揺り夜 yuri-ya





 その日も歩き疲れて、山間の小さな里で宿をとった。

 安宿の大部屋の隅で、他の大ぜいの旅の客と共に、押し込められて寝たこの数日。身に傷を負い、疲れ果てている連れを、なんとか少しでも落ち着ける部屋にと、その日、漸くとれた狭い一部屋で。薄っぺらな布団を、政之助は板の間に二枚延べた。

「疲れたでござろう、弥一殿、先に休んでいて下され」

 そう言って、政之助は宿のものに頼みごとをする為に帳場へと戻った。壁が薄いのか部屋は冷え切っていて、掛け布一枚では弥一が凍える。忙しげに通りがかった男を掴まえ、望みを告げれば、布団一枚から賃貸しだと言われた。しかも足元を見るような暴利。

 余剰の金があるでなし、そこを何とか一枚だけでもと食い下がったが、宿の男はつっけんどんな。ならばその分働く故、と、政之助は頭を下げる。田舎宿の小者を相手に、ますます軽い頭になったものだと、真剣な中で少し可笑しかった。矜持などより、布団が欲しい。

 ならば薪運びを、と、言われた。宿から離れた物置に積んであるのを、抱え上げて土間へ運べと。

「承知致した」

 躊躇うなど無く、心が晴れる。これで少しはあたたかな寝床になるだろう。早く部屋に戻りたいから、布団一枚分の働きだけをと告げて、寒空の下で小屋と土間とを五往復。

 着物から木端を払い、約束通りに布団を渡され、部屋へと戻ると連れは寝ていた。起こさぬよう、そっと戸を閉め、そろりそろりと近付く途中で、その細過ぎるような姿に、急に不安になる。

 こんなに静かな夜だと言うのに、息遣いの音が、聞こえないのではないか。薄い掛け布一枚だから、呼吸するごと、少しは体が上下していように、薄暗がりの中、それもよく分からないような。明かりとりの窓は高く小さくて、部屋の隅に置いた行灯の火だけでは、何も、確かなものは見えない。

「…弥一、殿…?」

 声を、掛けた。掛けながら、床に膝付いて身を屈め、こちらに丸めて向けている背に近寄った。怖いほど薄い痩せた肩に指が届きかけて、覗き込んで見た弥一の、青白い顔。うっすらと、開いたままの目の中に、どこか、怯えたような。

「…や、……」

 その時何かを言い掛け、ふ、と振り向いた弥一の、空虚な顔。そうして彼は、政之助の顔を見て、ぼんやりとただ黙っていた。誰か、見知らぬものを見るような目をして眺めてから、戸惑って何かを探すような眼差しを。

「弥……」

 弥一殿、と言い掛けた名前。その呼び名と同じ形に、動こうとしていたかの、弥一の口元。

"弥一"

と、言おうとしていたのか。弥一と言うその名は恐らく、彼自身のことではなく…。

「…すまぬ。起こさぬようにと、思っていたのだが」

 そう言って、政之助はもう一枚借りてきた薄い布団を広げて、弥一の体をそうっと覆う。そして政之助は、彼の顔を見ずにその部屋を出た。

 なんだろう、この気持ちは。
 居たたまれぬ、というのだろうか。
 詫びたいような心地がする。

 きっと、がっかりしたのだ。
 弥一殿は…。
 某の、姿を見て。

 仕方がない。某は"弥一"ではないし、"弥一"をここに連れてくることも出来ぬのだから。こうして傍らに居るのは、今は某だけ。凍えぬように、布団を掛けるのも。また明日からを共に歩むのも。"弥一"ではなく、某。

 凍てつく夜空を暫し見上げて、漸く気付いた己の浅ましさ。酷く、嫌気が差して、項垂れた。至極当たり前のことを思っているようでいて、それがはっきりと、妬み故だと気付いてしまった。こんな愚かしい自分を、弥一には見られたくなかった。

 世は更けていく、しんしんと。

  雪の積もるように、しんしんと。






 江戸を遠く離れた今でも、まだ思う。薬はもう、ほんの一包も残してはいなかったろうか。夢も見ずに眠るための、あの薬。一包で駄目でも、二つ三つと重ねれば、身のうちの溶けるような不快とともに、やがては闇を引き寄せてくれた。

 どろどろとした闇の一部に、自分自身もなりながら、何も考えられなくなる時間が、こうしている今もまだ欲しくなる。

 きっと俺の為を思ってこの部屋をとったのだろうが。生憎、真逆だよ、政。ぼそぼそとでも、人の話し声が聞こえた方がいい。雑魚寝に近い大部屋で、歯ぎしりだの鼾だの、ひっきりなしで煩い方が、俺にはよかった。静まり返っていると、いらぬことばかりが、頭の中に行き来するから。


 あぁ、またあの日のことが脳裏に浮かぶ。

 月闇の薄明かり、その中で影になったお前が、銀色の何かで空を掻く。音は不思議としなかった。否、そうではなく、ひとつ、ひとつと遅れるように、俺の耳へと届いていた。

 水の入った皮袋を裂くような、鈍い、音。満たされていた中身が散って、それをお前は浴びていた。肩に胸に、顔にまで。言われねぇでも分かったさ。そうだろうよ、初めてなんだな、


 ヒトを  アヤメる  コトが  


 なぁ、政…。なぁ…。きっと、お前には一生分からねぇ。真っ白くなって、何もかも消えそうな心の底の方で、あん時、俺は喜んでたんだ。お前のすることを、止めたいようにも思いながら、それでも確かに歓喜を、していた。

