drop of water … 後
悪夢を 見た
バイクはぐしゃぐしゃに潰れてた
跳ね飛ばされた男の体は 捻じ曲がっていた
腕も 脚も 首も
あれじゃ到底助からない
ヒル魔はベッドに身を起こす。嫌な汗が、彼の全身をぐっしょりと濡らしていた。
ゆっくりと振り向いて、そこにいる奴隷を見る。手を伸ばして触れる。掛布団から出た腕。長いけど普通の形。黒髪にまとわりつかれた首。別にいつも通り。脚も、勿論…。
ヒル魔は身を起こした恰好のまま、背中を丸めてぼんやりと項垂れる。
迎えに来い、五分以内。
遅せぇっ。
一分オーバーだな。
今度遅れたら、バイク解体。
事故を見た次の日から、時間の制限は言わなくなった。遅れても何も言わないつもりだった。なのに、葉柱は殆ど遅れなかった。ノーヘルで、無茶な走りして、毎日ぶっ飛んでくる。多分、これからも。
だったら、もう…諦めるしか…。
華奢な裸の背中が、震えた。
葉柱が目を覚ましたのは、特に何かに気付いたせいじゃなかった。喉が渇いて身を起こそうとして、うっすらと開いた目に、それが見えた。
俺のすげぇ好きな、綺麗な背中。それが何故だか震えて見えて、目の錯覚だろうと思った。だって似合わねぇし。
声を掛けようとして身を起こし、その向こうにあるものを、彼は見る。まだ暗い、明け方前の空。そしてこのホテルの部屋。両方の境目にある、一枚のガラス窓。鏡みたいになったそれに、ヒル魔の姿が映っている。
ヒル魔は、泣いてた…。
在り得ないけど、両目からぽろぽろと雫を零すその姿は、そうとしか見えなかった。窓ガラスの鏡は少し遠くて、そんなにはっきり顔が見えた訳じゃない。
それでも、ヒル魔は泣いてたんだ、声も立てずに静かに。泣き顔も酷く静かだった。涙が見えなければ、ただ無表情でいるとしか思えないのに、胸がきりきりと痛くなった。
こういうヤツが泣くのは、例えばどんな時だろう。
悔しい時か? それもある。
辛い時や憤っている時か?
そんな時は寧ろ、それを超える強さを欲しがるヤツだ。
それなら、何かを諦めようとしている時…
もしもそうなら、一体、何を…?
声を掛けることだけは、多分、絶対にしては駄目だ。短い付き合いだが、それくらい判る。少し起こしていた体を、ゆっくりと横にして、葉柱は目を閉じた。もう眠くはなかったが、彼は無理やり睡魔を引き寄せた。
朝、そのけたたましい音に、葉柱は思わず飛び起きた。
外で事故でもあったのかと思って、反射的に窓まで飛んでいく。でも、廊下の方から聞こえた話し声が、その音が事故とかそういう物騒な音ではなかったことをすぐに教えてくれた。
ルームサービスのワゴンと、別のワゴンとがぶつかって、食器やらなんやらが床にぶちまけられただけらしい。そういや事故って音でもなかった。最近、近場でバイクが事故ったって聞いてたから、そう思っちまったのかもしんねぇ。
俺も気を付けねぇと…。何しろご主人様が、いっつも急かしやがるから。五分で来いとか遅ぇとか。あれ? でも、そう言や最近遅刻しても、怒鳴られねぇ。五分で来いとか三分でとか言わねぇし。
葉柱は今更のようにそのことに気付いて、ここ数日のヒル魔の様子を思い返す。遅れないで行けば行くほど、不満げに唇を引き結んで、黙り込んでいたヒル魔。それに最近は随分と、怒鳴らなくなってたんじゃなかったか?
なんで? 理由が思い当たらない。
その時、後ろから不意に音がした。顔に疑問符を付けたまま振り向くと、ヒル魔は身支度を整えて、バスルームから出てきたところ。昨夜の名残はどこにもない。
夢じゃなかったとは思う。やっぱりいつもと違う。目の前の悪魔は、なんとなく、悲しそうな目をしている…?
