振り子の時計










かち こち
   かち こち


 化野は文机に両肘を付き、じっと目を閉じて、その音を聞いていた。時計の音だ。ずっと前に手に入れて、けれど今日まで、一度も動くことのなかった時計である。

 振り子時計、というものらしい。異国から渡ってきたのだと聞いていた。壊れていたが、細かな装飾や形などとても美しく、動かなくても構わないからと、馴染みの商人から買ったのは随分以前。それが、今は不思議と動いている。

 ひと月ほど前、蔵でこれを久々に手にとり、うっかり落として、何処か欠けはしなかったかと、部屋に持ってきて子細に調べ、どうやら無事だと、部屋の棚の上の、隅に置き。

 そうして、気付いたのはついさっきだ。小さな小さな、だけれどはっきりとした規則的な音が、この時計から聞こえていた。

「落としたせいで、なおったってことか? 今頃になって」

化野は頬杖ついてた肘を崩し、片頬を文机の上にのせて、うっすらと目をあける。目の前に置かれた時計の、下半分。絡み付く蔦の姿を彫り込んだ、見事な飾りの奥に、振り子が忙しく揺れていた。それを暫し見ていた化野の唇が、言葉を紡ぐ。

「…見に来い、ギンコ」

 ぽつりと呟くのは、ここには居ない友の名前。

 前に見せたろう? 動かない時計に幾ら出したんだって、お前、たいそう呆れてたろうが。それが動いたんだ。今ならちゃんと動いているから、見に来い、早く。もう春だぞ。随分前から、春は来ているぞ。

かち こち
   かち こち

 時計は振り子の音を鳴らす。そして、針の動く音も。けれど、何処にいるとも知れないギンコの返事は、聞こえやしない。化野はもう一度目を閉じて、そのまま深い眠りに落ちた。春が来てから、ずっとよく眠れない夜を数えて、久しぶりの深い眠りだった。

 早く、見に来い、ギンコ…。



 

 ギンコは白い靄の中、小舟の上で仰臥して、ぼんやりと夜空を見上げている。散りばめられた星が、何かに耐えるように、ふるりと震えた。見たことのない星の並びだった。

 あぁ、また星達が動く。

 時計の針が、ひと目盛り進むように。

 小さく、カチリ、と。

 見届けてから、ギンコはそうっと、そうっと目を閉じる。眠るのだ。夢を見るのが、もうずっと楽しみだ。ここにいる間はそれしか無いから。真上に在るのは、白くて、ちかちかとやけに元気に光る星たち。

 夢はすぐに訪れて、厚い幕の向こうから聞こえるような、少しくぐもった声が聞こえてくる。

『……は、化野という。

 ここら一帯で一件だけの医家だが、

 腕は信用してくれていい』

 こいつはまた懐かしい「お前」だな。ギンコは目を閉じたまま、薄く笑んだ。夢と言っても、現実にあったことをなぞっているのだ。どれだけ前の、ことだったか。

 つきりと膝が痛むのは、あの頃のことを夢に見ているからだろう。本当に痛いわけじゃなく、幻みたいなものだ。一度は骨の外れた膝は、腕のいい医家先生に診て貰って、どんなに寒い夜にも、長雨の続く時にも、酷く痛んだことはない。

 まるで治療の報酬を欲しがるように、あの男は言ったものだった。奇妙なヤツだよ。まったく。


『なぁ……。
 一晩、一つきりでいいから、
 話してくれるか? 
 何か…蟲の話』
 

    …ああ… いいよ


『じゃあ、
 きれいなのがいい』


 夢を見ながら、くすり、ギンコは笑う。何を言っているんだか、医家の癖に。蟲の話は命の話だ、どれだってきれいさ。現にお前はいつだって、どんな話だって、目を輝かせて聞いただろう…?

 長い夢を見ているギンコの真上で、星天井がそろそろ回る。そういう気配がするよ。これは蟲の、気配だ。じっと閉じていた瞼を開けると、映るのはやっぱり星。舟の周りには、こんなにも靄が立ち込めているのに、空だけが見えるのは酷く不思議だ。

 …カ チリ。

 止まっていた見知らぬ星座が、

 今また動いた。

 此処は現ではない。蟲の世界とも違っている。その境目に在る、不思議な場所。

 ここへ来てから、いったいどれだけが経っただろう。腹は減らない、疲れもしない、肌に触れている空気が、ひいやりとしてもいず、あつくもなくて、その中にいる自分ごと、ほろりと今にほどけて消えそうに思う。

 消えてくれるな。
 どうか。
 急ぎやしねぇが、
 いつかは向こうに、
 戻りてぇ。

 ギンコはまた目を閉じる。眠るか、ぼんやりしながら起きていることしか出来ない、この空間で。波音のしない波と、濃く白い靄に抱かれ、一面の星に覆われて。





かち こち
   かち こち

 振り子の音を聞きながら、眠る化野が見ているのは、白い、白い夢だった。

 数歩先はもう何も見えないような靄に包まれて、恐らく其処は深い山の中。途方に暮れて、立ち竦んだまま見回しても、立ち並ぶ樹が、うっすらと幻のように見えるばかり。

 どちらへ向けて歩いても、居場所が少しも変わっていない気がしてくる。それほどの濃い白の中を長い時間彷徨い、どれだけ経った頃だろう。ふと、子供が歩いているのに気付いた。

 こんなところに一人でいる筈の無い、まだ幼い子供。傍には誰も居ないから、親とはぐれたのか? 迷子なのか?    

