色白美猫







 はっきり言って葉柱は、英語なんて喋れない。そりゃガッコーで習った英語の初歩の初歩ぐらいなら、少しは覚えてなくもなかったが、アメリカ、なんてこんな本場で、早口でさんざ聞かされる英語なんて、ぜんぜんまったく聞き取れていなかった。

 なのに。

 突然耳に飛び込んできたその単語だけが、妙にくっきり彼の耳に残って、無意識に葉柱は振り向いてた。たった今、自分と擦れ違った男たちは、遠くのテーブルを囲んで座って、ちらちらとこっちを見ながら、なんだか癇に障る笑い顔をしてる。

    kitty

 ってのは、子猫、って意味だ。それくらい判る。判るが、どうしてあいつらはいつまでもこっちばっかり見て、しつこく「kitty」と繰り返しているのか、それがなんでこんなに気になるのか、葉柱にはよく判らなかった。

「な、なぁ、ヒル…」

 振り向いて、横に居るはずのヒル魔に声を掛けたが、話しかけたい相手は、もう随分と遠くに居た。ルーレットのテーブルを覗いて、何処にちょっかい出して遊ぼうかと、良くない悪巧みをしてる顔。

 明日でこの国とももうサヨナラだから、最後に羽目を外そうだなんて、誰が言ったんだったか。それでよりによってカジノに来ているのだが、借り物のスーツはきつかったし、オールバックに固められた髪は、コシが強すぎるのか、もう乱れていつもの通り。

 ヒル魔の着てる白いスーツは、凄く似合ってて、中に着てる黒のシャツも色っぽかったけど、葉柱だけに見せるんじゃなくて、傍にいてくれるんでもないんなら、それはただ寂しいだけだった。

「ヘイ、ボーイ!」

 いきなりそんなふうに声を掛けられて、葉柱はぎくん、と飛び上がる。英語が判んねぇって、たった今、心ん中で思ったばっかなのに、なんでこの俺がガイコク人に話しかけられなきゃなんねーんだ!

「そう青ざめなくていいゼ、俺はずーっと昔、何年もニッポンに居たから、結構しゃべれンだ。お前、ヒル魔のチームのヤツだろ?」

 かっるいノリの黒人が、ヤケに親しげにすぐ目の前の椅子に座る。座りながら葉柱の腕を強引に引っ張って、無理に同じテーブルにつかせた。そうして勝手に酒を二つ注文すると、酷く楽しそうに葉柱に耳打ちする。

「あっちのヤツらは、さっきからヒル魔のこと狙ってんだ。Kittyって呼んでんのはそういう意味さ。まだ大人にもなってねぇニッポン人のガキなんか、ガタイのでけぇこっちの男にとっちゃ、みぃみぃ鳴くしかできねぇ仔猫とおんなじような…」

 そこで言葉を切って、ノリエガはいきなり葉柱のスーツの襟を掴み、テーブル上へと引き下ろす。

「おいおい、いきなりそんな物騒な顔してんなよ! あいつら、このカジノでもあぶねぇ方なんだぜ。今だって、生意気な白いkittyにドラッグでも入れてやって、ペットにしちまうとかなんとか企んでんだからな!」

 スーツの襟ごと頭をテーブルに押し付けられて、葉柱はそれでも顔を上げようともがいた。

 理屈とか何とか、腕でかなうとか何とか、そんなんじゃねぇんだ。ただ、ヒル魔がそんなふうに言われてんのが腹立たしい。黙っていられねぇってそう思う。ヒル魔は自分ごときに、守って貰うようなタマじゃねぇと判ってても、ざわざわ騒ぐ動悸が止まらない。

「はぁ、…白くて小っさくなくても、お前もKittyだな、ボーイ。見てくれが仔猫ちゃんでも、中身は頭のイイ猛獣みてぇなヒル魔に、そんなに骨抜きだってのか?」
「悪ぃ、かよ…!」