 俺なんかが触れねぇような、
 きれいなきれいな、お前の手は、
 たった今、汚れた。

 近くに居たって遠いような、同じ場所にいるようでいないような、見えてるもんだって何一つ同じに見えないような、そんな、別のところで生きてるお前が、一息に、俺の手が届きそうなところに、堕ち、て…。

 血の飛んだ、お前の顔が、一瞬 "弥一"の顔に見え…。


 駄目だ、違う。そんなことを、望んじゃいない。
 やめろ… やめろ… やめろ… や…



「…弥一、殿…?」

 名を呼ばれ、薄っすら開いていた目で見た。その薄暗がりに、輪郭だけが仄白く見えて、誰なのか分からなかった。知らぬ間に夢に落ちていて、まだ心はその向こうにあるせいか。

 ここはどこなのかと思う。狭くて暗い。納屋か何かか。場所が分かれば、俺を覗き込むこいつが、誰なのかも分か…。

「弥……。すまぬ、起こさぬようにと、思って」

 あぁ、政、だった。

 手に布団を一枚持って、それを自分と俺との間で広げる。政之助の姿は見えなくなった。ようやっと戻ったというのに、また部屋から出ていく気配がした。たん、と、閉じた引き戸を、ゆるり身を起こして眺める。上から掛けられた布団の、僅かな重みを感じながら、半身を捩じったままで、やや窮屈な。

 一瞬、ひとりじゃなくなったが、
 もうまた、ひとりになった。

 それはまるで、何かを喩えるような…。

 政は案外聡いから、俺の思っている身勝手を、どこかで察しているかもしれぬ。揺るがず、信じてゆくその生き様に、こんなにも救われておきながら、汚れて落ちてくるその様を、見てみたい、だなどと。

 別になんてことはねぇさ。
 どうなろうと今を楽しみゃぁいい。

 出来もせぬ癖の、強がりを。

 さらに身を起こし、閉じた戸の方を向いて、ぼんやり見ていた。またそこが開くのを、じっと待つ。怖いけれども、あいつなら来るから。

 戸が開いたのは、意外にすぐだった。外が随分寒いのか、白く息を吐きながら、うっかりすると戸口にぶつけそうな頭を屈めて、ぺたり、大の男が布団の上に膝付く。

「弥一殿」
「……寒そうだな」

 息遣いだけで言ったのは、声が震えそうだったから。

「これを」

 差し出された指の長い手の、その手のひらの上に、楓。まだ赤にはなれず、ほんのりと色付いた…。

「随分西へ来たと思っておったが、やはり追い付かれる」

 秋の気配に。楓を色付かせる時の流れに。

「少し、道を急ぐかい…?」

 平気な振りしてそう言った自分が、自分でおかしくなって、多分少し笑ったのだろう。政が俺を、黙って眺めて。

「…いや、寧ろゆっくり参ろうかと。追い付き追い越して行く楓の赤を、共に楽しめれば。某、我儘が過ぎようか」
「我儘かい、それが」

 指先で、くるり、茎を回して葉を俺の手に残し、政はぺたりと布団に座ったまま、俺を眺め眺めして、それから布団に潜り込む。

「そう、我儘でござるなぁ。つい…羨んで、敵わぬまでもと…」

 もごもごと布団の中に籠る声。何のことかと、思ったが。

「何を、張り合おうってんだい?」
「何をでもいいでござろう」

 何やら微かに、困ったような。

「なら、誰と…?」

 もそ、と布団が少し動いて、政が目までを俺へと見せる。薄暗がり、行燈の揺れる火。なんだろう、縋るような弱い目を。変わらぬように見えるこの男が、本当に変わっていないのか、確かめたくなった。

「手ぇ…」
「手? で、ござるか…?」
「…あぁ。手ぇ、見せてくれ」

 布団と首の間から、そろり出てくる政の手の、夜目にも長い指の、白いような、色。赤は無い、黒、も。汚れてなかった何処も何も。安堵できた自分に、今更安堵する。

 あぁ、あの時、すんなりとしたお前の姿に。笠を二つ重ねに携え、小さな荷の肩にある姿に。二本差しはどこにもなく。様々な想いが入り混じったことを、思い出す。

 二人、斬った、あの事を。悔いて恥じて、捨てたのかと。

「どう、なされた…?」
「何でもねぇよ、政。…政」
「…なんでござろうか」

 心底不思議そうに、聞き返す政の、真っ直ぐな目。

「……政…」
「……」

 もう聞き返さなくなって、黙ったままで、それでも視線を外さずに。直ぐなその目が怖いと同時に、そこに在ってくれることに、心がほどけそうになる。

「"弥一"が」
「明日はまた」

 言い掛けた言葉を、政の声が遮った。

「明日もまた、歩き旅の続きとなる故。眠らねば」

 風の音が、少しばかり聞こえてきた。梢で鳴る音はきっと徐々に薄れるのだろう。葉が落ちゆっくりと冬へ向かうこの季節に、ひとりでないことを。先のことは分からずとも、今、ひとりでないことに、安らいでもいいのだろうか。

「何を、言い掛けたのでござろう…?」

 遮った癖に、気にして問い掛けてくる政の、自信無さげな顔を見て、笑んだ。そうして目を閉じると、柔らかな眠りが、近付くのがわかった。

 

 風の音がする。

 葉擦れの音も。

 優しくもねぇ、強くもねぇさ。

 立派になんざ今更なれねぇ。

 それでもいいか…?






 






2013/11/09
さらい屋novel初書きv