… 明 待 ち …
「明日の朝、発つ」
宵闇が、ランプ一つだけ灯した部屋に、ゆっくりと滲む頃、ギンコは背中を向けたままで言った。美味い酒の瓶と杯二つとを、盆の上に並べようとしていた化野の手が、びくり、と揺れて止まる。
「昨日来たばかりだろう」
「この空模様だと、嵐が近いからな。追い付かれないうちに発つ」
「だったら、嵐が過ぎてからにすれば」
「そんな呑気にしてたら、季節が変わっちまう」
「ギン…」
縁側で坐ったまま、振り向きもしないギンコ。化野の繰り返す言葉が、その背中で跳ね返って、彼の足元に無残に転がっている気がする。
どうすれば、こんな冷たい背中ができるのか。こんなにも素気無い言葉が吐けるのか。酒を飲む気など失せてしまう。まだ傍にあるこの背中が、今まさに遠ざかって、見えなくなりそうに思う。
けれど、その胸の痛みが憤りに変わる前に、化野は気付いたのだ。ギンコの片手の指先が、白く色を変えるほど強く、畳の上に爪を立てていることに。
見れば、冷たく見えたその背中も肩も、心を隠し切れずに震えていた。
床に並べた二つの杯が、かちゃん…と、音を立ててぶつかる。その音に振り向こうとしたギンコの体を、化野は後ろから包むように抱き締めた。
ギンコが項垂れて、無言でもがいて逃げたがるから、化野は片手で彼の顎を掴んで、そのまま彼の髪の中に、そっと顔を埋めてやる。
「朝、発つのか…」
化野の言葉は、ギンコの耳に直に響いた。髪に隠れていた耳に…その耳介の後ろに唇をつけて、化野は囁きを聞かせる。そこが弱いと知っていて、わざと苛めるように、彼の名を呼んだ。
「…ギンコ。朝までは、まだ間がある。なら、酒を酌み交わすより」
「や、め…。ぅ…」
耳の裏側を、ゆっくりと舐め上げられて、ギンコは化野の腕に、自分の手を掛けた。けれども、それを引き剥がそうとするでもなく、ただただ、彼は項垂れる。
口ではそうと言わなくとも、本当はこれを、望んでいたからだ。ただ朝までの時間が過ぎるのを、じっと待つのは辛すぎる。だから、時が流れていくのも判らなくなるような、そんな衝動の中に、朝まで閉じ込めておいて欲しい。化野のこの腕で。
耳朶に舌を触れさせて、熱くなっていくギンコの体を感じながら、化野はまた、その耳の中に囁きを落とし込んだ。
「抱くぞ、ギンコ。嫌なら、そう言え」
畳の上に、ゆっくり仰向けに押し倒され、借り物の着物の前をはだけられる。ギンコは何も抵抗せずに、目を閉じて、酷く上擦った声で、やっと言った。
「…もう、判ってんだろう。聞くな」
判っている。
朝になってからではなく、夜の更けた今のこの時間に「明日の朝には、もう旅立つ」と、そう告げたことすら、不器用なギンコの誘いの言葉だった。
だから抱いてくれ、などと、死んでも言えないギンコの魂が、太い鎖で繋ぎたいほどに、化野は愛しい。
冷たい畳の上で、裸に剥かれたギンコの体。その両腕が、幾百の言葉よりも饒舌な想いを込めて強く、化野の背中に縋りついた。
終
上記のとおり、拍手を設置した時にお礼として載せていた短文です。もうあれからすごく時間が経ったし、見てない方もけっこういるかなと思って。
なーんだ、これ見たことあるよ、って思った方は、ごめんね。
07/01/07
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旧拍手お礼ノベル (06/08/31-09/17)