慈雨に濡れる




 微かに雨の音がする。

 湿った空気が、まだ眠っているギンコの頬を撫でた。化野は彼の傍から起き上がり、立っていって雨戸を一度開いたのだが、その冷たい空気に気付くと、また雨戸を閉めてしまった。

 その物音にもギンコは目覚める様子はなく、長旅の疲れの深さを思わせる。

 夕べは布団の中で口づけをして、そのまま抱いて眠ったのだが、何故、そうしたのかは判らない。ただ、いつもと違ってほんの少しだけ、暗い面差しをしたギンコの様子が、化野に無理を許さなかったのかもしれなかった。

「ギンコ…」

 呼ばわるが返事はない。枕元に膝をついて、化野は彼の銀色の髪をそっと撫で、固く瞼の閉じられた顔を、ただじっと見つめた。


  *** *** ***


 目を覚まさずにギンコは夢を見ている。夢の中で彼は雨の音を聞き、その雨にけぶる風景の中で独りだった。

 白に溶けていこうとしている、薄藍色の明け方の空。その淡い色へ、斜め縦に線を引くように、雨粒が無数に落ちる。その雨が彼を濡らす。その髪を、その顔を。

 くすんだ草色の着物も濡れて、布地はもう一適も水を吸い込めずに、表面を雨水が流れていく。雫が流れる。その幼い頬の上を、まだ華奢なその首筋を。

 伝う雫は涙ではなく、降り注ぐ雨だというのに、泣くよりも切ない思いが、胸にひたひたと満ちている。彼を取り囲むようにして、薄青紫の花が、少年と同じ雨に、小さな花弁を濡らして震えていた。

「………」

 無言のまま、何故、と少年は問う。

 何故ここにいるの。何故一人なの。何処へ行けばいいの。いつまでここに居ればいいの。…いつも見えている、あの生き物たちは、何?

「………」

 誰か。

 無言で少年は呼んでいる。誰か、俺の手を引いて。行く道を教えて。生き方を教えて。何故、俺は何も持っていないの。

 雨の雫を浴びて、花弁が揺れる。雨の雫に濡れて、少年は震えている。

  *** *** ***

「ギンコ」

 名を呼ばれて、ギンコは薄っすらと目を開いた。

 開らけた視界に、夢と同じ花が見えて、反射的に寝返りを打つ。畳の上に裸足の足が見え、ギンコはその足を上へと辿るように見上げ、自分を見下している化野に気付いた。

「…あ、すまん、随分寝過ごしたか」
「いや、そうでもないが。何ならまだ寝ててもいい。用意した朝餉が冷めるが、それくらいかな、損失は」
「……あぁ、そうか…」

 まだぼんやりしているギンコに気付いて、化野はさらりと裾をさばいて傍らに膝を付く。

「具合が悪いわけじゃあるまいな?」
「別に…どこもなんとも」
「うん、それならいいが、まだ眠いなら、そのまま寝てても」
「…化野」

 名前を呼ばれて、化野は言葉を止める。

「んん?」
「庭の花、前からあったか…?」
「花? あぁ、紫陽花か。今、丁度盛りだからな、前からあるが、もしかしたら咲いてる時に来るのが初めてなんじゃないのか? 紫陽花がどうかしたのか」

 ギンコはまたゆっくりと逆に寝返りを打って、開け放たれた雨戸の外の紫陽花を見た。薄青紫の花は、緑の葉の上に乗せられてあるようにして、数えて十五も、咲いているだろうか。

 雨の雫が花弁で弾けるのを見て、またギンコは化野の方へと寝返りを打つ。

 不思議な心地がした。まるで心だけを夢の淵に沈めてあるように、夢の中の気持ちを引きずって、紫陽花の花が、少し怖いような気がする。そして同時にその花が、何かを教えてくれそうな。

 一瞬、脳裏に泥の色がよぎった。青い美しい紫陽花が、幾本も薙ぎ倒されて泥にまみれ、どしゃ降りの雨に打たれていた。

「ギンコ?」
「いや、何でもない。別に…何でも…」
「紫陽花が嫌いか。雨戸、閉めちまうか」
「…嫌いじゃない。ただ、雨に打たれてるのが…怖いだけだ」

 意味の判らない言葉を、咎めるでもなくいぶかしむでもなく、化野は立ち上がり、ギンコに背中を向ける。 

「待ってな、今、熱い茶を入れてきてやる。…っと…」

 不意に足を止めて、化野は立ったままでギンコを見下ろした。それから自分の足元を見て、困ったように苦笑する。

「どうしたんだ。…傍にいた方がいいのか? 少し、抱いててやろうか?」
「何言って…」

 化野の言葉に、ギンコは不審そうに眉を寄せ、それから自分の片手の指が、化野の着物の裾を掴んでいるのに気付いた。

「す、すまん…」

 慌てて指を離そうとするが、何故か指先が強張って、化野の着物を離すことが出来ない。慌てているギンコの様子を、どこか嬉しそうに笑んで見て、化野は手を伸ばし、ギンコの指を解かせた。

