… 星よりも傍に …





 ついさっき、ホテルの部屋を出てきた。二時間前に入ったばかりの部屋だ。二時間もあれば、始めてヤり終えて身支度して、それでもお釣りがくるくらいだから、大抵は泊まったりしない。

 だから、ほんの数十分前まで、ヒル魔は葉柱と肌を重ねていた。思い出すと、流れる景色がヒル魔の脳裏を上滑りする。他の事が考えられなくなって、それがイラつくのに止められない。

 今、ハンドルの上にあるあの指が、この肌の上をなぞるのだ。

 指にあるリングが冷たい。
 抱かれた時、肩に触れるこいつの髪が冷たい。
 セックスの最中の、それら幾つかがどんなに冷たくても、彼がじっと自分を見つめてくる目は火傷するほど熱くて、だから今もヒル魔の体は…。

「…熱ぃ……」
「今、あちぃつったのか?」

 こんなに風が冷てぇのに、空耳だろうかと葉柱は思った。ヒル魔が自分の体を、今も熱く感じる理由なんか、欠片も微塵もこれっぱかりも彼には思い当たらない。

「…なんも言わねぇよ」

 ヒル魔は苛立ちをたっぷり乗せて、言葉を吐き出す。

「停めろ」
「は? 何処でだよ?」
「今すぐ停めろっつったんだ!」

 棘のある命令口調。それに従うのも慣れたもので、忌々しげにしながらも、葉柱はすぐにバイクを停めた。ヒル魔は何も言わずにバイクから下りて、すぐ目の前の公園に入って行く。

 公園といっても、遊具が幾つかあるだけの、空き地と大差ない小さなスペース。広場、なんて言ったら、笑えちまうほどちっぽけな。錆びたブランコに、鉄棒、シーソー、それと、なんでか一個だけ、ペンキの色があざやかなジャングルジム。

 帰れと言われていない以上、傍についているしかなくて、葉柱はバイクをゆるゆると進ませ、ヒル魔の後ろ姿を追う。三つある街灯の二つまでが、明かりをつけていなくて、そこは酷く暗かった。

「何なんだよ、こんなとこ…」

 言いかけて、葉柱は公園の片隅にある自販機に気付く。上着すら着ていず、見るからに寒そうなヒル魔を気にして、彼はポケットの小銭を探った。気が利く奴隷だと、褒められたい訳じゃないけれど。

「いらねぇ」

 小銭を掴んだ手をポケットから出してもいないのに、ヒル魔は冷たく言い放った。しようとしたことを先読みされて、その上、あんまりな拒絶の言葉。

 仕方ないので、熱いコーヒーを買うのはやめて、葉柱は着ている長ランを脱ぎ、今度はそれを差し出そうと。

「いらねぇ」

 また拒絶。リピートしたみたいな同じ響きで。

 ヒル魔はジャングルジムのてっぺんに登って、細長い脚を無造作に組み、華奢な首を反らして、じっと天を見ている。火照ってどうにもならない体を、冷ましたいからだ、などと、葉柱に判る筈もない。

 白い半袖のシャツの襟元。くっきり浮き出た鎖骨に、喉に、首筋に、これまた細くて白い腕。どれもが全部寒そうで、葉柱は溜息混じりにこう言った。

「見てるだけでこっちが風邪ひきそうだし。…頼むから」

 ジャングルジムの上の主人に、葉柱は自分の上着を持った長い腕を差し伸べる。たった今まで自分が着ていた長ランから、温もりが消える前に着て欲しいと願う。

 今すぐそうしてくんねぇと、体で包んで温めてやりたくなっちまうぞ。

 だから頼むよ、と懇願するような気持ちが、その顔に表れていたのだろうか。ヒル魔は表情のよく判らない顔で、引っさらうように葉柱の好意を受け取り、袖も通さず肩から羽織る。

 ふわりと広がった白い上着。無表情だったその顔に、珍しく躊躇いの色が浮かんで見え、葉柱は呆けたようにヒル魔を見た。

 立派な椅子に座った主人から、見下ろされる奴隷みてぇだな、俺。ジャングルジムが、豪奢な椅子。ずっとずうっと下の床に這いつくばって、見上げる主人が、なんて綺麗な…。


 なんだ…ここ街灯、一個もいらねぇや。


 そう思ったのは、ヒル魔の後ろに見えた空が、酷く美しかったからだ。空は闇色ではなくて、それよりも淡い藍色をしていた。見上げる先には月などないのに、透き通った光が何処からか滲んで見える。

 彼がじっと見ている広い視野で、星たちはそれぞれに光りながら、ゆっくりと旋回しているのだろう。勿論、こんな短い時間眺めていただけでは、実際回っているのを目で確かめられるわけじゃない。

