首筋に標す
「風が冷たいぞ、これ、してけよ」
そう言って差し出されたのは、どうやら女物の肩掛けであるようだった。女物であることに他意はない。誰か村人の忘れ物かもしれないし、それがいつの間にか化野の持ち物になっただけだろうと思う。
「いらねぇよ。もっと日が昇れば、そう寒くもなくなる」
縁側で背中を向けて、靴を履きながら、ギンコはつれないことを言った。いつも彼はこうして旅に発って、次はいつ来るとの約束もなく、最後に視線を見交わすこともない。そんなギンコに化野が、せめて何かをしたいと思って、その肩掛けを差し出したものを。
「してけ。遠慮するな」
「別に遠慮じゃな…。…っ!!」
立ち上がろうとした肩を掴んで、不意に化野はギンコの肌に口を付けていた。そんなことをした化野も無意識だったから、自分が何をしているのか、後で追いつくように判る。
「お、おい…ッ、なに…」
「…黙ってろ。動くな」
口を付けたギンコの首筋が、小さく震えた。そうやって息を飲んで、彼は段々と息を浅くする。両肩を後ろから押さえられ、肩の上に微かな温もり。化野は片耳をギンコの肩に乗せるように、顔を斜めにして彼の首に唇をつけているのだ。
小さく唇を開いて、その柔らかな肌の上で、ゆっくりと唇を動かして…。まるで味わいながら吸うように…。彼の白い肌を揉むように…。
「あ、あだ…しの…。や…」
くちゅ…と、微かな音が鳴る。聞こえた水音に首をすくめ、嫌がるように身を揺すると、唇の位置が、上へとずれる。耳の後ろ辺りの、柔らかな皮膚に吸い付かれ、尖らせた舌先で耳朶をくすぐられて、ギンコの喉の奥から細い声が零れた。
「やっ…。ん…、く…っ」
あまりに素直な反応に、くす、と微かに化野は笑い、それから彼の髪を掻き上げ、唇でうなじをなぞってやる。
今回の滞在は一週間で、長くも短くもない。その間、五度も抱いておいて、それでもギンコの反応は彼にとって新鮮過ぎた。嫌だ、やめろと口走るくせに、本気で抵抗などしない。
申し訳程度の抗いが、余計に愛しく感じるほどで、歪められた顔や、泣き言のような言葉には、さらに欲情させられた。
「堪らんな…」
ぽつりと化野は言った。そうして後ろから伸ばした手で、ギンコのシャツのボタンを一つ二つと上から外し、その内側へと手を入れた。滑らかな肌が、もう微かに汗ばんで、ずっと奥へ入れた手が、やがては胸の小さな飾りに触れる。
「ひ…ぁッ。や、やめろ…っ! あぁ、ぁ…」
悲鳴を上げると同時に、ギンコの首筋がびくりと強く脈打った。首に流れる血潮。彼の心臓の鼓動が、酷く速くなっている事が、こんな場所でもはっきりと知れる。
「その気になっちまったか? なんなら、もう一晩泊まっていきゃあいい。一晩が駄目なら、二、三時間くらいでもいいが。そんだけありゃあ…。なぁ、ギンコ…。う、わッ」
「…い、いい加減にっ」
突き飛ばされて、化野はころりと縁側の板の上に転がった。真っ赤な顔をして、片手では首筋を、もう一方の手では広げられた襟を押さえて、ギンコは酷く怒っている。
「こ、このっ、ケダモノが…ッ! な、何、考えてんだっ。ま、また縁側なんかでッ」
「…あぁ…まあ、そうだよ、なぁ」
転がされた場所で、逆にころりと身を起こし、化野はバツが悪そうに曖昧に笑った。その笑いの中に、悪戯っぽい笑みが混じる。
「何も考えちゃいない…。お前の首が綺麗だったし、吸い付きたいと思ったし、こうすりゃ、俺の心づくしの肩掛けを使ってもらえるかと思ってな。そら、綺麗な跡がついたぞ」
いそいそと手鏡を取りに行って戻ってきて、丁度映るように鏡をギンコへ向けてやる。差し出された鏡には、化野が何度も吸い付いた同じ場所に、あまりにもくっきりと、情熱的な口づけの跡。
「てめぇ…っ」
「わ…っ、いてぇっ!」
奪った鏡を化野の顔に向けて投げつけて、ギンコは真っ赤になって怒っている。怒らせたことよりも、その顔が子供のようで可愛くて、ニヤついていたら険悪な顔で睨まれた。
こんな場所では、横から見られても前から見られても見えてしまう。消えるまで何日も、襟巻きか何かしているしかない。引っ手繰るように化野の手から肩掛けを奪い、それをぐるぐると首に巻いて、ギンコは項垂れる。
項垂れたまま、今度こそ背中を向けて歩き出したギンコ。遠ざかる背中を見て、化野はほろ苦く笑うのだ。
ああして、服を着ていても見える場所に、愛撫の跡を印して…。あの跡がギンコに想い人のいる証のように、人には見えたりしないものだろうか。
何処へ旅をし、どんな人間と会っているのかも判らずに、これから先も彼を送り出していくのだから、印をひとつつけることくらい、許してくれたっていいだろう。
化野はギンコの温もりの残る自分の唇に、そっと指先を触れてみた。彼の肌の温もりと柔らかさと、首筋に響いていた鼓動。その一つ一つが愛しくて、離れれば一層、それが恋しい。
嫌われるのが怖いくせ、求め過ぎるのは絶対に止められないだろう。次に会った時は、どうやって責めて泣かせてやろうか。そんな悪い空想を浮かべては、化野は別れの辛さを紛らわしている。
あれもこれも、どれもそれも、
お前を強く想うが故だ。
だから怒るな。勘弁しろ。
苦笑した化野の視界から、角を曲がったギンコの背中が、ゆっくりと消えていった。
終
07/06/08 (08/12/02再UP)