例えば もしも
ギンコは坂道を登っていた。今は降っていないが、足元で積もりたての雪が、いかにも冬らしい音を立てている。
ギュッ、ギュッ、ギュッ…。
続いている自分の足跡を、一歩ごとに確かめながら、ギンコは思うのだ。 こんな忙しい頃に来たりして、あいつはどんな顔をするだろう…。
特に意味があって、今、来たわけじゃない。この辺りは、雪も大して多くないから、一晩泊まってすぐ経つ事もできるんだし、次に向おうとしている土地へ行くのに、ここを通っても遠回りにはならない。
別に会いたいとか、そういうんじゃなくて。
今だからこそ、来たのだとか、そういうんでもない。
もう、顔を上げれば化野の家が間近に見える。歩きながら、ふと視線を上げると、戸を開け放った縁側に、呆けた顔でこちらを見ている化野の姿。
見た途端に、なんとも言いようのない気分になって、ギンコは無意識に背中を向けそうになる。酷く慌てた声が、踵を返そうとした彼の体を引きとめた。
「お、おい…っ、ギンコ、来たのか。おい、って! …ああ、手伝えなんて言いやしないから、早く上がれよ、寒いだろう」
振り向いてもう一度見た、化野のその姿。たすき掛けをして着物の袖を絡み上げ、裾まで軽くまくって、頭には手ぬぐい、首にも手ぬぐいを巻いて。
彼は縁側に積み上げた座布団を、一枚ずつハタキで叩いていたのだ。ここへ来るまでの近くの村々でも、同じような光景を見た。どこの民家も、家中まるごと綺麗にして、新しい年を迎える準備に忙しい。
「手伝わんぞ、ほんとに」
乱暴に言って、ギンコは化野の家の庭に入って行く。
家の扉の前に立って、戸を叩いて返事を待ち、その戸が彼の手で開けられて…。化野の顔を見るまで、それだけの間があると思っていたのに、急に縁側に彼の姿を見て、居たたまれないように気持ちになった自分が、正直ギンコにも判らない。
だから別に、大掃除を手伝いたくなくて、背中を向けた訳じゃなかった。縁側に近付いて、そこにどかりと腰を下ろし、重たい木箱を背中から下す。
たすきを外し、裾のはしょりを下して、手ぬぐいを取った化野が、裏へバタバタと走っていって、熱い茶を入れて持ってきた。それを啜って、冷えた外気に真っ白い息を吐き、ギンコはぽつりと言うのだ。
「忙しかったんだろう。悪いな、こんな時期に」
「ん? 掃除の事か? 丁度終わったとこだよ。今日になっても終わってないのは、俺んとこくらいだ」
暮れはもう、明日だからなぁ、と妙にしんみりとした声で化野は言う。
まだ靴も脱がずにいるギンコの隣に、ゆっくりと膝を付いて、彼は少しばかり身を屈めた。
「まさかすぐに経つとか、言わないだろう…?」
語尾が揺らいでいるのは、不安だからだろうか。一番聞きたい問い。一番聞きたくない問い。嬉しい答えか、残酷な答えか、どちらか一つが跳ね返ってくるから、化野はいつも、それが何より怖くてならない。
「…まあ、冬だし…な。三、四日は」
「ギンコ…っ」
嬉しそうな笑みを見せられて、すぐに告げたのをギンコは後悔する。まだ考えてないとか、そんなふうにぼやかしておけばよかった、などと、抱きすくめられてしまいながら思った。
熱い茶を飲んだばかりの口に、化野の唇も舌も、少し冷たいくらい。縁側で座布団を叩いてなぞいて、彼の体は随分と冷えている。冷え切った手のひらで、するりと頬をなぞられ、寒いのと熱いのが、ごちゃくたに混ざったような心地にさせられた。
「こらっ、や、やめろ…っ、怒るぞ!」
縁側で押し倒されて挑まれる経験は、一度でもう充分過ぎる。上擦った声で抗うと、間近に真顔が迫っていた。
「じゃあ…向こうに布団、敷くか…?」
