『 夜 の 指 』


 蛭魔は開いたドアから体を滑り込ませ、抱えていた銃と鞄を部屋の隅に放り出した。机の上のパソコンのパワーをオンにして、機械的な起動音を聞きながら、シャワーを浴びに行く。

 そうして彼は数分後、何一つ身に纏わない格好で部屋に戻り、自らの体も、ベットの上へと放り出した。

 スプリングを軋らせて、数回揺れたうつ伏せの背中が、一見して酷く華奢で細い。首を横に向けて、パソコンのディスプレイに映し出される文字や色を、彼はぼんやりと眺めていた。

 冷えたシャワーを浴びても、彼の白い首筋には、熱が残っている。その下の血管が脈打つ音が、耳に聞こえるような気がする…。

「糞奴隷が…」

 吐き捨てた言葉は、彼自身が葉柱につけた酷い呼び名で、口にするとあの顔が脳裏に浮かぶ。

 つい数分前、その奴隷と唇を重ねた。苛立った目をして「もう奴隷なんざやってらんねぇ」と、自分の胸倉を掴みあげた葉柱を、視線と言葉で誘って、蛭魔の方からそうさせたのだ。

 糸のついた人形を操るように、蛭魔がそうと望んだ通り、葉柱は彼にキスをして、奴隷以上の深みに堕ちていった。すべて予定通り。そうと望んだまま。奴隷は主人の願いを聞いて、屈辱にまみれながら、罠の中でもがく。

「…くっきり跡、付けやがって」

 タートルネックの服を着ても、隠せないような場所に付けられた、濃厚な口付けの跡。多分、十日は消えないだろう。その場所を覆うように手を置いて、蛭魔は何故か不快げに眉を顰めた。

 指が触れると、背筋がゾクリとするのだ。手のひらで覆っても同じで、勝手に息が浅くなる。こんな事は、今までにはなかった。この程度の感情も欲望も、幾らでもコントロールできた筈。

 それなのに、まるで発情期の雌ネコのように、自分で自分が抑えられない。数分の間、首筋を手で覆っていて、それから蛭魔は小さく笑った。

 唇の端を軽く吊り上げて、いつものような悪魔の笑い。その笑みに自嘲が混じり、そしてすぐに薄れていく。

 寝返りを打って、仰向けになると、丁度、頭だけがベットの隅から外れる。そのままの喉を逸らして見た視界に、壁の際に置かれた鏡が見えた。そしてその鏡には、起動したままに放置されているパソコンのディスプレイが映っている。

 与えられた指示通りに動く、無機質な機械。どんなに複雑な動きをしても、どこまでもただ意思の無いモノ。葉柱はそういうモノとは違う、そして蛭魔も…蛭魔の体も、そんなモノではないのだ。

「明日の、朝練…スケジュール…。対戦相手のデータの、分析…。ぅ、んぅ…っ」

 するべきことを言葉にして確かめ、その後に、湿度のある声が零れた。彼は細めた瞳でぼんやりと、鏡に映るディスプレイを眺めている。とうにそれはスクリーンセーバーに切り替わって、デビルバットが、時折現れては、画面を横に流れていく。

「は…ぁ…」

 立てた細い蛭魔の指が、さっきから彼自身の体の中心に置かれていた。地図の上に、目的地を探すように、爪の先でゆっくりと肌を辿る。

 自分の体のことだから、何処が感じるか、何処が敏感か判っているが、あえてそれを知らないものが、初めて彼に触れるように、迷いを含んだ指遣いで。

 片手で根元を支えて、足の付け根の肌からそこへと、徐々に指を近寄せる。やがて体の中心から奥まで、軽く痺れたようになって、立てた膝が無意識に開いた。

「うまく…想像、できねぇもんだな」

 何分経っただろうか。絡めた指の動きを速くして、押し寄せる快楽を受け止めながら、蛭魔は苦笑混じりに言うのだ。

「葉柱、てめぇが…俺を抱く時、どんなふうにするか」

 蛭魔は、自分の指で快楽を紡ぎ出しながら、あの奴隷の姿を思い出しているのだ。


 …あいつ、あんな乱暴に、胸倉掴み上げた直後だってのに、唇が触れる時はガキみてぇに躊躇って、それから噛み付くように激しく求めてきた…。


「ふ…っぁ、く…ッ」

 ストイックなくらいの普段の蛭魔の態度とは違い、必要と感じた時にだけ、時折見せる色香は、比べるものがないほど凄まじい。ただし、それも、奴隷をうまく扱う為の、ひとつの手段に過ぎないのだ。

 その筈が今は、誰も彼を見ているものがいないのに、ベッドの上で、一人で、自分の体の奥の快楽を追う。

 指を立てて、蛭魔はそれの先端を軽くなぞっていた。開いた唇が震えて、甘い息を散らしながら、彼は体を仰け反らせた。シーツの上で、金色の髪が乱れている。

 右耳に並べたピアスを、ベッドの上に擦り付けるように、首を小さく左右に振って、彼は色の薄い唇を一瞬だけ強く噛んだ。喉の奥から零れる、押し殺した喘ぎは、いつもの彼からは想像も出来ない艶がある。

「ん、く…。ぅ、あぁ…ぁ」

 開いた唇から、舌先がちらりと覗いた。その舌を濡らす唾液が、薄暗い明かりに照らされる。


 …あんな、器用そうな長ぇ舌してやがるくせ、大して使いもしねぇで、不器用に。奴なら…いろいろ経験、してそうだけどな。


 口に、葉柱の舌の感触を思い出して、蛭魔は身を震わせた。それだけで快楽が倍増しになる。もし、ここで今、彼のケータイにコールして声を聞いたら、それだけでイっちまいそうだと思った。

 事実、自分を呼ぶ葉柱の声を思い出した途端、いきなり目の前が霞むような快楽…。

 昂ぶって、先端からとろりと零れた液が、蛭魔の指を濡らし、肌を伝っていく。身を返すと、滴りはシーツにまで落ちて、そこに淫らな染みを作っていた。

 半端な快楽。半端な苛立ち。自分の性欲など、適当にコントロールできていたし、簡単なことだと信じていたのに、それを一気に覆されたストレス。

 鋭い目つきをして、蛭魔はベッドから立ち上がり、部屋の隅に放り出した鞄から、ケータイを取り出して開く。

 一番上に残る通話履歴。「糞奴隷」と書かれた文字を、冷めたような目で眺め、細い指先をディスプレイに滑らせた。だが、通話ボタンを押して、一秒もしないうちに、蛭魔はケータイの電源を切り、それを鞄の中へと投げ込む。

「……糞奴隷が」

 吐き捨てた言葉には、苛立ちが滲む。脳裏を埋めた男の顔が、それでもまた消えなくて、蛭魔は氷のように冷たいシャワーを浴びるために、再びバスルームへ向うのだった。


                                         終 



2006/06/07 「LEAVES」10000ヒット記念