ふたつの影



 その日、夕日があざやかに見え始めた時間、蛭魔が「あがるぞ」と、投げるように言った。

 試合が近い。多少は体を休めるために、早く練習を切り上げるのも戦略の一つなのだと、彼は不適な笑いを見せる。
「いいか、負けたらぶっ殺す。引き分けでもぶっ殺す。死にたくねぇなら死に物狂いで食らいつけ。唯一、それが生き抜く為の条件だ」

 凶悪過ぎる言い方でも、同じものを目指している証だから、栗田はそんな言葉も好きだった。そうして今は、同じ気持ちでその言葉を聞く仲間が、こんなにも沢山いる。

 長くなった影の向こうで、練習道具やボールを片付ける影が、四つ、五つ、六つ……。

 二つきりの長い影が、沈み切った夕日を追うように薄れて消えた、淋しい日々は、もう酷く遠く思えた。無意識に蛭魔の影を探すと、もう彼の姿はフィールドの何処にも見えない。

「みんな、先、帰ってて。もう少し、一人でやってくから…」

 無意識に零れたそんな言葉に、メンバーは不思議そうにしながら帰っていく。暫くぶりに一人で立つフィールドは、途方もなく広く感じたけれど、それが何処か懐かしい。

 長く伸びた影が、消えてしまうまでの間、栗田一人でタックルの練習。無機質に重い音が広い地面を伝って、栗田に近付いてくる、彼の足音を消していた。

「この糞デブ、試合前の体力温存もできねぇのか? それとも、また部の備品ぶっ壊す気かよ」

 校長に買わせっからいいけどな。そう続けた蛭魔の声に、振り向いた顔がどんなだったのか、栗田は自分で気付かなかった。
 一番先に帰ってしまった筈なのに、ユニフォームを着替えてすらいない蛭魔。そんな彼を…そして彼と自分しかいない、この広いフィールドを見つめる、栗田の目。

 懐かしい風景。無くしたものなどない筈なのに、やっぱり消えてしまった大事な場所。

 脇に抱えていたボールを、長い指先で弄びながら、ゆっくりと逆の手に持ち替えて、蛭魔はエンドゾーンに視線を投げる。

「メンバーが揃って、喜んでんだろ、てめぇは」
「勿論だよ。僕と蛭魔だった時とは、もう違うんだもんね!」

 明る過ぎるその即答の語尾が、僅かに震えているのを、蛭魔は聞き逃してなどくれないだろう。けれども、自分の興味の無い事に、彼は見向きもしないのだ。

「だったら、そんなややこしい顔してんじゃねぇ。てめぇの顔には似合わねぇからな」
「や、ややこしい顔なんて…。…っ!」

 声にならない声が、腹のそこから喉へと跳ねた。華奢なその体からは、想像も付かない力で、蛭魔が栗田の巨体へとぶつかってきたのだ。
 彼の肩が、刃物のように胸に刺さって、栗田の声を途切れさせた。

 だが、フィールドについた栗田の両足は、数センチすら動いていない。抱き止めるように、不意打ちのタックル押さえ込まれ、蛭魔は笑う。動かない栗田の足を、同じ姿勢のままで眺めながら、彼は言った。

「てめぇはラインの要だろう。他の糞共と一緒に、ラインのするべき事をしろ」
「うん…、判ってる」

 抱き止められたままの姿勢が、不必要に長引いても、不思議と蛭魔は動かなかった。栗田は背中を丸めて、頬に触れている蛭魔の髪を、黙ってじっと眺めている。
 その時、蛭魔の体からふと力が抜けて、彼の手が、栗田の腕を軽く撫でるようにして離れた。少し冷たい彼の手のひら。何でもないような、その何気ない、不思議な一瞬。

「昔を思い出してる暇が、あると思ってんのか?」

 責めるに似た声だが、いつもとは微妙に違って聞こえる。突き放すように、蛭魔は栗田の腕から逃れ、抱いたままのボールを栗田へと放った。

「てめぇには、俺のパスルートを守らせてやる。やりてぇなら、勝ち続ける限り、この先も永遠に」

 当たり前過ぎることのようにも聞こえた。だが、当たり前のこととは違う響きを、蛭魔の声の中に、栗田は微かに聞いたのだ。途端に目が熱くなって、暗がりに等しいフィールドで、蛭魔の細いシルエットが、滲んで揺れる。
 
「あ? それだけじゃ不満か?」
 顔はこちらに向けたまま、無表情に視線だけを逸らす蛭魔。
「ううん、全然、不満じゃない……。ひ、蛭魔…ぁ」
「涙脆いのも、いい加減なおしやがれ、うざってぇ」

 もう振り向きもせず、蛭魔はフィールドを横切って遠ざかる。涙を拭いつつ、栗田は急に思いつき、上擦った声で問いかけた。
「蛭魔も練習、一人でしようと思ってたの? だったら、僕のせいで、時間なくなっちゃったんだね」

 もう、返事はないのだと思わせるほどの、長い沈黙の後、蛭魔はぽつりと呟いた。

「俺は忘れもんを取りにきただけだ」
「忘れものって?」

 蛭魔の細い背中が、その時、苛立つように揺れて、彼は微かに振り向いた。暗がりの中、そんなほんの一瞬では、表情の欠片も見えない。

「るせぇな…。いいから、帰るぞ、忘れもん」

 言った言葉は聞こえたけれど、栗田は聞こえないふりをした。何か言おうにも、新たに零れ始めた涙が邪魔で、転ばずに歩くのが精一杯だった。

 懸命に目を開いてみた視界には、消えてしまったはずの、大事な風景が見えたのだ。

 月のあかりに照らされて伸びる、蛭魔の影と、自分の影とが…。


                                   終 

 






 アイシールドです。しかも栗+蛭です。短いワンシーンだけなら、今までに二つ書いていますが、ちゃんと?最初から最後まで書いたのは初めてになります。

 誰でも書いてそうな話だけど、自分では気に入っておりますよ。こんな温かいシーンなのに、蛭魔の手が栗田の腕を撫でた時とか、なんとなくアヤシイ雰囲気だったりして。

 栗田、好きです。蛭魔を好きであろうところが! 結局はそこなんですね。惑い星、蛭魔ラブっす!

 それと、この小説は、姉妹サイト「Clear Sky」にも載せて貰っています。

 06/03/26脱稿