耳の奥を撫でられるような心地で、ギンコは身を震わせ、無理やりに化野の腕を引き剥がす。散々唇を吸われ、首筋や頬を撫でられて、背筋には快楽が這っているのに、それを隠すのはいつも骨が折れた。
「まず、なんか食わせろ。最中に餓死するのは勘弁だ」
ぷ…っ、と小さく吹き出して、笑いながら化野は台所へと立った。やっと靴を脱ぎ、既に馴染んだ部屋に上がる。掃除が済んだと言うのは本当のようで、どこも綺麗に整っていた。
囲炉裏にあたり、段々と暮れて行く空を視界の端に見ながら、ギンコは最近書きとめた日誌を、黙々と紐解いている。仕事のことを考えると、それでも少しは気が静まるから、努めて、こなしてきた仕事のこと、対処してきた蟲のことを思い浮かべた。
やがて化野が、いい匂いのする湯気を漂わせながら、大き目の盆に一杯の料理を運んでくる。
「…ご、豪勢だな。あ、もしかして正月の分じゃないのか、これ」
「そうだが…。近所から分けてもらったものばかりでな。いつもの事ながら貰い過ぎた。今から二人で食って減らしてって、丁度いいくらいだと思うぞ」
勿論、ただで食べられる美味い料理に、文句の付けようもある筈が無い。夢中で食べて、湯に入って温まって、そうして一つ布団でもっと温まる。それはもう、冬だという事を忘れそうなほど、熱いくらいに。
旅に疲れた体には、易い振る舞いではないのだが、いつものようにギンコには、抗い切れるものではないのだった。
*** *** ***
少しまどろんでいたのだろうか。気付いたら、腕の中にギンコは居なかった。まさかもう発ったのか。ここにはいないのかと、一瞬、化野の心が強張る。
跳ね上がるように身を起こすと、ギンコの後ろ姿が見えて、彼はほっとした。縁側の戸を少し開いて、そこに片膝をつき、ギンコは外を見ているのだ。白い髪が雪の色のようで綺麗だと、そう思った。
「どうした…? 寒くないのか、ギンコ」
そっと声をかけたが、ギンコは振り向きもせず、返事もしない。やめてくれ、と、つい思う。返事がないと、幻なのかと不安になるから。
「ギ、ギンコ…?」
「なんて声出してんだ。ちゃんといるよ。…ほら、ここに」
ギンコは立ち上がって、軽く笑いながら化野の傍に戻ってきた。借りた着物を着て、腰で緩く帯を縛っている。少し長い裾を、彼は慣れない様子でさばいて歩き、化野の胸に、背中を預けて座った。温かい肌と、ギンコの少し冷えた体が触れ合う。
「いるだろう? ちゃんと」
布団の上に身を起こした恰好で、化野は布団を広げ、それを背に被るような恰好で座った。両腕ですっぽりとギンコの体を包んでやると、ギンコはもう一枚の布団の中に脚を伸べて、化野の胸に頭を寄りかからせる。
「うん、居るな。…よかった」
酷く大切そうに、化野はギンコの頭を抱いて、そこに顔を伏せた。ギンコは戯れるようにして、彼の腕を何度も撫でながら、ぽつりぽつりと話を始める。
ここに来た時は、いつもそうだ。来て、何か食べて、肌を重ねて…それから目が醒めた時に、旅の間の話をする。
それを化野は聞いて、見知らぬ蟲達に思いを馳せるのだ。そこにいても見ることの出来ない、異なる生き物達。見えなくても、確かにこの、同じ世界に共に生きている、不思議な生命たちへ。
虹蛇っていう蟲がいる。…ギンコはそう言った。
「虹の蛇、という字を書く。そうは言っても、蛇の姿はしていない。むしろそいつは虹そのままの姿かたちをしていて、空に虹と同じように掛かってるんだ。
虹は例えば、近くに行こうとしても行けるもんじゃないだろ? でも虹蛇はそうじゃない。現れてから消えるまでの間。もしくはどこかへ行っちまうまでの間に、そこに行ければ、大地から虹が生えてる様が見れるんだそうだ。