「謝らんでもいいが。裾だとちょっと具合が悪いから、こっちを掴んだらどうだ?」

 そう言いながら、着物の袖を持ち上げ、袂の端を握らせる。

「ガキじゃあるまいし」

 と、ギンコは言うのだが、そうして握らされた指が、また化野の袂から離れないのだ。

 もう一度、今度はかなり嬉しそうに化野は微笑む。袂を掴んだギンコのこぶしの上から、自分の手を重ねて包み、そのままギンコを囲炉裏の傍へと連れて行く。

「頼られるのも、悪くないもんだ」

 そんな事を言って、今度は囲炉裏の傍に座り、用意されていた急須に湯を注ぎ、温かな白湯を茶碗に入れた。白い湯気が、濃く立ち上って、雨降りの今朝の寒さが判る。

 畳の上に茶碗を置いて、化野は自分の斜め後ろにいるギンコを振り向いた。袂を取られて不自由な左手は、床の上についたまま、体を捻ってもう一方の手でギンコの髪に触れ、そのまま引き寄せて唇を重ねた。

 ギンコは髪をなでられながら、いつになく抵抗もせずに唇を吸われている。

「まだあの花が怖いか? 見えない部屋へ行こうか」

 間近で顔を覗き込んだまま、化野は静かに問い掛ける。ギンコは化野の肩越しに、ちらりと青い花を見て、それから細く息を付き、その時の心のままに呟いた。

「お前が傍にいれば、少しは平気だ」

 それからちょっと頬を染めて、ギンコは化野の袂を掴んだままの自分の手元を項垂れて眺める。

「なんで、さっきから、そんな嬉しそうにしてんだよ」

 問い掛けられ、化野は自分の心にその疑問を投げ掛けてから、答えを得て、三たび微笑んだ。ギンコの頭を、子供にそうするような仕草でぐりぐりと撫で、彼は歯を見せて楽しげな顔をする。

「お前の子供の頃の姿を見るようで、それが嬉しい」

 言われたギンコは顔を真っ赤にして、無理やり化野の袂から手を離す。逃げられる前に、化野は両腕の中にギンコを捕まえ、耳元に唇を付けて囁くのだ。

「なぁ、やっぱりあっちの部屋へ行こうか。ここじゃぁ、誰か来た時に見えるしな」
「ば、馬鹿…っ」

 *** *** ***

 
 疲れていて体は酷くだるいのに、着物を羽織った身を起こして、縁側からギンコは庭の花を見ていた。化野は今、彼の為に風呂に湯を沸かしに行っている。

 ギンコの視線の先で、雨の雫に揺らされて、紫陽花の小さな花弁は震えるように揺れ続けていた。


 長雨が嫌いだ。雨を含んで濡れた土が、泥状に流れ出すようで、昔からそれが恐ろしい。崩れたその泥が、何か大切なものを押し流して、奪い取っていくような気がするのは、きっと、過去に何かあったのだろう。
 
 霧雨になった雨の雫が、紫陽花を打っている。細かい雫が当たるたび、そうしてそこから一滴が滴るたびに、薄青紫の花弁が揺れている。

 着物の前を掻き合わせ、同時に裾を少し持ち上げ、ギンコは雨ざらしの下駄を突っかけて庭へ出た。開いている片手を伸ばして、濡れた花弁を指で摘む。

 摘んだ指には、濡れた花弁の感触と同時に、化野の袂の柔らかな感触がある気がした。

「綺麗だろう、ギンコ」

 振り向くと、縁側に立った化野が、ギンコに笑いかけていた。下駄を取られ、外に出て行く事は出来ないで、手にした唐傘を差し出している。

「ああ、そうだな」

 ギンコは化野の傍までいって、カラリと広げられた傘の下に入った。雨は遮られ、ただそれだけだというのに、化野の差し出す傘の下は、酷く温かい心地がした。

「綺麗だ」

 紫陽花に降り注ぐ、その雨の優しさが、ギンコの心にも染みて行くようだった。


                                  終









 なんか表現力が足りなくて、悔しい思いをしております惑い星ですが…。

 このノベルは、綺麗で雰囲気があって、ひと目でギンコさんの悲しさや切なさや痛みが、胸に飛び込んでくるような、そんな素敵なイラストを見て書きました! 茉莉さまに頂いたイラストに、私が我が侭を言いまして、ノベルを書かせていただいたのですよーーーーーっっ。

 イラストはギフトページにございます。探してみてくださいませ。紫陽花、綺麗ですよね。そして雨の雫のなんて冷たそうに思えることか。そして何処か淡々としていながら、幼少時のギンコさんの、この心細げな姿。あぁ、この瞬間にここに先生を引っ張っていって、彼を抱き締めてあげて欲しい…。

 さて、ノベルの中のギンコさんの思いが、いったいいつのものなのか、彼は記憶を失くしているので、その辺定かではありません。じんわりぼんやり捉えてやって下さいまし。

 茉莉さま、本当にありがとうございました。このノベル、捧げさせていただきたいです。茉莉様のイラストは、いつも惑い星の創作意欲の源でございますよ。ぺこり。


07/08/17