駆け戻った家の中では、火の入っていない囲炉裏の前で、ギンコが珍しく船を漕いでいた。傍らには木箱。あーっ、なんてことだ。こんな素晴らしい機会はそうそう無いぞ。兼ねてから気になっていたギンコの木箱の中を覗ける!
実はこっそり見ようとして、叱られたこともあるのだが、生憎、俺の好奇心は無尽蔵らしい。
にじり寄って、まずは一番上の引出。ぴくりともしねぇ。くそ、鍵でもかかってんのか。それともなんかの細工かね。そんな引出にゃ、それこそ珍品中の珍品が入ってそうだというのにな。
諦めずに今度は真ん中あたりの、大きめの引出。
お、今度はすんなり開いた。中を覗くと…、なんだつまらん。食料の類みたいだな。干した飯に干した魚に干した肉。なんか根菜であったであろうものの、茶色く萎びたもの。
これを、まだ食う気で持ち歩いてるのか? 他のものも乾燥した食べ物ばかりで、見るからに食欲をそそらない。なんだか不敏になりつつも、その下の引出を開ける。
すると小さく畳んだ薄っぺらな獣の皮が一枚。敷物だろうか。横になって手足を縮めて、やっと体がおさまるかどうかの、本当に小さな。寒い季節は終わったが、これを敷いて寝るのか? 野宿で?
次の引出には竹筒。水を持ち歩くためのものだろう。それに小刀。少し錆びていて、柄のところなど傷だらけ。化野はそうやって、幾つもの引出に指をかけた。開かないところも多かったが、それでも今まで知らなかったギンコの旅の暮らしを垣間見たように思った。
判っていたさ、大変なんだってことくらい、でも思っていたより不自由そうで、特に食べ物なんか、いつもこんなものしか食べてないのか…。
来る度、俺が出してやるものを、言葉少なに平らげていたギンコ。彼にとっては、火を通したばかりの温かい食べ物が、きっととても嬉しいのだろう、と、そう思う。
それから化野は元通り引出を閉め、舟を漕いでるギンコの背に、着物を一枚掛けてやってから奔走す。
隣の家へ行って野菜を貰い、浜まで走ってって新鮮な魚を買い、昨日炊いた飯はあったが、それとは別に米をとぎ、火をおこし、魚を焼いて、根菜を煮て、飯を炊いて、漬物を切り、味噌汁は何にしようかと、首をひねって、裏の山へとまた走って行く。
山道で屈みこんで暫し目を凝らせば、枯葉を押し上げて伸び始めた山菜が見つかる。三つ葉とぜんまいが採れた。これを味噌汁に放せばいい香りがして美味い。
指を土だらけにして戻ると、ギンコは体を横に倒してまだ寝ていた。慌てて指を手ぬぐいで拭いて、音を立てないように、物入れから温かい掛布を取り出し、そっとギンコの背に掛ける。
無防備な寝顔が嬉しかったが、同時に疲れのたまったその顔が、可哀相だと思った。
「ギンコ、ゆっくり寝てろよ」
と、言った途端、その声が聞こえてしまったか、ぱちりとギンコの目が開く。
「あぁ…すまん、寝ちまってたか」
「い、いや、こっちこそ起こしちまって」
「……凄くいい匂いがする、飯と、焼き魚、煮物の匂いも」
「まだ作ってるから、も少し寝てていいぞ」
目を擦りながら身を起こし、ギンコは傍らに置かれたままの木箱を、部屋の隅へと押しやった。そんな仕草を見て、化野は忘れていたことを思い出す。
あー…。まだ開けてみてない引出も、あったのにな。折角の、覗き見の機会が。
自分で思ったことに自分で苦笑し、化野は台所へと入って行く。味噌汁を作ってやらねば。するとギンコが後ろに付いてきて、嬉しそうに鍋の蓋を取って、中を覗き見した。
「ご馳走だなぁ」
「おぅ、たんと食え。食って栄養つけてけ。いつもロクなもん、食ってないんだろ。干した魚だの肉だの飯だの、そんなのばかりで。あんまり古くなった野菜とか、食わずに捨てろよ。腹を壊すぞ」
「なんか…よく知ってるな」
