小さな「ぎんこ」




 それは、月明かりが酷く眩しい夜だった。遅い夕飯を食べ、珍しく酒など飲んで喉を潤し、化野はぷらりと表へ出たのだ。月明かりに誘われたのかもしれない。それとも何か予感でもあったのかもしれない。

 木々の間から、海を見下ろす小道を、酔い冷ましにふらふらと歩く。それほど飲んでもいなかったし、酔ってなどいなかった筈なのだが、妙にギンコのことを思い出し、その顔が目の前にちらついた。

 それはやはり、少しは酔っているという事なのだろうか。そろそろ来る頃だと思いかけ、そう思うほど辛いのだと思い出して、化野は軽く首を横に振る。

 と、その時、化野はふと、視界の端に白いものを見て足を止めた。海の見えるのとは逆のしげみの中、何かが動いたような気がして、そちらへと向き治り、道を逸れた草の向こうに目を凝らす。

「何か、いるのか?」

 やはり何かが見える。丁度、月の明かりがあたる場所に、白っぽい何か、いや、よく見ると灰色の何かが微かに動いていた。

「…あぁ…お前、怪我してるのか。そうなんだな?」

 優しげに目を細めて、化野は道の端に膝をついた。身を屈め、しげみの隙間からそっとそっちの方を眺めて、その手をそっと差し伸べる。

「怖がらなくていいぞ。どうした? キツネか何かにやられたか? ウサ公、どこを怪我してる…?」

 しげみの向こうに蹲っているのは、小さなウサギだった。踵の辺りに赤い色が少し見えるので、どうやら怪我をしていると判る。

 長々と外にいるには、寒い季節なのだが、化野はそんなことには構わず、その場所に膝をついて、ゆっくりとそのウサギに話しかけた。手当てしてやりたいと思うのだが、急いては可哀相だ。

 キツネか、それともフクロウにでも襲われたのだろうから、今だってきっと、酷く怯えているのに違いない。

「ウサ公、お前、まだ子供だな…? 見たとこそれほど酷い怪我じゃなさそうだし、少しの手当てと安静で元気になれるぞ。…そっちへ行っていいか?」
 
 言いながらそろりと足を踏み出すと、小さなウサギはしげみの中で竦み上がる。化野は長期戦を覚悟して、冷たい土の地面に胡坐をかいて座りこんでしまった。

 彼はまるで、人に話し掛けるように言うのだ。

 
「俺はこの里で唯一の医者でな…。
 だから里の中で誰かが怪我してたりすると、それは俺が治さなくちゃいかん、と思うんだよ。
 そりゃあ、お前、俺はケモノ専門の医者じゃないがね。
 それでもこの里に住むものや、この里に来た怪我人や病人は俺が治さなきゃな、って思ってるわけだ。
 あぁ、そういや、お前、あいつみたいだな」


 ふと思いついて、化野は苦笑する。

 白い髪して、足の怪我で動けなくなってた、あいつ。


「ぎんこ。なぁ、ぎんこ。怖がらなくていい。
 何も怖くないから、な? 今からそっちへ行くが、逃げないでくれよ。
 ほら、怖くないから。さぁ、こっちへお出で」


 そうして化野はその日、ふわふわと柔らかくて、酷く小さなその患者を拾った。彼は胸の中に「ぎんこ」を抱いて、優しく腕で包んで、家へと連れ帰ってきたのだった。


 *** *** ***


「おおぃ、あだし…」

 開け放ってある縁側から中を覗き込み、ギンコは不意に言葉を切った。奥の部屋に布団が敷いてあり、そこで化野が眠っているのが見えたからだ。

 どうしてだろう、と思った。今は朝方だが、眠っているような早い時間じゃない。

 病気だろうか、怪我だろうか。医家だってそういうこともあるだろう。そうでなければ、病人や怪我人がたまたま重なって、酷く疲れてこんな時間に寝入っているのか。

 理由がどれだったにしても、気軽に起こしていいとは思えなくて、ギンコは物音を立てないように、縁側からそろりと上がり込み、化野の顔を上から覗き込んだ。

「……ん?」

 何かが見えた。背中を丸めるようにして目を閉じている化野の、その顔の傍に、布団からはみ出た白い…いや、幾分、灰色っぽい色をした丸いもの。よく見るとそれは生き物のようで、呼吸に体が緩やかに上下している。

 ウサギ…?

