお前と…。せっかく…」

 その落胆のしように、ギンコは困ったように笑い、折角手にした紐を、ぽい、と岩場に投げ捨てる。自分のだけ結んだってしょうがない。願いは目の前にいる、この詰めの甘い男との、えにしの絆の固くしっかりと結ばるること、ただ一つなのだから。

「ま、また来年があるだろ。そんな暗い顔すんなって」
「でも、年の晦日のこの時刻に、引き潮になってなきゃ駄目なんだぞ。それに来年の今だなんて、お前、来れるかどうかも判らないのに」
「そりゃまぁ、そうだ」

 そうして萎れた顔の化野を見ていて、ギンコは一つ思いついた。彼は化野の髪に手を伸ばし、いきなり彼の髪を数本、容赦なく毟り取る。

「いて…っ。な、何す…。あっ!」
「これで代用にならんかな」
「そうか、髪を。じゃあ、お前のは俺が」

 ギンコが乱暴に引き抜いたのとは逆に、化野は丁寧にギンコの髪に手を触れた。無理をしないよう、ちゃんと一本ずつそっと抜いて、それを数本揃えて、手のひらにのせる。
 足りない灯りの傍で、顔寄せ合って指触れ合って、無言でそれを一つの紐にするように撚り合せ、二人で一緒に、祠に供えられてあるヒノキの枝に結びつけた。解けないようにしっかり結びつけたのを確かめる、ギンコの真剣な顔が嬉しい。思わず顔を寄せて、化野はひょい、とギンコの唇を塞いだ。

「…何すんだよ」
「何って。お前、これは聞いてないのか? ここでな、こうして新年まで、睦まじくしてなきゃ願いは叶わないんだぞ」

 ぐい、と化野はギンコの体を抱き寄せる。

「こうしてりゃな、願いは叶うぞ、きっとな」
「…だから、今以上固く絆結んだって」
「来世まで解けない、ってか? そうだよ、それが願いだよ」

 よく恥ずかしくないものだ、とギンコは思わず視線を逸らす。だけれど睦まじくしてなけりゃ、願いは叶わないのだというのなら。ギンコは視線を逸らしたままで、もそり、と化野の体へ自分の身を寄せた。

「ギンコ」

 嬉しげに名を呼ばれる。それが恥ずかしくて、聞かれてもいない言い訳を。

「ちっと寒いだけだって」
「好きだぞ」
「あぁ、はいはい」

 俺もだよ、と、本当に小さな声が告げ返す。洞の入口で、何度も何度も波は弾け、無数の雫が、やがては日の出の光を帯びて、美しい橙色に輝き出した。年が明けるのだ。また互いを想い合うまま、遠く離れて過ごしてばかりの、切ない切ない、新しい年が。

 
** * *** * **


 数日後、ギンコはまた旅に経った。いつも通りに痛いほど切なくて、けれどそれを顔には出さない、素っ気無い別れで。

 うっすら粉雪の積もった道を行くと、白くてひょろりと長い生き物が、彼の目の前を横切った。あの時のテンだ。そう、ギンコは思い、何気なく地に膝をついてその生き物を呼んでみた。

「お前、どうだ、一緒に行くか? これから北へ向かうぞ」

 どうしてこんなところにいるか知らないが、こいつの住む地はこのあたりじゃない筈だ。海を渡った先の北国までは行かないけれど、それでもここよりももっと寒くて、テンが暮し易いところへ、連れて行ってやることは出来る。

 前足浮かせて立ち上がり、その時丁度ギンコの後ろから吹いてきた風が、彼の体にも服にも染みた優しい医家の匂いを、テンに届けたのだろうか。ひくひく、と鼻を動かして、それから恐る恐る、テンはギンコの手元へと寄ってきた。化野がきっと、優しく、優しく手当てしたのだろう。そいつは化野の匂いを嗅いで、それだけでギンコの腕をよじ登ってきた。

 旅の道連れが出来て、ギンコは少し嬉しくなる。襟を少し広げ、その中に「ギンコ」を入れて、彼はゆっくりと歩いて行く。化野の住む里を出て、暫し行っても「ギンコ」のぬくもりは、愛しい男のぬくもりを思い出させてくれた。

 そうして、白い一人と一匹は、北を目指し、だんだんと雪の濃くなる旅路をゆくのだった。



 終




10/03/15 再up