月 籠 tuki-kago 10
愛しい
愛しい
わたしの子
今はまだ夜
眠っておいで
ゆらりゆらゆら空の上
愛しい
愛しい
わたしの子
いつか生まれる
その時までは
お前の寝床は月の籠
愛しい
愛しい
わたしの子
「皆で、カエデを見に行かぬか」
唐突にそう言ったのは政之助だった。ひとつと半、季節を過ぎた頃だった。
弥一にお竹、梅造に絹、松吉と銀太と、そして政之助。手に手に風呂敷包みやら何やら下げて、一里に届かぬ距離を、ゆるゆると其処まで歩いてきた。そして誰からともなく立ち止まり、顔を上げて息を止める。すぐには誰も、何も、言えなかった。
視野いっぱい、真っ赤な、カエデの葉の舞う様に、それぞれ何を思っていたか。
「……これ程とは。見事、だな」
お竹の横に並び立ち、政之助はそう言った。お竹殿の教えてくれた此処に、ようやっと皆で来られた、と、息だけの声には、容易に言葉にはならぬほどの、想いが込められ。
「政」
お竹は、詰めていた息をようやっと吐いて、随分と上にある顔へと小声で呟いた。
「…政の、お蔭ね」
その小さな声の、力の無さ。どこか哀しげな響きに政之助は気付いた。今日此処に皆で来られたその事は、願いの成就であって、そんなふうに哀しむ理由などない筈。
「お竹殿…?」
「ううん、なんでもないの」
少し項垂れ、首を振る。その白いうなじに、後れ毛のひとすじ、ふたすじ。
「なんでもないのよ。気にしないで。今日此処に来られて、あたしはとっても嬉しい。それだけよ」
結局自分は何も出来なかった。この先も、弥一にしてあげることが、もう、自分には無い、と、そう思えての哀しみは、隠しても、押し殺してもじんわり滲む。こんなに嬉しい、こんなに良い日に、陰を差すのはいけないと、無理でも彼女は笑い、無理でも顔を上げようとする。
「お竹ど…」
自分だけの力ではないと。皆が居てくれてこそ、と、心からの想いに言葉を選び、どうにかそれを告げようと惑う政之助と、うっすら俯いているお竹の間に、赤い葉が幾つも過る。
「お竹、注いでくれ」
と、少し離れたところから、その声が聞こえた。お竹は顔を上げ、そうして声のした方を向き、弥一の静かな笑み顔と会った。弥一は盃を持ち、逆の手で酒の徳利を持って、それをお竹に差し出して居たのだ。
「注いでくれ」
「待ってね、今」
お竹は弥一の傍へ行き、さぁ、此処へ、と示される場所に座る。とっておきの酒を注ぎ注がれ、目の前をひらひらと舞う紅色を、ぼんやりと目に移し、カエデと、弥一との居る視野に、既視感を。
互いにほんの少し離れて座って、視線をこちらに流してくる彼と、その、淡い淡い笑み顔は、同じ一枚の絵を重ねたように、あの日とぴたり同じだったのだ。そうして彼女は、揶揄するような、弥一の言葉を聞いた。
「懐かしんでるのは、俺だけかい?」
「イチさ…」
「もう覚えてねぇってか、連れねぇな。なら、そのもっと前のことなんか、尚更覚えてねぇんだろうさ。けど、俺は、覚えてるぜ?」
干した盃を傍らに転がし、弥一はゆっくり身を伸べる。すぐ傍らのお竹の膝へ、当たり前のように頭のせ。
「こうやって、おめぇの腹を触ってさ」
弥一はお竹の手を取ると、その手のひらを彼女自身の腹に当てさせ、甲の上に、そうっと自分の手を重ねる。
「怖がらせたよな、あん時は」
お前も、
子を、産みてぇかい?
女は誰でも、
産みてぇもんか?
って、そう言った。
「そしたら、お竹、おめぇは俺のこと、めちゃくちゃ怖がりながら、それでも言ったんだ、"あたしなら、産まないし、産めない"」
だって、そうでしょう?
幸せにしてあげられるかどうか
分からないのに
だったら欲しくったって
産める筈ないよねぇ
「女たちがうたう、子守唄。桂屋の女も、別の店の女もさ。いったい、なんの話のついでだったか。その後随分経ってから、桂屋の姐さんが、こう言ったのを聞いたのさ」
イチ。
此処にいる女たちはね
産みたくても産めなかった子や
孕むことも出来ない我が子を想って
うたうんだよ
「姐さんに聞いたのは、そんな前のことじゃねぇんだ。でもそれを聞いた時、何年も何年も遡って、おめぇに初めてうたって貰った時の、自分の気持ちがわかった。もしも生まれ変われるんだったら、子を産めるようになったおめぇの腹に宿りてぇ、って、俺はあん時、そう思ったんだ。叶いっこねぇのにな」
だから、おめぇを、
自由にしときたかった。
"叶わぬ夢"の、
ほんのひと欠け"だったんだ。
自分勝手なもんだろう?
