『アダシノムシに言っておけ』


「い、ぃてててててて…っ」
「ああ、わるい」

 ギンコはイサザにいきなり右耳を引っ張られ、痛みにそんな声を上げた。イサザはニコニコ笑ったままで、その上、ギンコの耳を引っ張ったまんまに返事をした。

「…ここ、なんか痣があるぞ? どうした、これ?」
「えっ、いや…。なんだろうな、覚えが無い」

 なんとか平静を装いつつ、ギンコは耳の後ろ、やや下の首筋を手のひらで隠した。何日前だったろうか、あの里を去り際、化野に口付けられた記憶が蘇って、頬が熱くなる。

「何かにかぶれたか。それとも虫刺されか? 虫じゃあなくて、何かの『蟲』の方かな。ちゃんと見せろ。よくないものだったら、そのままにしない方がいいだろ?」

 言いながら、イサザはずっと笑っている。こいつ、とギンコは思い、乱暴な仕草でイサザの手を払った。なんでもない。そのうち消えるから、放って置け。と、繰り返し言ってもイサザはギンコの首筋を覗き見ようとしてばかり。そのうち襟元に顔を寄せて、さらに何かを見つけたらしい。

「そこだけじゃないようだ。喉と、その襟ん中にも、おんなじような痣があるじゃないか」
「うるさいな。人の事なんか、もういいから…っ」
「…随分嫌がるなぁ、ギンコ。何も、全身くまなく調べさせろなんて、言ってるわけじゃないだろう」

 イサザは意地の悪い笑みで、さらに言うのだ。だから、こいつ、苦手だ。一枚二枚、常にうわてを行かれるようで、ギンコは彼を睨みつける。睨まれても、どうとも思わぬようで、イサザはわざとらしく声をひそめた。

「なぁ、それじゃ、お前に付いた『ムシ』殿に、今度一言伝えてくれ。見せ付けるのも大概にしろ。からかう以上をしたくなって、見せられるこっちは堪らんのだぞ、とな」
「……な…っ」

 言えるか、そんなことっ。

 ギンコはイサザがいつも苦手だ。旧友で、同じく蟲の見える体質で、そうして互いに流れ暮す身で。気の置けない相手なのだが、それでもすこぅし、いつも苦手だ。くすくす笑うイサザの横顔を、無駄と知りつつ睨み続けるギンコであった。




08/08/27







『小さき風の車』 

持って走ると面白いぞ? そらそら、やってみな。

などと言って、子供に風車を渡す。
すると子供は綺麗な白い髪を揺らして、
その風車を胸の前で、両手でしっかりと握り、
パタパタと坂を走り下りていく。

あー。違う違う。片手で持って、もっと上に掲げて持って!

叫んで教えた声は届かないのか、子供はそのまま駆け下りて、
もともと小さなその背中は、どんどん遠ざかっていってしまう。

ま、待ってくれっ、ギンコ…!

さらに大きな声で名を叫んだ途端に目が覚めた。
参ったな。小さなギンコを見れたのは嬉しいが、
こうして夢で会う時にまで、
俺を置いて遠ざかっていくことはないだろう?

なぁギンコ。
今、どこにいる?
願わくば、ほんの少しずつでも、
俺のいる此処に、近付きながら歩いていてくれるよう、
俺は祈るよ。

庭の垣根に結んで立てた風車が、優しい乾いた音立てて
からから、からから、からからと回っている。

それは夢にも出てきた、淡い青の色の風車だった。




08/08/21







『夜空に火の花』


煙。

と、化野はそれだけを言った。
見上げていた空から視線を落とし、俺は手元の煙草を見る。
ついさっき、つけようとしていたのを、忘れたまんまでいたから、
煙なんぞひとすじも出ていない。それで気付く。遅ればせながら…

見上げた空に、無数の火の粒の花。その都度の大きな音。
目映いそれらに目を奪われ、ほんの少しも気付いていないが、
その大きな花火の上がるごとに、空には淡く薄く煙たちが残される。
それが柔風に流されて、化野の見る視線の先にあるのだ。

そこにあるのに、殆どのものが気付くことも無くて…。
あぁいうもんか? 蟲ってのは。

華やかな大輪の花火が、次々と開いては消えてゆく夜空に、
そんなことを思うお前も、随分と珍しい男だよ。だけれど、

そうだ。

と、俺は答えてやる。すると化野は、何故だか哀しそうに笑う。

そうか。寂しくないのかな、蟲は。

少し、心を突かれた。蟲なんぞに心は無いと、見えるものたちでさえ大概は言うのに、なんて広い心だろう。なんて優しい思いだろう。だからこそ、俺は、あぁ、とそう思う。言えないけれど、思っている。

あぁ、俺はお前の眼差しに、捕らえてもらえる存在でよかったよ。
いるのかいないのかも判ってもらえずに、
お前のその瞳がこちらを見ることもなかったら、
俺なら寂しくて、きっと一日も生きてはいかれんよ。