 けれど、葉柱にはその星達の緩い旋回さえ、ヒル魔のしでかしていることに思えてきそうで。

 だって、こいつは本当に、何でもかんでも自分のものにして、自分を中心に回らせちまう才能の持ち主だから、もしかしたらこの無数の星も。


「なぁ、あれ、北極星…?」
「…北極星なんか、そこからじゃ見えねぇよ」

 なんとなく、一番光っているのを指差して聞くと、呆れたような返事が返ってくる。

「じゃあ、どっち? こっちか」
「馬鹿か、てめぇ。あっちだ、あっち」

 ヒル魔の声に、笑いが混じる。からかうような響きだったが、それでも葉柱は嬉しいから、なおさら馬鹿なことを言ってみる。

「どこ? お前の隣に登ったら見える?」
「るせぇっての。来んなっ」

 足先で、しっ、しっ、と追い払われて、そんな邪険な扱いにまで、奇妙な嬉しさが込み上げた。知らないうちに葉柱は笑顔になっていて、ヒル魔に気味悪そうに見られたけど、それでも一向に構わない。

 バイクを下りて、ジャングルジムの一番下に片足を掛け、精いっぱい伸び上がって、見えた星を片っ端から指差してみる。

「あれ? 違うか。じゃあ、あっち? 判った、あれだろ。んーと…こっちか。それでもなきゃ、あれか?」

 違う。外れ。うるせぇ。馬鹿か。諦めろ。

 間を置かずに否定されて、それでもめげずに繰り返し、十回くらい聞き続けていたら、唐突にヒル魔の返事が途絶えた。外れていると容赦なく罵倒するくせ、当たった時は黙り込む。ある意味判りやすい彼に、葉柱は嬉しそうな笑みを見せてやる。

「…あれがお前だったらさ」

 星空に視線を戻して、葉柱は言った。ふざけんな、と罵られるか。返事も貰えねぇか、二つに一つだと覚悟しながら、それだって言葉にすることに、意義があるってもんだから。

「俺はそのすぐ隣にある、あれだといい。一番近くのさ。あんま光ってねぇけど」

 その他大勢と同じように振り回されるのなら、せめて一番傍に居たい。なんかあったら、すぐ手を差し伸べられるくらいの距離がいい。

 ヒル魔は、葉柱が思わずビビッて震えたくなるほど長いこと、物音も立てずに沈黙してから、小さな声で少し笑った。振り向くのだって怖くて、ただじっと星を眺め続けていたら、バサリと頭に長ランをぶつけられる。

「てめぇはあんなとこにいねぇだろ」

 ああ、罵られる方か、と葉柱は罵倒を覚悟した。地面に下りて頭に被った上着を退けて、それを胸に抱き締め、せめてもヒル魔の温もりを抱いて…。そうしたら、ヒル魔の声が聞こえてきた。

「俺だって、あんなとこにゃいねぇしな。勝手に主人をお星様にすんじゃねぇよ、糞奴隷。…帰っか」

 砂やら土をくっ付けたままの足で、どかりと背中を蹴飛ばされ、葉柱はバイクに乗ってエンジンを掛ける。

「…寒ぃぞ、ハバシラ」

 後ろに乗ったヒル魔が、一言そう言って、葉柱の腰に腕を回した。滅多にないこんな事がご褒美だなんて、あんまり情けなくて酷ぇのに、嬉しくて葉柱の頬が緩む。

「も、もう一回、温まりにいく…?」

 ホテルに戻ろうか、なんて、そんな意味で言ったら、うなじに柔らかな感触が、ほんの一瞬。その後、猛獣みてぇに耳に噛み付かれて、痛くて痛くて涙が出そうだった。


 もしも本当に、夜空で並んで光る星だったとしても、きっと俺は、どんどんお前に近付いてく。理屈も立場もプライドも、好きや嫌いの感情も、何でもかんでもお構いなしの、有り得ねぇお前の引力に、逆らえる気が全然しねぇ。


 それにしてもさっきの、うなじにキスは、ホテルへ逆戻りOKの意味だったのか、それとも違うのか、今度はその謎が気掛かりだ。

 でも俺は、あえて聞かずにバイクの向きを変え、そのまま自分の行きたい方へ走り出した。ヒル魔の罵倒が聞こえないように、わざと派手な爆音を鳴らして…。



                                    終
 








 ああ、島本様描くあんなに綺麗な二人を見ながら書いたのに、こんなヘタレ駄文なルイヒルしか作り出せませんでした。折角「書いていいよ」と、お優しくも許して下さいましたのに…。ううう。

 こんなので恥ずかしいですけれど、このノベルは、敬愛する島本暖簾さまへ捧げさせて頂きます。そんで捧げた翌日だけど、もうこうして自分サイトにアップしていたりして…。

 島本様、どうかどうかこれからも、素敵な葉柱さんとヒル魔さんを描いて、私の脳内ルイヒル世界に、目映い光を注いでくださいませ。ワタクシ、ずっとついて行く所存でございます〜。


07/02/17