「待て。お前さん、どうした? ひとりか…?」

 近付こうとしながら話しかけたが、こちらを見たその子の姿が、どうしてもよく見えない。見知らぬ子供だとは思ったが、濃い靄のせいで、顔も体も、輪郭がぼんやりと霞んでいる。

 それでも子供はこちらに気付いたし、不安げにしているのは分るから、もっと近付こうとして、白い中を化野は歩く。

「どうしてお前は、こんなところに? 連れはいないのか? 怖くはないぞ、こっちにお出で」

 けれど、子供は後ずさり、化野から遠ざかる方向に歩き出す。こんな視界の悪い中、そんなふうに急いで歩いたりして、崖か何かがあったらどうするのかと、化野は焦った。

「ま、待ってくれ。そんなに歩いては危ないぞ。お出で、俺と一緒にいよう」

 追い駆けては怖がらせるだけかと、足を止め、身を屈めた。なるべく優しい顔をして見せて、見つめながら笑って見せたら、漸く子供は逃げるのをやめた。

「…いい子だ。お前さん、名前は?」

 尋ねると、消え入りそうな声が言う。

「なまえ、しらない」
「知らない? お前の名だぞ? 知らないわけがなかろう?」
「…おぼえてない。なまえも、なんにも」

 子供の声が、途中で揺らいだ。化野は困り果てて、自分の急いた問いを悔いた。

「…泣くな。悪かった」
「………」
「責めたんじゃないんだ。許してくれ。なぁ」
「……」

「俺のことが怖いか? 何もしない。傍に居させて欲しいだけだ。怖がらないでくれよ」

 子供は時間を掛けて、やっと化野が近寄るのを許した。手を伸ばし、腕をそっと掴んで、静かに引き寄せ、小さな体を抱いてやると、瞬間固く強張った両肩が、それでもゆっくりゆっくりと、緊張を解いていく。

「ありがとうよ」

 化野は言った。抱くほど近付いたのに、まだぼんやりとした姿のまま、顔がはっきり分からない子供を腕に包みながら、その小さな肩に額をのせて。

「ありがとう、此処が何処かもわからなくて、俺も本当は不安だったんだ。誰かと一緒に居たかったんだよ。ありがとう…」

 そうしたら、子供が言ったのだ。抱かれたままで、じっとしながら、化野の頭に自分の頭を寄り掛けて。

「ここは、さかいめ」
「え? ど、どういう意味だ?」
「ゆめ、と、むこう、の…」

 その時になって、化野は違和感に気付いた。腕の中に居るのに輪郭が朧な子供。靄の立ち込めるこの場所に、どうして自分がいるのかも、考えてみたら分らない。そしてたった今「夢」と言われたことに気付く。

「ゆ、夢。これは夢なのか? 向こう、って?」

 ごくり、化野は息を飲んだ。向こう、というのはもしや。もしや俺は今、蟲に、関わっているのではないのか。

「お前は、ヒトでは、ないのか…?」

 抱いた腕を緩めて尋ねると、子供は頭をふるふると揺らし、わからないのだと示す。そして腕の中からもがき出て、化野の顔をじっと見つめた。

「…しらない。ただ、かえりたい、だけ」

 小さな手のひらが化野の頬に触れ、子供は顔を近寄せてくる。額と額が触れるほど近付いて、覗き込んでくるのだ。こちらの目を、逸らさずにじっと…。揺れるその目が、黒、ではないことに、化野は漸く気付く。

「帰る、って、何処…に」
「みんなのいる、ところに」

 ふわり、と。朧だった子供の姿が、もっと朧になった。声さえ霧散するように、ぼんやりと広がって…。その白い姿も、あまりに美しい、翠の、瞳も…。

 みつけた みんな
 ここに いた …

 と、消える前に、子供は、言ったようだった。



 

 そもそも、此処は、どこなのか。今が現か夢なのかも、分からなくなるような時間の中で、ギンコは考えていた。またきっとすぐ、おぼろに霞んでしまうから、考えるのなら急がなくては。

 此処は舟の上で、舟は海の上。それが現実のことなら、俺はどこから舟に乗ったのか…。

 船頭はいいのかい?

