鐘 の 音




 中空の月が、雲の向こうに隠れる。足元が急に見えなくなって、背高の男が少ぅし、身を屈め勝ちになった。手にした提灯の灯かりが、地面に届かなくなる気がしたのか。

「随分、遅くなってしまったでござるな」
「……」

 話し掛けても返事の返らぬ空気は、よくあることと慣れてきた。気にせぬように次を言う。

「冷えてもきているし、このあたりは夜盗なども出ると聞いた故、早く街中へ」
「女子供でもねぇし、別にゆっくりで構わねぇさ」

 夜盗、なんてな、あの頃。そんな真似の一つや二つ、したこともあった気がする。伏し目勝ちの眼差しが、つ、と連れの方を見た。旅のなりではあるものの、どこか気負わぬ風情の、弥一。眼差し流す先には政之助がいる。うっすら笑みの浮かぶ口で、弥一は彼を揶揄した。

「何が出ようと、おめぇさん、俺を守ってくれるんだろ?」
「お守り、するでござる」

 二本差しも欠いたまま、どのように守る気なのか知らない。まさか身を呈して、とでも言うつもりか。こいつならそれも有り得る気がして、胸の何処かがちりちりとする。そこまでして守られる存在か、俺が、おめぇの…。
 
 みて、みたいような心地がしている。匕首構える夜盗相手に、前に出たらあぶないでござる、と、言うんだろうか。丸腰のおめぇさんのが余程あぶねぇよ。

「役目でござるから、かい?」

 幾つかの言葉を思い出しながら、またからかう笑み声で言ったら、今度は政之助が黙った。翳っていた空が、ところどころ雲の千切れるように夜空が見えてくる。呼吸すること、四つ五つと、半の。

「役目の故ではござらん、某……」

 そしてまた其処まで言って黙るのだ。肩を竦めて今度は弥一が、何かを言い掛けて肩から振り向く。

 ご  ぉ − んん 

 鐘の音が、響いた。言わずと知れた、除夜の鐘だ。余剰の金もなく旅をゆく身に、暮れも正月もないものと、どこぞへ留まることなくこうして歩いているから、それだって無縁、と思ってはいたが。

 ごぉ−ーん

 また音がして、二人して軽く眉を上げる。政之助と比べて、表情の動きに乏しい瞠目をして、それでも訝しげに弥一は鐘の音の方を振り向いた。さっきはゆく道の先から聞こえた。そして今度は今背中を向けている方角の、遠くから。

「除夜の鐘、でござるな」
「そりゃそうだが、なんで向こうからとこっちから」

 ご  ぉ − んん 

「某、夕べの宿で聞き申した。谷を越える少し手前に、古い寺があり、古くはその寺一つを、このあたりの広い土地の皆で祀っていたのだと。それがこちらに住まう人が増え、行き来のいいように、この先にもう一つ寺が建てられたそうでござって」

 本当に、行きずりのものからでも誰からでも、政之助は色んな話を聞いてくる。聞き出す、などというつもりはないようで、これも一つ才だろうか。

「二つの寺の間に居ると、どちらも聞こえる、っていうわけかい。そりゃ聞かされる方は」 
 
 ごぉ−ーん

 ご  ぉ − んん 

 そんなもの煩ぇだけだな、とでも言いたげな弥一の声の響きを、やんわりと諭すように、政之助が何かを言い掛けた。

「除夜の鐘は煩悩を除くとされる故、重ねて二百十六もであれば」

 そこへ、政之助の言いそうなことを先読みして、く、と笑う弥一の顔。その分清くなれるかもしれぬ、と? 仮に人の業が、耳にした鐘の音だけで消えちまうのなら、この世はさぞかし平和だろう。

 あぁ、そうしたら、
 俺などここに、
 居ないことになるかもな。
 そんな真っ直ぐばかりの世なら。
 また居場所なんか無くなって…。
 けど、おめぇなら。

「おめぇは、きれいでいてぇんだろうさ」

 穢れず、正しく、真っ直ぐに。なのに俺なんかと出会っちまったから色々予定が狂ったろ。こんな鐘なんかで、俺の身の穢れが洗われる筈もねぇし、曲がった心が直ぐにならねぇ。罪を償い終えてたって、まっさらんなって、その先は間違いを犯さねぇなんて約束はねぇよ。

「………何の話で」
「俺なんかの傍にゃ、いねぇ方がいいだろうって」

 から、と草履の先で蹴られた小石が、少し先まで転がっていった音がした。重なるように、鐘の音。

 …ごぉ−ーん

 ご  ぉ − んん 
 
 ごぉ−ーん

 ご  ぉ − んんん

 ごぉ−ーん

 続く鐘の音も、重なり重なりしつつ。山に吸われて消えていくのを、足を止めて暫し聞いていた。さっきの、と、政之助が日頃と変わらぬ声音で喋る。

「さっきの話でござるが、百八の倍の二百十六、これほどに除夜の鐘を聞けば、身のうちのあらゆる煩悩が打ち消され、歩む先々で、また正しい選択も出来よう、と。某、そう思ったでござる」

 煩悩とは、業とは違う。勿論、罪とも悪とも違う。鐘の音で犯してしまった罪が洗われるわけではなく、過去は過去、今は今のままなのだ。ただ、これから訪れる未来を罪に染めぬよう。業や悪により道を踏み外さぬよう。正しき道をゆくため、迷わぬ自分になる為の、この、一年の終いの鐘の音。

「そう…。以前、弥一殿も言っておられた」

 過去はどうでもいい、
 昔と今だったら、俺は今の方が…

「昔よりも今の方がいい、今の方が好きだ、と。常にそう言える自分になる為に、この鐘の音がほんの少しばかり、手を貸してくれると、そういうことでござろう。某はそう思って」

「………雪だ」

 弥一は言った。目の前をひらひらと落ちていく、白い欠片を見ながら、あの時と同じに。政之助は物言わず静かに笑んで、冷たげに白くなっている弥一の指先を、伸べた自分の手で軽く握った。

「…また、冷たいでござるなぁ」

 と、すぐに離して、自分のしたことに動揺したように、急に項垂れる。そういえば、こんなふうに手を握るなど、弥一が目覚めている時にしたことはなかった。時に苦しげに魘されて、眠りの淵にいるままの弥一に、手にのみ縋られる時はあるけれど。

 今、どこか、弥一が不安げに見えて、つい。そして政之助は、真っ直ぐに進む先を見据えて、こう言った。

「傍に、居させて貰わねば、守ること叶わぬ。役目の故ではござらぬよ。前に某が言ったような、そういう意味で」

 守りたいのだ。
 おのれの望むものを。

 はっきりと、あの時の政之助の言葉が弥一の脳裏に浮かびあがった。ふるりと心が震えた。下手をすれば嗚咽も出ようほど。暫し黙り込み、聞こえなくなっていた鐘の音を、そこからまた幾十も聞いて、まだ少し揺らいでいるような声が呟いた。

「おめぇも、あったけぇ手だな」
 
 そう言った弥一の右手が、ゆら、ゆら、その身の脇で揺れている。政之助は、その揺れているのを視野の端に見ながら、何も出来ずにただ歩いた。おめぇも、とは、某の他に誰でござろう。などと、やくたいもないことを考えながら、雪の中を、弥一と歩いた。

 近付く方は大きくなり、遠ざかる方は小さくなるも、まだ続いている、鐘の音。

 ご  ぉ − んん 
 
 ごぉ−ーん

 ご  ぉ − んんん









14/01/01