掛替えの無き 






「弥一ど…」

 きし、と廊下の板が軋む。日もとっぷりと暮れたこの頃合いが、政之助は随分と苦手だった。さりとて外へ立っていても、それ、目当ての男と、そうした男を待つ女ばかりのこの界隈、目のやり場には困るのだが。

 せんせ、さっきからふらついてばかりじゃない、休んだら? など似た言葉を二、三言われ、更には廊下の向こうから、しょうがない男だね、ならそうしなと命ぜられ。

 思い出したのは、今宵は何処へも出掛けておらぬ筈の、弥一のこと。閉じた戸の外から、いつも通りに声掛けようとして、政之助は、かちり、と固まった。

 きし、きし、と。廊下の軋みとはまた僅か違う床の軋む音が、目の前の戸の内側から。さすがの政之助でも、それが何故の軋みであるのかぐらいは分かる。まさかそんな気もないのに、どうしたわけでか息を詰め耳を欹て、想像した通りの、ものを聞く。

 は、ぁ…。 と。
 んん…。 と。

 しっとりと甘やかに、それでいて少し苦しげな、女の、息遣いと洩らすような声。衣擦れの音、そうして畳の床の軋む音と。あぁ、やはり、だ。これは…これはいかぬ、すぐ立ち去らねば。そう思うのに、床に足の貼り付いたように、微塵も動けず。そうして…。

「……じゃ、ねぇか」

 弥一の、声が聞こえた。女へと喋り掛けた声なのか、後ろ半分だけ。なんと言ったのか、最初の方がまるで聞き取れず。政之助は手を、つ、と伸ばし、閉じている戸の。

「政?」

 唐突に、名を呼ばれた。ひくりと体が跳ねて、伸ばしていた手が、思いの外、強く戸にぶつかった。ガタタ、音が鳴り、弥一の声が更にまた。

「政だろう。用ならそこで待っててくれ」
「……や、そっ、某…っ」

 返答しながら頭の中がぐるりと回る心地がした。そこで、とは? ここでということか。このまま? ここにいるままで? 物音を聞きながら? い、いや、しかしそれは。それはあまりに。

「すぐ、済ませるから」

 追い打つように、また弥一の声が、そう。済ませる。済ませるとは、何を。いや、そのような。

「でっ、出直すでごさるゆえっ。弥一殿っ」

 言いながら、動かそうとする足がそれでもまだ動かない。確かにこのところ体が怠く膝下が重く、思うように動けないこともあるが、でもそれは、多分、これではなくて。

 …もう、いじわるだねぇ。
 イチ、さん…ってば。

 あぁ、また、甘えるような。聞こえる声は、段々とあられもなくなり、それへ混じって、弥一が何か言っているらしき声が、一言、二言。

 何故か政之助には弥一の声が一言も聞き取れず。知らずまた一歩、戸へと近付き掛けて、ぶんぶんと首を振り、漸く後ろへ後ずさり。それでも全身が耳になったように、女の吐息、女の声、衣擦れと、畳の軋み、ばかりが聞いていた。

 ややあって、す、と戸が開き、中から髪のしどけなく乱れた女が顔を出す。幾ら女郎屋の女でも、聞かれながらなんてのはいい気はしない、と、幾らか不機嫌そうなその女が、政之助の姿を見るなり、ぷ、とおかしげに吹いた。

「嫌だよぉ、なんだい先生その恰好」

 びたり、と真向いの壁に背中で貼り付き、汗を浮かべ、顔中真っ赤に染めた、用心棒の、先生の。上背があるだけ、余計その様が可笑しく、女は笑い止めずに、くすくす、と。笑う女の姿のその向こうで、寝乱れた布団に身を起こし、片膝立てた弥一が。弥一も…。

「ほんとに可笑しいねぇ、先生ときたら」

 ひょい、と上げた女の片手。その片袖に、部屋の中にいる弥一の姿がふと隠れ。次に見えた時は、弥一はもういつもの、どこか凪いだような、様々をいなすような、風情でしかなかった。くすくす、くすくす、まだ笑いながら、女が廊下を行ったあと、何か探すような眼差しをして、廊下の外から弥一の姿を、じっと見ている政之助が残った。

「弥い…」
「どうしたよ、入りな」
「…いや」
「別に用なんかなくとも、構わねえ。少し休んでいきゃいいさ。またふらついてたんだろ? 聞こえてたぜ?」

 外のざわつきの間を縫うよう、よろけてる、ふらふらしてる、あぶなっかしい、と、政之助のことを言う、幾人かの女の笑み含みの声を、弥一は聞いていたのだと。一つ、一つと拾うように。

「茶でも飲むかい」

 そう言って伸べられる、着物の肌蹴た痩せた腕。たった今まで女を抱いてた、その。いや、先の女よりも、うっかりするともっとしどけないような、覗き見える白い胸元の。腿より上まで曝された脚の。

 いや、そうではない。
 気になったのは、それではない。
 ついさっき、確かに見えた。
 弥一の。この男の。

「某…つとめに、戻るでござる」

 変にじろじろ見てしまい、怪訝な顔などされてはいないが、結局何しにここへ来たのかも、定かでなく。ただ、くるり背を向け歩み去りながら、どうしたら、と政之助は思っていた。どうしたらまた、あの。さっきのような、あの。

 見られるので、
 ござろうか、 と。





 わいわいと、でも無いのだが。宵の桂屋の表通りよりは、ずうっと、静かで。外は賑やかな物音などもなくて。それでも"仲間"で集まっている夕へと暮れる前のひと時。

 いいか、こうどっしりと構えてな。

 と、梅殿の言う。見真似ようと胸前で腕を組み、肩を怒らせてみている某と梅殿の方など見ずに、松吉殿が呆れたように。

 阿呆みたいだな。

 じゃあおめぇ手本見せろ。

 言う梅殿に今度は松吉殿が、また某にはどう真似ていいか分からぬことを言い出す。無表情で。空気は伝わるとか。

 それは無表情じゃねぇ。

 など、さらに呆れた目をして。皆難しいことをいう。凄みなど、出そうとしたこともなければ、出せた覚えもないような。とぼけた面ってんだ。と、追い打ち掛けて言う声に。

 弥一殿が、声、たてて。



 阿呆みたいでも、とぼけた面でも、なんでも、どうでも。
 あぁ、その顔を見たいと、某は思って。あれからずっと、
 夢にまで見そうなほど、ずっと思って、いたことに、今。


 こうだ、政。
 俺の後ろで斜めに構えて、
 傘の下から相手を見る。
 やってみな。

 そう、眉を少し下げるように、顔をくしゃりと、一瞬だけ。薄い瞼を閉じるようにした、弥一殿の笑い顔。その笑い顔の名残りの、ほんの少しある顔で。

 そうだ、うめぇじゃねぇか。

 気付いたら、皆、それぞれで、それぞれらしく、笑っていた。梅殿も松吉殿も、某も。

 ま、よろしく頼むぜ。

 と、弥一殿が言った。俺を守って欲しいんだ。最初の日、そう言われたあの時の、弥一殿の声を思い出す。被った笠を傾けて、顔隠しつ、某は言った。


 承知致した、と。










14/01/12