 ふいに頭の中に、そんな声が響いた。誰の声だった? 差し出される櫂が見える。浜でゆらゆらと揺れる無人の小舟も。

     あぁ、三日四日、借りていいなら。

 そうさな、あんたは馴染みだしなぁ。   

     戻ってきたら、ここで返すよ。

 おうよ。気ぃ付けてな。

 そんなやりとりで、特別安くして貰った借り賃を払い、櫂を受け取ったのを覚えている。潮の香りと波の音も。古びた舟が、きしきしと軋んだことも。

 見な。
 沖の方が随分白い。
 きっと、靄が出てんのさ。
 春にゃあ、
 よくあるこったけどなぁ…。
 
 そんな言葉を背に、舟を押されて、そのまま沖へと臨み。顔見知りの漁師の言葉の通りの、真っ白い靄に包まれた。気付いたら、風は絶え波は消え、舟は何かに阻まれるようにぴたりと止まり、何をしようと、一向に動かなくなってしまっていたのだ。

「そうだ、俺は、あいつのところへ、行くんだったか…」

 声に出してそう言えば、その声の響きが届いたように、頭上の星が、震える。蟲の気配にすっぽりと包まれているのも、はっきりと分かった。蟲達は随分と群れていて、なのに何処か不安定なような、音無き蟲の、ざわめきを感じる。

 見上げる頭上の、藍の色。本当の夜空とは違うその澄んだ色に、ギンコはやっと気付いた。これは空の色でない。これは蟲が、空一面に群れて眠っていて、だからこの色なのだ。そしてこの色を、ギンコは見たことがあった。

 そう、いつぞや蔵で、見せて貰ったあの品。物好きなあいつの買った、異国の品だという時計だ。蔦の絡み付いた形を、美しく細かく彫り込んだ、その飾りの奥。振り子を止めていたのは、其処に囚われたまま仮死となった、一匹の蟲だったのだ。

 藍色に透き通った、美しい姿だったのを覚えている。その内側に星雲を沈めてあるようで、暫し見惚れて、怪訝な顔をした化野を誤魔化そうと、からかったのを覚えてる。

 とんだ物好きもいたもんだぜ。
 こんな動きもしない時計に、
 いったいどんだけ大枚はたいたのやら。

 だけど随分古い品のようだから。
 振り子を止めて、少し休みたいかもな。
 この蔵で、暫し眠らせてやっちゃどうだい。

 そうすりゃぁ機嫌をなおして、
 いつかは動いてくれるかも。

 あの時、あの時計で眠っていた蟲と、同じ蟲の群。間違いはない。同じ気配だ。そして目を奪うような、綺羅と輝く星雲を抱くような、美しいその姿。

 ギンコは舟底に横たわったまま、片腕を空へと伸べて言った。

「目を覚ませ。そして回れ、巡れ。呼んでやれよ。お前たちの仲間の居場所を、俺は知ってる。教えてやるから、迎えてやってくれ」

 わざとか、偶然か、ヒトが捕えて眠らせた。
 すまなかった、と、俺でよけりゃぁ、詫びるから。

 星たちは…。いや、蟲の群は、震えた。鼓動するように、震えて、そうして今、動き出す。カチリと小さく、などではない。今までのそれと比べたら、目の周るように大きくはっきり。

 そして、時は動く。彼が囚われた少し後の時間まで。本当に目が周りそうで、ギンコは瞼を伏せた。夢なのか、記憶の一部なのか分からなかったけれど、何かが見えてくる。海辺の里の、そこら一帯で一件のみだという、医家の家。

 彼は随分変わり者で、蟲師なんて言う、奇妙な生業の見知らぬ相手にまで、親身になって怪我の治療をし、やがてはその男に、もっと心を傾けた。そんな稀有な男だった

 名を、化野、と。

『…お前自身の話が、俺は聞きたい』

 また、聞こえてきた声に、ギンコは目を閉じたままで笑む。頬笑まずに居られなかった。

 俺自身の話を、聞きたいなんてな、化野。
 お前は最初の最初から、こっちが困っちまうぐらい、
 いつも真っ直ぐだったっけ。でもなぁ…。でも…。

 俺は 蟲を寄せる から
 俺は ギンコ だから

 だから、そう何度もは、会いにはいけない筈だったのに、気付けばこんな、塩梅だ。

 しょうがねぇ、お前は厄介なヤツだから。見えねぇくせに、お好みの珍品、古物、珍奇な品々の中に、こうやって、俺が行かにゃあしょうもないもんを、しょっちゅう、しょっちゅう混ぜてきやがる。

 目を閉じたまま、ギンコは波を感じていた。いつ振りだろう。この舟が動くのは。蟲の時間の中どれだけ囚われていたか、知りようがない。舟は今、波に押されて進んでいるのだ。蟲の気配は薄れていき、そこからもう、ギンコは抜け出せるのだろう。