「怒るかい、お竹」
「………馬鹿、だね…今になって、そんなこと…」
お竹は項垂れて、ぱたぱたと涙を零した。思い出した自分の言葉が、胸に溢れて苦しいほどだ。膝を借りている弥一の頬や髪に、その涙は落ちた。止まらない涙を止める術無く、ずっと俯いているお竹に、弥一は苦笑まじりでこう言った。
「聞きてぇな、もういっぺん」
もしかしたら、照れ隠しなのかもしれない。舞い散っているカエデの一枚が胸に落ち、それをつまんでくるくると弄ぶ指が、ただの手遊びにしては忙しなく。
「なんたっけ、いとしい、いとしい…? 気が向いた時でいいから、うたってくれ。今更おめぇに言い難くて、政に教えて歌わそうとしたんだがな、てんで調子っぱずれで、聞いてらんねぇのさ。やっぱり、お竹のがいいな」
そう、小声で言った弥一の声が途切れ、代わりに、消えそうな細い、歌声。弥一はじっと目を閉じて。
暫しのち、ちょっと離れた別のカエデの木の下で何やら騒ぎ出す。見れば政之助が銀太を肩車して、梅造と松吉が高い枝を指差し。どうやら風で飛んだ手拭いを取ろうとしているようだった。
「もっと右、そっちは左だろ」
大の男らが、真っ赤なカエデの枝の下、子供みたいに大騒ぎ。
「あーっ、違うだろ、でくのぼうっ、ちょい左斜め前っっ」
「左斜め前っ、て、こんな感じで如何で…ッ」
「うっわ、政っ、落ちるってっ、あんま急に揺らすな!」
「ぎ、銀太さんっ、あぶないっ」
「いてててっ、ま、髷を掴むのは無しでっ」
思わず、ぷっ、と笑いが零れ、繰り返してた唄の言葉が、降る赤の中紛れてしまう。
「なぁに、やってんだか、な」
だから弥一は勢い付けて起き上がると、悠々そちらへ近付きながら、こう言った。
「銀太、そこ替われ、背が足りてねぇんだよ、俺のがまだ届く」
「わ、悪かったな、小さくてっ。お前だってそう大きくは…」
弥一は草履を両方脱いで放ると、銀太を下ろさせ、目の前に屈んだ政之助の肩に両足のせた。木の幹に手をつき支えにしつつ、政が立ち上がると同時に狙い澄まして手を伸ばし、一度で見事、手拭いを掴んだ。
重心を崩してそのまま落ちる、と皆は焦ったが、すとん、と政之助の肩に肩車した格好になり、彼の頭に腕をまわして笑う。
「うめぇもんだったろ?」
「おっ、お見事でござった」
「ふ、恐縮至極」
「…あ…っ」
未だふとした時に言葉が戻る政之助をからかって、弥一はそう返し、皆の笑いが沸いた。
「つい、うっかりで」
「政、そのまんまでいい。変わっても、変わり掛けた半端でも。おめぇはおめぇだろ」
「弥一殿も」
「あぁ」
どこか様子の変わった弥一に、政之助は不思議そうにする。問うまでしないその疑問符な様に、彼は短く、こう言った。
「なんだろうな、気分がいいのさ」
きっと、カエデがこんなにきれいで、立派だから。
風が吹いて、皆はそれぞれ手元にある飛びそうなものを押さえ。そんな彼らの頬を、髪を、肩先を、ほんの僅かかすめるようにして、見事に真っ赤なカエデの葉が、舞い散っていく。一枚を拾い、美しい形を弥一は光に透かし見た。
「五葉」
抓んだ指を緩めると、その一枚もどこかへ飛び去り、見れば見渡す限りに、赤い地面。約束の色だ、と、そう思った。
変わっても
変わらないでも
変わりゆくその途中でも
カエデはカエデ
止まらず巡る季節に
隣り合う枝で
陽を浴び
時に陰を纏い
また陽を浴びるのだ
終
とうとう、書き上がってしまいました。全10話。十話って、そんなに長くない気がするのですが、なんだかもっと書いた来たような心地が致します。いろいろと拙いところも、上手く行かなかったところもありながら、このお話を書く切っ掛けとなった方に、この全10話を揃えて、お渡ししたい気持ちでおります。本当にありがとうございました。
さて、五葉の面々には、この先もきっと、色んなことが起こることでしょう。大きな事件や出来事でなくても、心や感情のように、内面のことでも、きっと様々。でもそれを、これまでの重なりの強さで、乗り越えていってくれるものと信じます。
ひとりひとりが、それぞれの生い立ちを持ち、今はこうして切れぬ絆で繋がり、共に生き往く。そんな姿の一片を、書くことが出来てよかったと思っています。これにて、五葉で書きたいことは一先ず終り。もしもまた何か浮かんだら書くかもしれない、と一言添えつつ、の、この連載の完了のご挨拶でございました。
ありがとうございました。
17.04.20