ああ、俺もまだ傍で見た事はない。存在自体が稀だし、それを見つけても、消える前にそこに行くのがまた大変だからな。
お前がもしかしてそれを見ることが出来たら、どんな遠くに見えたって、がむしゃらに走ってって、息が切れても走ってって、例え俺が一緒にいても、置いてけぼりにされそうだな」
ギンコは少しかすれた声で、少し笑って、珍しくすぐに次の話をし始めた。
「カタツムリってのがいるだろ? 化野は医者だから知ってるだろうが、人間の耳の中にもそういう形の器官がある。
そう、その蝸牛って奴だよ。蟲にもそれにそっくりなのがいてな。人の耳ん中の蝸牛に住み着いて、音を全部食っちまう。それと一緒に行動する奴もいて、そいつは無音を食うんだよな。
そういや、この話は前にしたっけ。ツノ買って貰ったよなぁ。忘れてた。黙って聞いてねぇで、それ聞いたぞ、くらい言えよ、化野。あそこは雪が深かったな。こんなもんじゃねぇんだぞ」
蟲の話も欲しいが、傍にいるお前の声が聞いていたいから、聞いた話でも構いはしないのだ。けれど、化野は彼にそうと言ったことはなかった。
続いていく次の話。今夜のギンコは酷く饒舌だ。
「さっきの阿と吽もそうだが、蟲は普通の虫と似た外見の奴も結構多い。空吹きと春まがいの話は、確かまだだったろ? これあたりも、お前が見たら、どこまでも追っかけてって、大変なことになりそうだ。
空吹きは…とても綺麗な蝶の姿をしてる。奴らは冬の最中に、山奥で雪を溶かし、木の芽を芽吹かせ、花まで咲かせちまう。雪山に春の幻影を見るようで、恐ろしいほど美しいが、それが空吹きの罠でな。
春の息吹に誘われて、冬眠から醒めた動物達の生気を吸うのさ。お前なんか、判ってても蝶を追ってって、毎年毎年、山ん中でぶっ倒れてそうだ。
難儀だよなぁ。お前、俺が一緒について旅して、一々世話してやんなきゃ、あっという間に蟲に食われちまうぞ、きっと。
おーい、聞いてんのか、化野。いや、聞いてんならいいけど。なんか今日は眠くないんだよな。もう少し喋ってていいか?」
返事の変わりに、化野はギンコの髪を軽くすいてやる。
縁側の戸は少し開いたままで、外の冷気が部屋に流れ込んでいた。部屋は寒いけれども、寒いとは思わない。重ねた肌が、今に溶けてしまうように温かかった。
「流れ星みたいな奴もいるぞ。天辺草って言って、空を飛び回る、尾の生えた光る蟲だ。
お前、医者なんだから、案外頭はいいんだろうけどな。流れ星はあっちこっち、うろつくような妙な飛び方はしないって事は判るだろ? 天辺草は流れ星と違って、うろうろ飛ぶ奴だ。
暗い夜空に白く光ながら飛ぶ姿は、結構、綺麗だよな。あ、あれは蟲だとか教えても、心ん中でつい、願い事なんか唱えてたりしてな、化野。
蟲は、願いなんか叶えちゃくれないが…。もしも、叶うなら」
冬に、人は弱くなるのだと、ギンコも判っている。だからあまり、冬にここに来る事はない。ギンコがそうであるように、化野も、そうなのだろうか。きっと、そうなのだろう。同じく、心を抱いて生きているモノなのだから…。
「…あだしの……?」
ぽたりと零れた熱い雫に、ギンコは化野の顔を見上げた。いや、見上げようとして、寄りかけていた頭と肩を、またやんわりと抱き締められてしまう。抱いた化野の腕は、微かにだが、確かに震えている。
「すまん…何でもない」
「何でも、って…」
「何でもない。……ギンコ…」
こんな事は、言葉には出来ない。
蟲が見られて、ギンコと共に旅をして…。それが何よりも強く深い、化野の願い事。叶う筈のない願い。言っても困らせるだけの、子供のような、我が侭な願いだ。