言えない言葉の代わりに、俺は言う。

寒いぞ。

返事もせずに、化野は俺の肩を抱き寄せ、
その腕の中のぬくもりを、惜しげもなく分け与えてくれるのだ。




08/08/21







『ひとりじめの欲』


なんて、淫らだ

最初口を吸われた時に、もう、俺はそう思ったのだったよ。
軽く触れ合わされる唇に、ゆるり緊張が解けたのを、見計らうようなその舌の。
舌の、舌先での戯れを。
小さく覗かせて、こちらの唇をつつくように。
するりと横に滑って、こちらの閉じている唇の合わせ目を、ほぐすような、その。

んん、と呻いて、肩を押しやろうとすると、二人、壁の傍に立っていたものを、
いきなり、その壁に背中を強く押さえつけられる。
化野の着物の布地が、俺のズボンの布地と擦れ合う。
力の抜けた膝を割られる。
するり、片膝の先を上へ、上へと擦り上げられ、それだけで腰も膝も砕けそうだ。

あだし…っ。

し…っ、黙って。
こういう事は、何か喋りながらすることじゃないんだ。
そうだろ? ギンコ。

そうかも知れんが、言葉を封じられると共に、身動きまで封じられた気がする。
シャツの下から手が滑り込んできて、知らずに背を反らすと、
それだけで痺れるような快楽が、背筋を這い上がる。

あぁ、芯が…
俺の芯が、とろけそうな…。

熱いか?と、内心を読んだような問い。
頬を赤らめて、唇を噛むのに、噛んでいるその唇の上を、また舌でなぞられる。
痺れるだろ、と、また化野が言う。
そろそろ窮屈か?と、あからさまな問いを更に。

口吸いも巧いもんだが、この指もな、中々なんだぜ。何処で味わいたい?

ニヤリ、笑って言う、その声の甘さ。
狡いような、クスクス笑い。

知るか…っ。
と、俺は言った。気付けばもう床で仰向けで。
いやいや、と振る頭の、白の髪が乱れていて、それを愛しげに撫でる化野の手を、
俺だけのものにしたいと。

そう、眩むように思っていた俺なのだ。




08/08/17








『そらごろも』

(サヤクという名の蟲師の話)



「そらごろも」という名の蟲がいるのだと、通いの蟲師から聞いた。

 その蟲師は勿論、ギンコではなくて、ギンコに会うより前からの客人なのだが。蟲煙草を吸い、長い前髪のせいで、よく見えない顔で、それでも口元だけでいつも、ゆうらりと笑っている。

 せんせい、あんたなら、さぞや欲しいだろの。
 その蟲はなぁ、空の姿を絹地に映すのだよ。
 夕空の下に着て立てばその赤い色の移り変わりを、
 雨の日に、濡れて立てば雨粒を。
 稲光の中に立てば、その雷光の鋭さを映すという。

 もしも、俺がそれを持ってきたら、
 せんせい、いったい幾らで買ってくれるね?

 本当なんだか、「ほら」なんだか、判らぬ言い方で蟲師はいつも言う。この前は「幻焔(まほろお)」という名の蟲の話、そのまた前には「燈蛾(とうが)の玉(ぎょく)」という名の蟲の。それから、ずっと前には、なんだったか…「カイ…」?

 いつも俯き加減で、せいぜい一刻くらいしかおらず、くるたびに一つ、話すその蟲らを、持ってきてくれたことなど、一度たりとてなかった。最後に聞いたのは「そらごろも」だったか?

 いいや違う、もう一つ。この頃になって一つ聞いた気がする。奇妙なことだ、名も知らぬその蟲師がこなくなって、もう一年は過ぎたというのに。目を閉じて思い浮かべれば、夢で見たらしい姿と、その唇の笑いと、いつもの真っ白な着物。

 白の着物は、思えばまるで死装束。

「魂宿り(たまやどり)」という蟲の事を聞いた。もうとうに死んでいるものの心が宿って、それをどうしても伝えたい相手に伝えてくれるのだと。

 だからなぁ、伝え終えたから、もう、しまい、なんだよ。せんせい。

 いつもはゆうらり笑う口元が、少し寂しそうに笑って見えた。

 だからな、お前さんから、全部伝えておくれ。「カイコウ」「幻焔(まほろお)」「燈蛾(とうが)の玉(ぎょく)」「そらごろも」そうして、必ず最後に「魂宿り(たまやどり)」をな。

 旅暮らしでも、達者で生きよ、と、そう言っとくれ。必ずなぁ。

 
 ギンコが来た。夢かうつつか判らぬこれを、どこから伝えようかと俺は思う。確かに何度も訪ねてきていたと、そう思っていたものを、今となってはすべてがまるで、夢まぼろし。朧ろに酔うた宵の記憶なのだ。





08/08/14







ちょっと一言
驚くんですけど、自分が書いた記憶が残ってないものすらあります。まぁ、2008年ですか? 確かに随分前ですが、そこまで綺麗に記憶から消えるのも、凄い気がしますが。そんなにも忘れっぽいお陰で、初めて読むような気持ちで、結末も分からず読めて得をしてます。ハハハ。

12/01/03



blog 080814〜080827より 転載
チビ ノベル  5匹