いつもと違う夕夜のこと
1
夕暮れの頃、化野の家に着いた。
すぐに夕餉を用意され、風呂を使い、いつも借りている着物を着て出ると、化野が茶を入れて出してくれる。湯飲みから、やんわりと立ち上る湯気を眺めながら、ギンコは幾分身構えていた。
身構えもする。あんまりいつも同じ順序でことが起こるから、次に化野がどう来るか、そうして次にはなんて言うかまでも、もう頭に浮かんでしまうほどだ。
ギンコ、とあいつは言う。言いながら手を掴んで引くか、それとも後ろから抱きすくめてくるか、顎に触れて唇を重ねようとするか、とにかくそんなところ。そうきたらまずは抵抗して、嫌だ、とか、何すんだ、とか言って…。
「ギンコ」
ほぅら来た。思わずギンコは身を固くして、化野の手がどこに触れてくるか、全身で待ち構えてしまう。
「ギンコ、なぁ、聞きたいのだが」
え…。予想外。
振り向くのも忘れて、ギンコは沈黙する。聞きたい? 何を。明日の朝飯の付け合せなんぞ、聞かれたこともないし、いつ発つのかと聞くのは、大概二、三日経ってからのはず。すると、何を聞くつもりなのか。考えても判らないし、そもそも考えている余裕を、今のギンコは持ち合わせていない。
「…何だ、今じゃなきゃ駄目なのか?」
あぁ、しまった。これじゃ問い掛けに答えるのとは違うことで、頭がいっぱいだと告白するようなものだった。
「今、聞きたい」
「一体何だ、早く聞け」
あぁあぁ、だから、これじゃ問いなぞしてないで、早く手ぇ出せとか、そういう意味に取られそうな気がする。
そうしてギンコが内心で、酷くうろたえているのなんか、化野が判っているはずも無い。彼は干した自分の湯飲みに、新しい茶を注ぎ入れ、ギンコもいるか?などと聞いてくる。
「茶はいい。だから何なんだ、化野」
「あぁ、うん、その…な」
「早く聞け、早く」
問われる。答える。その二つのことだけで、こんな動揺が過ぎ去るなら、どんな問いでも構わない。だから早く聞け。打てば響くように、すぐに答えてやるから。
「その…。だ…抱いて、いいか?」
「…だ…っ……」
なんだって? 今まで、聞いてから手ぇ出したことなんか、いっぺんだって…。いや、一度くらいはあるかも知れないが、とにかくいつもは遠慮も容赦もない癖に。
「駄目か」
「な、な…なんで聞くんだ。いつもはそんなことしないだろが」
「…いや、思い返せば、毎度嫌がられているなと思ったんだ。手を掴めばお前、すぐに振り払おうとするし、口を吸えば顔をそむける。脱がされるのだって、いっつも随分と暴れるだろう。だから…」
卓に両肘ついたまま、ギンコはその両腕で頭を抱えてしまっている。別に頭が痛むわけじゃない。ただ、顔が真っ赤になっていると、自分でよく判っているからだ。
「……嫌だと答えたら、しないということか」
「う…。そ、その場合、布団を離して敷いて、今夜は別々に」
「…隣室に布団敷かないのか」
「お前の気が変わるかもしれないから、傍で待とうかと」
「…ほぉん…」
聞いているうちに、ギンコは余裕が出てきた。卓を挟んで向こうにある、化野の顔が面白い。赤くなったり緊張したり、ちょっと拗ねた顔になったり、哀しそうにしたり。
ついつい顔に笑いが出ていたか、化野はギンコの表情に気付いて、怒ったように口を尖らせる。なんだかまだ年端もゆかぬ、ガキのような顔だった。
「面白がってるだろう、お前」
「あぁ、面白いな」
「お前の気持ちを、尊重しようとしてるってのに」
「…じゃあ言うが、今夜は疲れてるから、やめといてくれ」
「う、うぅう…」
本当に面白い。いつぞや硯の中の蟲を解放すると言ってやった、あの時の化野の顔に似ている。そんなに寝たいのなら、どうしてわざわざ聞いてくるのか。
「じゃあ、俺の布団はもう敷いてくれてるようだから、先に休ませて貰うとするか。そんじゃな、御休み、化野せんせ」
「……ギンコ…」
恨めしげな声が後ろから届いた。化野がギンコの布団と離して、自分の布団を敷き出したのだが、その物音までもが哀しげに聞こえた。さてさて、いつ許してやろうか。ギンコは寝たふりで布団に頭を隠しながら、声を殺して笑っているのだった。
続
2
なぁ、ギンコ。とくるだろうか。
それとも真っ直ぐに、やはりしたい、とくるだろうか。
今度こそは予想があたるはず。ギンコは頭ごと布団にもぐったまま、暫し化野の呼びかけを待った。が…待てど暮せど、何とも言ってこない。とうとう一刻ほども過ぎ、もしかして本当に、眠ったのかと思えてきたころ、化野の布団がもそり、と動いた。
!!? 来たか!