 半分だけ見える丸い部分は、恐らくはウサギの背中。耳や頭は見えないが、灰色のその毛並みを見ただけで、ここいらの山に住んでいる野ウサギだと判る。

 なるほど、つまりは患者だな。

 そう思った。怪我をしたのを拾って世話しているんだろう。何とも化野らしい振る舞いだ。

 引き続き、音を立てないように気を遣いながら、ギンコは木箱をそっと下ろし、化野の布団の傍らで、静かに荷物の整理をし始めた。化野は中々目を覚まさない。ウサギも同様。

 耳を澄ませると、二種類の寝息が聞こえていて、聞いているとギンコまで眠くなってきそうだ。それから小半刻ばかり、そのままで過ごしていたギンコの耳に、化野の声が聞こえた。

「ん、ぎんこ…。おはよう。もうとっくに朝みたいだぞ」

 ギンコへは背中を向けたまま、化野はそう呟くのだ。それから少し身を起き上らせて、ウサギへと顔を寄せ、その鼻先に唇を付けながら、とろけるように優しい声で。

「腹減ってないか? そろそろお前、歩けるんだから、庭に出て草を食べて来いよな。それとも、まだ抱いてってやらなきゃ駄目か、ん? ぎんこ」
「……俺は庭の草なんか食べないぞ」

 思わず口を挟んでしまった。その甘い言い方や言葉を聞いているのが、酷くくすぐったくて、もう黙って聞いていられなかったのだが。

 ギンコがそう言った途端、化野はぎくりと身を竦ませて、それから変にゆっくりと振り向いた。強張った顔が、見る間に真っ赤になっていく様子は笑えたが、自分の顔も微妙に赤らんでいるのが判っていたので、何も言えはしない。

「あ、いや、こ…これは…っ、怪我…」
「怪我したウサギを保護したんだろう、そのくらい判る」
「こいつ、あ、足を…っ」
「足を怪我して転がり込んできたから、俺みたいだって思って、そう呼んでたってか?」
「…う、うん、まぁ、そ、そうなんだ」

 顔を赤らめたままで、化野は経緯を話し始める。それは全部、事実のなのだろうが、呼び名が呼び名なので、ギンコの耳には、やたらとくすぐったい。

「ぎんこは白灰色の綺麗な毛並みだし、お前も白い髪だろう。ぴったりだと思ったんだよ。呼ばれると耳を揺らす仕草なんかが可愛いんだ。俺にすっかり懐いて、夜は一緒じゃないと、淋しがって寝ないんだよな。なぁ、ぎんこ」
「…懐かれて、そりゃ結構なこったが、いつか山に帰すんだろう。あんまり人慣れさせんのはかえって酷だぞ、化野」

 化野だって、そんなことは判っている筈だ。そう思っているのに、ついギンコは言った。それが詰まらない嫉妬の混じった感情だと、心の何処かで気付いているから、なお言葉に棘が混じる。

「うん…そうだな。お前の言う通りだよ」

 少し淋しそうにそう言って、化野はウサギをそうっと抱えあげ、自分の膝からギンコの膝の上へと移す。ウサギを渡されたギンコは、その優しい手触りを手のひらで感じながら、項垂れていた。

 真っ当な事を言っているような顔でいて、本当はこんな小さなウサギにまで嫉妬して、愚かだとは思うけれど、それでも仕方ない。このウサギには今、化野しかいないのかもしれないが、それは、自分だって同じだ。

 年に数回だけの逢瀬を、どうして、なんで、どうやったら、平気で別のヤツに譲れるだろう。いつもの言葉で、よく来たな、と、今日は言い忘れている化野に、実は、腹を立ててしまっているのに。

「すまん、言い遅れた」

 項垂れているギンコの耳に、欲しかった言葉が降ってきた。それは、いつも以上に嬉しい言葉がそえられた歓迎の声。

「よく来たな、ギンコ。酷く、お前に会いたかったよ。それこそ、そいつにお前の名を付けて、毎日毎日話し掛けて、毎晩、添い寝しなきゃならんほど、会いたかった…」
「…い、言ってろ…っ」

 そんな事を言われたら、しばらく顔も上げられない。ウサギの背中ばかりを見つめ続けるギンコを、化野は強引に上向かせ、貪るようにその唇を塞ぐのだった。

 
 その夜は、体を重ねる事はしなかった。

 仔ウサギのぎんこを間に置いて、二つくっ付けた布団に、それぞれで横になり、指先だけを繋いで寝た。子供のママゴトのようなその仕草が酷く温かくて、翌朝、二人と一匹は、随分と遅くまで、惰眠を貪っていたのだった。



                                      終













 私には凄く珍しい話なんじゃないかと思うんです。こういう、なんてーか、可愛らしいストーリーって。

 でも、先生が甘い声で「ぎんこ」「ぎんこ」言ってるのを聞いて、ギンコさんが恥ずかしがってるのは、可愛くていいなって思いました。照れてる先生も可愛いので、この二人はつまり、可愛いカップル。

 けど、いつもは切なく痛くて悲しいのばかり書いているので、たまには温まってくるようなのを…。とか言っちゃって〜。実はこのノベルは、案山子亭さまからのキリリク「ほっこりとした化野×ギンコ」でしたー♪

 普段は書かない話をかけて、とても楽しかったです。なんかあっさり終わってしまったし、これが本当に「ほっこり」っていうのか判りませんが、案山子亭様に捧げますっ。

 案山子亭さま、いつもご贔屓、ありがとうございます〜。ぺこり。


07/05/03