 襟を掴む腕を跳ね除けて、葉柱は荒々しく椅子を立つ、後ろに倒れて、派手な音を立てそうな椅子の背を、白くて細い、女みたいな手が支えた。

「えらそうなこと言ってんじゃねーか、ノリエガ。てめぇだって昔、まだチューガクの俺に、マリファナ吸わせて物置小屋に拉致る計画、一枚噛んでたクセにな」

「…え…っ?! な、な…んの、話…っ」

 もう数年前のことだが、それも紛れもない事実。ノリエガは顎でも外れたような顔をして、うまく誤魔化しの言葉も出てこない。でもアレは行動に移すことも出来ずに未遂だったし、それだってマリファナを基地に持ち込む段階でしくじったから、ヒル魔は何も知らないはずだったのだ。

 倒れるのを防いだ椅子の方へと、軽く肩を押して葉柱を座らせ、ヒル魔は彼の肩に肘を乗せる。

「今更、無関係のフリしてんじゃねーよ。いろんなことのウラ取る俺の特技も、ウラのウラから手ぇ回して、相手の計画潰す遣り口も、さんざん見してやってたろ?」
「ホントに、し…し…知ってたのか…お前…」

 つくづく敵に回したくねぇな、と口の中で呟くノリエガの声を、葉柱は聞いた。そうして耳元で語られる自信満々のヒル魔の声も。

「生憎、オトコにヤられる趣味は今も昔もねぇんだよ。…ま、今は、こいつにだけは別だけどな」

 無様だったろうと自分でも思う。対アメリカ戦では、ただの数合わせ以上のことは何も出来なかったし、今だって、アメフト選手でもなんでもないこの黒人の男に、頭をテーブルに押さえ付けられたっきり動けなかったくらいだ。

 なのにヒル魔はそんな事を言う。みんな空耳だろう、と疑いたくなるような葉柱の弱気を、何度も鼻で笑い飛ばし、お得意のトリックみたいな身のこなしで、バイクじゃなくて葉柱の膝にまたがって。

 え…っ?って思う暇なんかねぇ。こんなとこで?って、びっくりする暇も。

 脚を開いて葉柱の膝にまたがり、胸と胸とをくっ付けて、オールバックもすっかり乱れたいつもの黒い髪を、掻きあげるように首を抱いて、こんな大勢のカジノの客の前で。

 キスを。

「な…な…なに…」
「びびってんじゃねー。俺がkitty呼ばわりされんのに腹立てる暇あったら、たまにぁ所有物宣言くらい、堂々とかましてみやがれ」
「こ、こんなとこで、キ…」

 いんだよ、アメリカなんだからキスくらい。

 耳元で囁かれる、かすれた声に、ほんの少し混じった特別の湿度。そういう国だからって、どこから誰に見られてるか判らないのに、そんなことしたのは、どういう意味なのか、動揺したまんまの葉柱に、考えろ、と強いる。

「あ、のさ…、あとで、どっか…ふ、ふたりでさ…」
「駄目だ」

 断られて、しょげる葉柱。続けられた言葉には、やっと気付ける程度の甘えを含ませて、ヒル魔は言うのだ。

「いますぐ、連れてけ」


 騒々しい音、コインの音やルーレットの。賭けに勝ったもの、負けたものの喧騒。だけど今はもう葉柱には、ヒル魔の声しか聞こえない。本当に、互いの声しか聞こえない場所へ早く行きたいと、葉柱は思って、夢中でヒル魔手を掴んで走り出した。




 カジノの喧騒の中に、いきなり一人取り残されたノリエガは、見せつけてんなよなー、と、変に鼻息荒くぼやいている。ヒル魔をkitty呼ばわりしてた奴らを見ると、こちらもご動揺に唖然とした顔をしていた。

 別に自分の手柄でもなんでもなかったが、メチャメチャ小気味がいい、とノリエガは思う。

 

 kittyはkittyでも、生憎あいつは、あんたらでも手に負えねえkittyなのさ。





















色白美人、という話を書こうと思っていたのに、いつの間にか白い美猫に変わってしまってました。なんでだろう。しかも連載になるかもと思ってたのに、あっさり終わってしまったし。あれー? 仕方ない、また別の話を考えます。こんなアイシ辺境にて、これを読んでくださった方、ありがとうございますっ。

10/04/10