ギンコはまた身を固くする。にっこり笑って振り向いて、いつまで待たすんだ、とでも言える余裕は、勿論ギンコには無い。それが本音かどうかはさておき。
もそり、もそり、と化野の布団が音を立てる。布団をかぶったままで、こちらへ近付いているのだと判り、振り向かなければ見えない化野の姿が、甲羅を乗せた亀のように思える。
「…ギンコ……」
えぇぃ、うるさいとでも言ってやろうか!
「ギンコ。もうそろそろぐっすり寝てる頃だろうな…」
寝てると思うなら話しかけねばいいものを。ギンコの苛立ちを知らず、化野は微かな声で言葉を続ける。
「寝てるか、ほんとに。…ふぅ、それじゃ」
それじゃって?! どうする気だ、寝てる俺相手に勝手をする気か! まさか!? いくら化野でもっ!
そう思う間に、ギンコが頭にかぶっている布団が、ほんの少しまくられる。銀の髪が見えたところで布団を剥ぐその手は止まり、もそり、もそりと、今度は布団をかぶった化野の気配が遠ざかる。もそりが途切れたら、今度は布団の中で、なにやらごそごそ。そして…そして…。
「…ぁ、ギンコ……ギンコ…」
やがて聞こえてきたのは、嫌というほど耳に馴染んだ、化野の声。言葉。浅くて速い息遣い。ギンコは布団の中で、目を見開いて赤面していた。そうするしかしようがなかった。
「ギンコ…、ふ、ぅぅ…」
上擦った声、何度も何度も名前を囁きながら零す喘ぎ。分厚い布団越しに、耳を覆いたくなるような、淫らな音まで聞こえてきて、ますます化野の声は甘くかすれる。
たまらなかった。いつもは抱かれながら聞いている声だ。体がそれに反応して、こうしてじっとしているのが、酷い責め苦のようだ。それでも身動きせずに、全身が耳になったように化野の声を聞き続けていると、やがては化野の声が、く、と詰まって、長く息を吐く。
「ぁあ、んぁ…っ、ギンコ…っ。…は…ぁぁ…」
向けている後ろ頭に、刺さるほどの視線を感じた。
「…酷い、奴だよ、なぁ…。俺がどんなに…」
そうしてまた、ごそごそと。顔中真っ赤にしながら、とうとうギンコはくるりと振り向き、布団の上に身を起こして怒り出した。
「お、おま…っ、何してんだっ。ひ、人の後ろ頭見ながらっ」
「……あ。起こしたか。すまんな、こっそり静かに名を呼んでるつもりだったんだが、な」
さすがに驚いた顔をして、化野は布団の上に身を起こす。まくれた寝具のその下で、化野は着物の前を開き、下帯を殆ど緩めてしまって、本当にあられもない恰好だったのだ。
「本当にすまん。まだ、その…しばし続きがあるから、残りは向こうの部屋で、なるべく静かにやるから、もう寝てく…」
「寝ていられると思う方がどうかしてるぞ、化野」
「いや。俺もここがこうでは寝られんのだが」
「だから…っ、だから俺も寝ていられなくなったと言ってんだっ」
かぁ、と耳まで赤くなって、ギンコはまたくるりと背中を向け、頭まで布団をかぶって身を隠した。髪一筋さえ隠しているというのに、化野はまたもそりと寄ってきて、ギンコの布団の脇から手を入れる。
「…ほぉ、どら? ここらへんか」
「あ、あだし…ッ、ひ…」
見えているように正確に、寝巻きごしのそこを握られて、ひと呼吸もおかずに扱かれて。
「こ…の、ケダモノ医者!」と、ギンコは化野を罵った。
「返す言葉もないよ、ただし、お前相手限定だけどな」と、悪びれもせずに化野は笑う。
つまりはそうなるように、出来ているのだ。いつでも求めて求めて求めながら、年に何度かの夜を待つ化野。嫌だ嫌だ言いながら、本当は欲しがられたいギンコ。
この二人がそうである限り。ギンコ来訪の日の夜の予定は、余程のことが無ければ、きっとずっと、変わらない。しっとりと湿ったような嬌声と、互いを呼ぶ声、そうして微かな衣擦れの音は、明け方近くまで続いているのだった。
終
08/02/27及び08/03/16
09/02/27再UP