ギンコがそう言うので、化野はちょっとぎくりとした。ぎくりとしたままの顔で、鍋の中身を掻き回す。
「ま、その…たんと食え。たんと、な!」
「味噌汁の鍋、ふいてるぞ」
「わっっ!」
夕餉の前に、化野邸の台所は賑わしい。会っては別れ、会っては別れる二人だけれど、離れる時のことは、今は忘れていよう。今は和みの時、安らぎの時。
終
080317
『拭かれてたまるか』
「先生、それでこないだ見てもらった足の腫れ、まだちょっとうちの子、痛がってて。あんまり出歩くなって言ってあるんだけど、あの子ったら今日も近所の子と…」
若い女が、子供の足の怪我のことで、化野に相談に来ている。ギンコは囲炉裏の傍に座り、体を横に向けてじっとしているが、火の方に向けてる頬が赤い。囲炉裏の火が勢いよく燃えているから、そこにいると熱いのだろう。
「うーん…。まぁ、もうだいたい治ってるから、出歩くくらいいいんだが、転んだりぶつけたりはしないようにと、念押しといた方がいいな。お前さんとこの子、元気余ってるからなぁ。いいことだよ」
「あぁ、そんならよかった」
「うん、塗り薬を一応、もう少し。…おい、ギンコ」
「ん、うんっ?」
声を掛けられて化野の方を見たギンコの顔は、もう逆側の頬まで真っ赤になって、見るからに熱そうだ。なんだってそう囲炉裏の傍にくっ付いているのか。
「も少し火から離れたらどうだ?」
「あ、うん、いや、今日は寒いからな」
「…あぁ…好きにすりゃいいが」
答えた言葉を聞いて、化野は何かに思い当たったらしい。ニヤリと笑って、それきりしつこく言うのをやめた。
「じゃあ、これ、塗り薬。痛みが続くようなら、もういっぺん見せにくるといい」
お世話になりまして、などと言い、ギンコの方へも頭を下げて、若い女は去って行く。ギンコは明らかにホッとした顔になり、やっと囲炉裏の傍から少しは離れた。けれども不自然な恰好で、火の方へ脚を伸ばしている。
「あのなぁ、気にし過ぎだぞ、ギンコ。かえって不自然だ」
化野が言うのへ、ギンコは眉間に皺寄せて、じろりと彼を睨むのだ。床に伸ばしたギンコの脚の下、囲炉裏の傍の板の間に、何か濡れたような跡がある。
「そんなもん、誰も気にせん。いや? もしかしたら気付いて丁寧に拭いてくれるかもしれんしな」
「…ふ、ふ…拭かれてたまるか…っ」
化野の視線に気付くと、ギンコはその板の上に手を載せて、彼の目からさえそれを隠した。手のひらの下の跡は、殆ど乾いているのだが、単なるギンコの錯覚で、まだぬるぬると生暖かく感じられる。
ほんの数分前、村の女が来る前に、ギンコはそこにうつ伏せに、化野に押さえ込まれていたのだった。それで逃げられず、後ろから脚の間に手を入れられ、不自由な姿勢で二度も放った。
もう済んでしまった性交の、その熱、その快楽、零れた声も涙も吐息も、全部が全部、あまりに生々しくて、直後に同じ場所に他人が来たりすると、ギンコは居たたまれない気分になる。化野はまったく気にならないようで、そんなギンコの様子を笑うのだ。
「なあ、そんなんなら、襖越しとか障子越しに、他人がいる場所でなんか、お前勃たないのか? そうなると試してみたくなるな」
「……絶交するぞ、化野」
怒気荒くギンコが言うので、化野は「冗談に決まってるだろう」と言ってさらに笑った。ギンコはまだ脚でその跡を隠しながらも、ほんの少し、化野から遠ざかるように身を引くのだった。
080304
終
『あたたかな手のひら』
明け方。いや、まだ夜半を回ったばかりかもしれない。化野はふと目を覚まして、暗がりの中にギンコの髪の白を見た。どうして目を覚ましたのかと言えば、布団の外に出していた右手の指が、なんだか妙に痒かったからだ。
なんだ、痒い…。いや、くすぐったい…?