化野は片腕だけをギンコの肩から解いて、その手のひらで、頬を拭った。零れた涙は、枯れずにもう一粒零れ、それもまたギンコの裸の肩に落ちていく。
ずっと見つめていたい、ギンコの姿が涙のせいでぼんやりと滲み、歪んでしまう。零れる涙が、邪魔でならない。震える声のままで、化野は言った。
「願い…か? 叶うなら、いや…叶うと信じて、願っているよ」
出来ることと言ったら、来た時に病を気にしてやること。
怪我があれば治してやること。
薬を持たせること。
何か美味いものを食わしてやること。
それくらい。たった、それだけ。
傍にはいられないから。
お前は数日経ったら、もうここにはいないから。
何にもならなくても、だからこそ
ただ、願う。
「お前が、無事で、いるように」
気付けば、ギンコは化野の顔を見上げて、じっと食い入るように彼を見つめていた。やっと止まった涙が、まだ頬を濡らしているから、それを辿るように、ギンコは手を伸ばす。
「…ああ、無事でいるよ」
ギンコは言うのだ。酷く悲しい瞳をして、それでも薄く微笑んで、声まで消えそうになるのを、無理に搾り出すような、辛い声を出して。
「お前がそう思ってくれているから、俺はきっと無事でいる」
「…そう…か?」
化野もつられるように微笑んで、また強くギンコの体を抱いた。
「それならいい…。それなら、どんなに遠くからでも、俺がいつも願っててやるよ。それでここに来たとき、怪我でも病でも、なんかかかってたら、全部、俺がきれいに治してやる」
俺も化野の無事を願っている、と、ギンコは口には出さなかった。想いを口に出すことが、ただ残酷なだけの事もある。
もしもお前に蟲が見られたら。
もしも共に旅をしていたら。
そんな例え話で、化野にこんな顔をさせた。心に冷たい風を吹きあてるような、記憶の中に目には見えない傷をつけるような、そんな非道い事をした。
だから、言えても言わない。
そんなことは、言葉にはしない。
想っている、と、ギンコは口には出さないのだ。
「ああ、もう年が明けたかな…」
代わりに、誰でも言いそうなことを、ギンコはひとつ、言った。
「去年は世話になった。今年も、多分、山ほど世話になる。覚悟だけはしとけ」
聞いた化野は、柔らかで温かな微笑を浮かべた。まるで、冬山に花の咲くような笑みだった。春紛いにも眩まなかった目が眩むようだ。ギンコは思わず口を開けて見惚れて、その口にいきなり吸い付かれる。
押し倒されて、二つの掛け布団をくっ付けて、二つの体を寄せ合って、互いの温かさの中に、また二人はまどろんだ。縁側の戸は開けたままだったが、寒さなど感じてはいない。
二人で聞くと、雪の音も風の音も、何もかもが温かい気がした。
旅立つ時は、きっとこの温もりを、両腕に抱いたままで行こう。そうすれば、長い冬も雪風も、冷たくはないのだと、ギンコには思えるのだった。
終
06/12/24 旧拍手おノベル(07/12/20再アップ)
えーと、再アップの旧拍手ノベルです。長いですが、あえて前後に分けずに載せてみました。目が疲れてしまった方。すみません。そして「冬はあまりこないようにしてる」筈なのに、よく雪の季節に二人でいるじゃん、と思った方、ごもっともです。笑。
単に惑い星が、雪の季節の二人を書きたいばっかりにそうなってしまうんです。汗。そもそもうちのノベルは山ほどあって、年に三、四回しか会ってない設定なのに、それじゃ何年経ってるのさ!とか思うでしょう。
ええと、気にしないで下さると嬉しいです。苦笑するしかないですが。涙。だってたくさん沢山タクサン、この二人を書きたいんですもの。というわけで、読んで下さった方、再読の方も含め、ありがとうございました。