「…てめぇ、もう迎えに来なくていいぞ」
唐突にそう言われた。それが脳に到達する前に、反射神経で怒鳴っちまってた。俺も、そうとうイカレてる。
「あ゛あ゛っ?! なに勝手ほざいてんだ、嫌なこったッ!」
ヒル魔はちょっと目を見開いて、濡れた髪から、水滴をぽたぽたさせながら沈黙する。その雫が、昨夜の涙を思い出させて、心臓がズキリとしちまう。
そんな綺麗な顔して、色っぽい恰好して、しかもヤった翌朝に「もう来んな」って言われたって、素直に聞けるワケねぇんだよ。ヒル魔は葉柱を見据えたままで、腹の立つほど淡々としていた。
「もういらねぇっつってんだ。昨日も言ったろ、てめぇの代わりは幾らもいる。二度と呼び出さねぇから、安心し…」
「そっちがそうでも…こっちにゃヒル魔の代わりはいねぇよ?!」
ぽろり、と言葉が滑り出てきた。言った自分もびっくりしちまうようなことを…。言われたヒル魔は、何故か酷く怒った目をして、あっという間に葉柱に背中を向けた。
「ワケ判んね」
「あー、俺も…。けど、嘘は言ってねぇ…。本心」
死ぬ気で近付いて、後ろから腕に触った。張り飛ばされるかと思ったら、何も起こらなかった。背中から抱いて、葉柱はゆっくりと言う。ワケの判らない本心を、大事に、一つずつ。
「自分でもワケ判んねぇけどさ。ホント、嘘じゃねぇし。その…怒鳴られんのが嫌で、急いで迎えに行ってるんじゃねぇよ。たださ、急ぎてぇから急いでるだけで」
腕の中で、ヒル魔の体が緩くもがいた。離さねぇで、腕に力を込めて、ヤツの髪にキス。ああ、これってコクってんのかな、もしかして。心の奥の遠いところで、ぼんやりとそう思う。
「ゆっくり来いっつーんなら、そうする。でもって、乗っけた後も、ちょっとゆっくり走らしてくれたら、嬉しーんだけど」
言い終えて、そっとヒル魔の顔を覗き込む。ヒル魔は眉をしかめて、不機嫌そうな顔をしてる。
馬鹿を言ったかなって、一瞬思う。てめぇなんか死のうが何しようが、構わねぇって言われるかと。でも、気付けばヒル魔は、節目がちにした睫毛を、滲んできた涙で濡らしていた。
…あぁ…なんか判った。でも、信じらんねぇ。だけど、でも、他に思いつく理由は何も…。
でもさ、でも… 嘘だろう。
マジでやべぇよ、これ以上はねぇって思ってたのに、まだこんな隠し玉。どんだけ俺を縛れば気が済むんだよ、お前。
「えーと…その、俺、お前の奴隷だけどさ、奴隷じゃなくても、おんなし、だから、な? お前が俺をいらねぇって思っても、俺は会いに行くのやめねぇし」
「ホント、ワケ判んねぇ」
そうこうしてるうちに、ヒル魔はもう暴れるのをやめてて、それだけをぽつりと言った。葉柱は彼の体を自分に向かせて、伏せた目蓋にそうっとキス。それから唇にも。
なぁ、ほら、キスの間は俺、ずっと目ぇ開けないでいるから、お前が見られたくない顔は見ねぇ。涙とかそんなの、俺は見てねぇ。
長いキスをしながら、葉柱は思った。
きっといつか「奴隷解放」って言われても、別にそんな辛くねぇかもな。嫌われたんじゃなければいい。会えなくなったりしなけりゃいい。抱かしてもらえんなら、もっといい。
そんで出来れば、いつか、別の呼び名で呼ばれたい。「恋人」とか…さ。遥か遥か遠い願いだと思ってたけど、意外と無理でもないかもな、なんて、初めてそう思えた、今日は記念すべき朝。
*** *** ***
そしてまた、
ケータイが鳴る。聞きなれた悪魔の声がする。
「泥門前、迎えに来い」
「すぐ行く」
「事故んじゃねーぞ、糞奴隷っ! てめぇが事故ったら、足が無くなって不便だからな」
「ああ、判ってる」
終
難しかった…ですっっ。すいません。正直を言いまして、こんな悩んだノベルは、最近じゃあ珍しいですっっっ。つまりは、私自身も認める、イマイチ作品というわけで…。
せっかく、皆様にキーワード投票に参加して頂き、協力を得たというのに、な、涙が枯れませんよぉ〜〜。キーワードは「泣き顔」。でも泣いているのは惑い星←お呼びじゃない…。
それでもなんとかっ、なんとか、皆様のヒル魔さんへの愛で、ほんの少しでも、ヒル魔さんの泣き顔が、綺麗に見えていたら、嬉しいのですが。
またいつか、ヒル魔さんの泣き顔に挑戦しますので、惑い星にチャンスと時間を下さいぃぃぃっ。てなワケで、「drop of water」をお届けいたしましたっ。ぺこりっ。
07/02/25