お前を思う、ということ
「じゃあ…そろそろ発つよ」
縁側から外に足を下ろし、ギンコは海の方を見つめたまま言った。何度この言葉を口にしようとも、少しも慣れることの出来ない痛みが、深く彼の胸に刺さる。
ああ、気を付けてな、と、いつも静かに返ってくる化野の声が、何故だかなかなか聞こえてこなくて、ギンコは困ったように沈黙する。
振り向いて顔を見れば、去り難さがつのるばかりなのに、何故、返事をしてくれないのかと、ギンコは内心で焦れた。耳を澄ませば、奥の部屋の方で、何やらごそごそと物音がする。
「待て、ギンコ。俺もゆく」
信じられないような言葉が聞こえて、ギンコは勢いよく振り向いた。振り返るとそこには化野が、うっすらと微笑を浮かべて立っていて、ギンコは思わず大声を出す。
「な…っ、何考えてんだ、お前っ。俺はお前を連れてなんぞ…ッ…」
「いや、そんな驚くな。丁度、薬草の摘み時だから、すぐそこまで一緒に行くだけだから」
「え、薬草…?…」
一気に頭から熱が引いて、落ち着いてみれば確かに、化野は腰に一つ小さな籠を下げていて、袖をたすきに縛りとめたなりだった。まだ心臓を騒がせながら、ギンコは急いで靴をはき、振り向きもせずに庭を出る。
化野は障子すら閉めずにギンコの後に続き、隣家の庭の前を通りながらも、ちょっと留守にするから、と大声で言い置いていた。
「おいおい、少しはゆっくり歩いてもいいだろう、ギンコ。何か怒ってるのか、お前」
「………」
追い付いて隣に並び、化野はギンコの顔を覗き込む。ギンコはじろりと化野を睨み、何も言わずに近くの山道へと入っていく。
遅れては追い付き、遅れては追い付き、ギンコの背中を見つめながら、化野は時折顔に当たる光に目を細めた。日差しは木々の葉に遮られて柔らかく、ギンコの髪に注ぐ木漏れ日も綺麗だ。
ほんの少しだけ延びた別れの時。そんな些細な時間は、いっそない方がありがたい、とギンコは思っている。化野はそれとは逆に、山道で眺めるギンコの姿を、なんだか新鮮だと思っていた。
「その先に窪地があるだろう」
化野は、ギンコの木箱にでも話しかけるように言う。
「傍には湧き水もあるんだが、そのせいかここで採れる薬草は効き目がよくてな。磨り潰して捻挫だの打ち身だのに塗って使うと、よく腫れが引くんだ。そういや、お前の膝の怪我にも使ったぞ」
何だか懐かしいことを言われて、ギンコは立ち止まった。窪地があるのはもうすぐそこで、つまりは化野はそこで脚を止めてしまうのだ。そこから先はいつもように、彼一人だけの道行き。
「化野」
ギンコは前を向いたまま、傍らの岩の上に腰を下ろす。そうして前に放った彼の言葉は、ちゃんと彼の願い通り、空気に乗せられて化野へと届いた。
「ちょっと休んで…茶でも、飲むか?」
「…あぁ、いいねぇ。外で飲む茶も美味いしな」
木箱を地面に下ろし、竹筒の水筒を取り出して、今朝化野が注ぎ入れてくれた茶を、ギンコはゆっくりと彼に差し出す。化野はギンコの隣で同じ岩に寄りかかり、木々の隙間から見える海の光に目を細めた。
茶を一口飲んで、それをギンコへと返しながら、化野はぼそりと呟く。腰に下げた籠をひねくりながら、それでも視線はゆっくりとギンコに向いた。
「なぁ…ギンコ…。俺は里を放り出したりはせんよ。医家としての責任とかもあるが、これで結構、この里が好きだからな」
「…知ってる」
普通に返事をした筈なのに、声が酷く沈んで響いて、ギンコは無意識に唇を噛んだ。そんなギンコの方を、間近から真っ直ぐに見て、化野は深く微笑んでみせる。
「ここからは離れなくとも、お前を一番…想ってるよ。里よりも。…他の誰よりもな」
「そういうこと言うな」
言われずとも判っているが、口に出しては欲しくない。ギンコは唇で緩く微笑んで、瞳には少し哀しげな色を揺らしている。そんな彼の唇を斜めに見つめ、少し熱のこもった目をして、化野は言うのだ。
「なぁ…。いいか…?」
「…こ、ここで?」
「口、だけでいいから」
「あっ、当たり前だッ! でも、ここ村のもんが通っ…」
「だから、早くしちまおう。誰も来ないうちに、な」
悪戯っ子のように、笑みを含んだ口調。その言葉は重なる唇の温もりに溶けた。人が来ないうちにとか言いながら、化野はギンコの後ろ頭に手を置いて、その髪を掴むようにして深い口付けをする。
触れた唇をほぐすように、しつこく吸い付かれ、舌先で歯をなぞられて、ギンコは足をばたつかせた。地面に置かれた木箱が横倒しになり、慌ててギンコは化野の胸を押しのける。
それでも化野はギンコの背中を抱き締め、唇がほどけてから耳元に唇を押し付けてきた。軽く吸って跡を付けて、やっと離れた彼を、ギンコは赤くなってしまった顔で睨む。
「お前は、ほんとに…ッ」
「気を付けて行けよ、ギンコ。またなるべく早く、会いに来てくれ」
去りがたい背中を、とん…と押すように、化野はそう言った。ギンコは項垂れ、そのまま、こくりと頷いて、化野よりも先に道を歩き出す。遠ざかる背中を見つめながら、化野は淋しく目を細めた。
今は秋の初め。
次にギンコが来るのは春だろうか。長くもないが短くもない冬を、いつも会えずに過ごすのは、何度繰り返しても慣れないだろう。それがギンコを想うという事なのだ、と、化野は微笑んでいる。
木々の葉の隙間から零れる日差しが、仰向いた彼の額に、頬にと降り注ぎ、丸く柔らかな影を落としていた。
終
07/08/24 (08/12/02再UP)