華蜻蛉 序
酷い風で、あまり目が開けられず、遠くが見えない。
ここには誰も居ない。自分だけしか、ここにはいない…。
「寒…ぃ…」
寒くて寒くて、凍え死にしそうだ。
なのに、体の一箇所だけは、さっきからずっと、熱を持ってる。とうとう…か。今にこうなるとは思ってた。それがなるべく春に近ければいいと願っていたが、まだ春は遠い。雪が消えるまで一月かかるだろう。
寒くて膝が震える。そこが熱くて体から力が抜ける。顔を上げて、吹き付ける雪に目を細め、粗末な小屋を見つけた時は、死なずに済んだ、と深い息を吐いた。
助けられるかどうか、まだ判らないが、ここで俺が死ねば、この蟲も死ぬ。それは酷く、嫌な気分のすることだ。
寒さで凍りついた小屋の扉に、体当たりして蹴飛ばして、散々狼藉を働いてから、やっと中に転がり込む。文字通り、土間に転がってそのまま意識が途切れそうになるのを、必死の思いで囲炉裏へと這う。
幸い、そこに乾いた薪は沢山あった。食べ物も米と干し肉が少し貯えてある。震える指で何とか囲炉裏に火を入れ、炎の色を見ながら、俺は息をついた。
「…まあ…な、俺一人だったら凍え死んでたかもしんねぇし。お前がいるから、頑張れた、てのも、あるな…」
どんなに凍えても、一箇所だけ熱いままなのは、ここ数日ずっと変わらない。理由は判ってる。そこに蟲がいるのだ。蟲の卵が、産み付けられている。
どさり、と横になって、頭や顔に巻き付けていた布を解くと、炎の熱さを顔に感じる。粉雪がくっついて凍っていた前髪が、ようやく溶けて、木の床に小さな水溜りが出来た。
喉を反らして、その小さな水溜りの水を舐める。雪と同じ匂いがして、少しばかり喉が潤う。体が温まると、着ているものが全部、ぐっしょり濡れているのに気付いた。
無理に起き上がって鍋を探し出し、その中に雪を放り込む。それを火にかけて湯を沸かす。体に貼り付いた服を、上から下まで全部脱いで、それから湯が温いうちに手を温める。
粗末な麻布が一枚見つかった。ごわごわだが、無いよりはマシだ。素肌にそれを巻き付けて、火の傍に座る。
「なあ、生きてるか…?」
誰も居ないのに、俺は呟く。それに答えた訳ではないだろうが、あの熱が、そこでほんのりと温度を増す。
「生きてる、みてぇだな。…ん…っ」
熱い。中に何か、熱く熱したものを押し付けているような感じだ。それがそこで、ほんの微かに動いて、俺は息を詰める。
浅い息を吐きながら、目を閉じて耳を澄ますと、風の音だけがゴウゴウと鳴っていた。もうあと、一月ちょっとで雪は消える。今のこの天気だって、風と、真冬の間に積もった雪が舞い上がっているだけで、新たな雪は殆ど降っていない。
雪が消えるまでに、なんとか取り出せれば…。土が見えるまでなんとか卵のまま生かして、それから芽吹く前のタンポポの種に、埋め込んでやれるかもしれない。そうすればこの蟲は死なずに済む。
華蜻蛉…。
元々は雪の消える季節、タンポポの種に卵を産み付ける蟲だ。それがどうした事でか、俺の体に卵が産み付けられていた。
今から二月前の暮れの頃、雪に混じって見かけた一匹の華蜻蛉を覚えている。すぐに見えなくなって、見間違いだったと思ったものを、それが自分の体に産卵していようとは。
「ぅ…う…ッ、ぁあ…」
体から麻布を解いて、柱に背中を寄りかけて、俺は囲炉裏の傍で、脚を広げる。人の来ない場所を見つけては、もう何度も繰り返してきたことだったが、手も指も、それをするのに躊躇して震えた。
広げた太腿のうちに、囲炉裏端の空気が熱い。まだ温まり切ってはいない自分の手のひらの感触に、俺は息を詰めた。それの根元から、恐る恐る指を這わせる。外から触れると、自然と中が収縮して、蟲の卵も、中で小さく反応するのだ。
「は…、ぁ、あぅ…!」
根元を片手の指で持ち上げ、もう一方の手で先端に触れる。口の部分に指先を乗せて、爪で無理にそこを広げるようにする。勝手に反り返る体を、なんとか前に屈めて、俺はそこをじっと眺めていた。
感覚だけでは、自分のそこが、今どうなっているのか、確かめられないからだ。こういうことには全然慣れてなくて、どうすればいいのかも、正直、さっぱり判らない。
ただ、こうすればそこが、ひくひくし出して、いつもは閉じてる口が段々と緩むのは判る。うまくやれば、そこから液が溢れて、多分、中はぬるぬるになる。
外に溢れる液の流れに押されて、少しでも卵が出口の方へ動いてくれれば…と、それを願っての行為だ。けして快楽を追う為じゃない。まして、あいつの手が、恋しいからじゃ、ない。
ふと思い出すと、俺の頭の中は、あの医者の事でいっぱいになった。触れている指が、そこを緩々と上下に扱く。
柱から背中がずれて、体が床にずり落ちて、冷たい床で俺は身をよじった。ひんやりとした感触が、最後にあの寝床で眠った、布団の冷たさを思い出させる。もう半年も前のことなのに、こんなにもはっきりと…。
「あ…、あだし…の…っ」
名前を呼ぶと、俺の体には、細かい震えが走った。そして指先に、僅かばかりの液の感触。あいつに布越しに触られて、激しく迸らせたあの時とは、全然違う。
仰向けにしていた体を横に寝かせて、ゆっくりと背中を丸め、俺は虚しいような、焦るような気持ちで、自分の手の中のそれを見る。
たった数滴だけ、精液を滴らせて、淫らに震えている自分自身…。その中の蟲の卵は、少しも位置を変えた様子がない。ただ、体に温い虚脱感を感じるだけ。
このままじゃ駄目だ。俺はこの蟲を、羽化させてやれずに死なせてしまう。俺じゃ、どうにも出来ない…。仕方ないんだ。だから…。
ここ数日、こんなふうにするたびに、脳裏で何度も繰り返してきた言葉を、また俺は繰り返す。
会いたいからじゃない。こんなことになってしまったから、仕方ないだろう。いや、会いたくない訳じゃないし、あの時の礼も、そういえば、言わずに来た。だから…だからだ…。
そうだろう。そうするしか、ないよな…?
パチリ、と囲炉裏の中で火がはぜた。その音と炎の揺らめきが、俺の考えを後押ししてくれている気がして、俺はそのまま目を閉じた。
朝。外の風の音は、昨夜より少しだけ静まったようだった。体の奥の蟲の卵も、今は微かに熱いだけだ。でも、夜になるとまた酷く熱くなって、そこで蠢いて俺を苦しめるんだろう。
乾いた服を着て、小屋にあった米と干し肉を分けて貰って飯にして、俺は木箱の中から、地図を取り出す。
指で何度も辿った跡が、もう見えてしまうほどなのに、その道を歩いたのは、前に来た時の一度きりだった。小屋の扉を開けて、遠くを望む。明るい日差しに負け、青い色は霞んでいたが、遠くに海が見えた。
西に見える山を越え、更に一つ谷を渡り、峠を越えればあの里。辿り着けば、あいつに何を頼むことになるのか、それを判っていて、それでも俺は行くのだ。
海の見える、あの里へと…。
続
06/10/15