だんだんと目が慣れてくる薄暗がりの、すぐ目の前で、ギンコの頭がもそもそと動いている。その動きと共に、指先に柔らかなものが触れて、それがさっきからくすぐったいのだった。見れば化野と一緒の布団に横になったまま、ギンコは薄く目を開けていて、首を動かしてちらりと彼の手を見ては、またもそりと、枕の上の頭をずらす。
…? 何、してんだ。
声をかけようかと一瞬思った。でも、ギンコは自分でもどこか訝しげな顔をして、どうやら化野の手のひらに、自分の頭を触れさせようとしているらしいのだ。化野は声をかけず、逆に気付かれないよう片目だけを薄く開けて、そのまま様子を窺ってみる。
そうするうち、ギンコの頭のてっぺんが、ちょうどうまい具合に化野の右の手のひらにおさまった、というか、化野がギンコの頭に手をのせたような恰好になったというか。
「ん」
よし、とでも言いたげな顔をして、ギンコはそのまま目を閉じた。そうしてすぐに寝息を立て始める。変なヤツだ。と、化野は思った。そりゃ、常から変わっているとは思っていたが、今日の行動は意味が判らない。俺の手のひらに、わざわざ頭を押し付けたりして。
変だぞ。なぁ、子供じゃあるまいし。あ…。
そうして化野はやっと思い出す。今日の昼間のことだ。野山を駆け回って遊んでいた子供らが、膝を擦り剥いたと言って、泣きそうな顔でやってきて、それを手当てしてやった時。
『よぉし、いい子だ、えらいな。泣かなかったな』
『このくらいっ、平気だもん』
『あー、ずるいっ、せんせい。あたしの頭もっ』
あたしも、おれも、と騒ぎ立てる子供らの頭を、苦笑いしながら一つずつ撫でてやる俺を、そういやお前、囲炉裏の傍から、黙ってぼんやり見ていたっけ。それにしても…まさかお前も、俺に頭を撫でてもらいたかったとか。そりゃないだろうよ。いい年をして。
思いながら化野は、ギンコの頭に触れている手を、彼を起こさないようにそろりと遠ざけた。…と、ギンコの頭は、それへ吸い寄せられるように、化野の方へと体ごと寄ってくる。
…あぁ、お前、もしかすると
子供のころの夢をでも…
不意に化野はそう思って、ギンコの頭をそうっと撫でてみた。いい子だな、と小声で優しく囁いてもみる。カクリ、と頷くようにして、ギンコの頭が小さく揺れた。途端に、甘いような切ないような感情が、化野の胸に満ちてきた。
柔らかい髪。まるで、幼い子供のそれのように。聞こえる寝息も穏やかで、本当に子供と添い寝しているみたいだ。あたたかくて、やさしくて、心がゆったりと安らぐような、不思議な心地がする。
いい子だ いい子だな
今度は指じゃなく、心がくすぐったいような思いをしながら、そう、微かに呟いて、化野はギンコの子供のときのことを考える。一度も聞いた事の無い、ギンコの子供時代は、どんなものだったのか、いつか聞くことがあるだろうか。
あぁ、次に来るときまでには、
誰かから子守唄でも教わっておくよ。
楽しみにしとけ、ギンコ。
お前は呆れるかもしれんがな。
閉め損じた雨戸の隙間から、明け方の光はまだ入ってこない。もう一眠りしようか。そう思って、化野もそっと目を閉じるのだった。
終
080218
… ちょいと一言 …
また再アップ作業を長らくサボってしまいました。すいません。
見てみたら、二年前のだよ。そしてまだまだ沢山ある。
今週と来週は蟲師週間なので、ここももう一ページくらい、
増やしたいと思ってます。ええ、有限実行で!
10/03/21