 おそるおそる目を開けると、靄はゆっくり晴れていき、空の一面薄青い、真昼の色が広がっていくところだった。





 がちゃん。

 大きな音がして、化野は目を覚ましていた。焦って見てみれば、文机の向こう側に、例の振り子時計が落ちて転がっていた。急いで手を伸ばし、拾い上げるも、中の振り子が外れて、内側でからからと悲しい音がする。

「しまった。うわ、これは…。直せるだろうか」

 肩を落としてしょげ返り。胡坐をかいた膝の内に、両手で包んだその時計を持って、残念そうに化野はそれを眺める。

「あぁあ、せっかく、動いてるのをあいつに見せたかったのに」

「あいつ? あいつって、俺のことか?」

 すぐ傍の縁側から声がして、化野は驚いて顔をあげた。まずは木箱が見え、その向こうに体を伸べ、片方の肘立てて、その手のひらで頭を支えている、そんな姿の彼が見えた。

「ギ、ギンコ…!」

「おぅ、来たぞ。来たのはもう半刻も前だけどな。その時計の振り子が動いているのを見てから、今まで、寝てた」

 身を起こし、ギンコは目をしょぼしょぼさせながら、木箱を手元に引き寄せる。化野は膝と手との間に、動かない振り子時計を大事に置いたままで、嬉しげにギンコに尋ねた。

「何かいい土産があるのか?」
「そうさなぁ、土産話ぐらいなら、無くはねぇかな」
「ほう、それはいったい、どんな」 

 身を乗り出しながら、化野の中に一瞬何かが過った。それは、長い夢の中で共に居た、小さな子供の姿だった。白くぼんやりとしか見えなかったその姿は、何処かの誰かに似ていたのだ。

 何処もかしこも白っぽく、頭までも白かった子供。そして最後、消えてしまう瞬間に、化野の目を覗き込んだ瞳の、びっくりするような、翠の色。あれは…。

「ギンコ、お前」
「ん? どうした、そんな顔して」
「俺の夢に、来ていたか?」
「…さて、ねぇ、どうだったか。俺も何か見ていたようだったが、夢は昔から、よく覚えてない性分なんだ、残念ながら」

 ギンコは少し目を伏せて、脳裏に広がっている美しい蟲の藍色を思い浮かべた。その話をするかどうか、迷いながらいつもの煙草に火を灯す。まぁ、いい、言うか言うまいか、ゆっくり決めりゃぁ。

「俺の話は、今、いいさ。今日はお前の話から聞かせてくれよ。見てたっていう夢の話でもいいが、たまには里の話でもいい。他愛のないことでも、なんでも」

 今じゃあもう、すっかりお前の里になったこの里。俺のことも、よくくる馴染みの顔だって、みんなみんな、思ってくれるこの里のこと。ギンコは片膝に手を置いて、過去にこの里で癒したその膝を撫でながら。

 濃い靄のように白い煙草の煙を、ゆらり、吐く。白い煙は、上へ上へと立ち上り、やがて薄れて掻き消えた。


 かち こち 


 何処からか、振り子の音がする。時計は壊れて、振り子は取れて、もう何の音もしていなかったが、それでも何処からか、時の動く音。いつ、何が止まろうと、時だけは止まることがない。そのことを誰にともなく教えるように、小さくこそりと、鳴り響く。



 かち こち かち …







  












 本日2016年2月26日は、当サイト「LEAVES」の十周年にあたります。これまで続いてこれたのも、このサイトに来て下さり、作品を読んで下さった方々のお蔭、そして声を掛けて下さり、支えて下さった方たちのお蔭でございます。本当にありがとうございます。

 他ジャンルもありますが「LEAVES」のメインジャンルは言わずと知れた蟲師。このサイトの歩みは、私、惑い星が蟲師を愛してきた道程でもあります。大袈裟なようですが、誰がなんと言おうとそうなのです! 蟲師万歳! 蟲師永遠なれ!!

 というわけで、今日は記念日ですので、このお話を飾らせて頂きました。一週間ほど前から構想を練り、三日で書き上げた突貫工事ですが、たっぷりの愛は込めました、です!

 さて、と、これからタイトルを決めたいと思います(なんて私らしいぃぃぃ…)。そしてアップ作業も…。 

 挨拶が長くなってしまいましたが、お読み頂いた方、本当にありがとうございます。どうぞこれからも「LEAVES」をよろしくお願いします。まだまだずっと続けて行きたい所存でございますゆえねv

 あ、本日付でつらつらと今の想いを綴ったブログも書きましたので、よかったら見に行って下さいまし〜。



2016年2月26日
「LEAVES」
10周年記念

感謝を込めて。

惑い星