月 琴
どこか不思議な、物悲しいような。
これは 月琴 の音。
いつどこで聞いて知っているのかなど、思い当たることはない。遠い遠い記憶の底から、まろい気泡のごとく、ゆら、ゆらりと浮かび来る。幾度聞いても、音色はあまり澄んではいずに、あまり巧くもないようで、今宵はまたそれが、今にも消えてしまいそうに、ところどころ、乱れ。
…ぃぃ…ん……
と、その時、弦の音が途切れて、唐突に外が賑わしく。
「え…、ちょっと、あんた…? どうか…」
「だ、大丈夫かいっ! しっかりっ」
「誰か、誰かっ、手を貸しておくれよぉ…っ」
叫ぶ声を覆うように、周りを取り巻く声の、ざわ、ざわと。
行かなかった。あてがわれた部屋の隅に、常のまま背で寄りかかり、片足は床に投げ出して、立てた片方の膝の上に、伸ばした片腕をだらりとのせたまま。
結局は女たちだけで、月琴弾きを抱え支えて、奥の空いてる部屋にひとまず、と。一言二言だけ、厄介事はごめんだ、など、止めようとしてる姐さんの声が、形ばかりですぐ萎み。
その、奥の空いてる部屋には、弥一が、居た。こんな時だから、咄嗟に誰も思い出さなかったのか。暫し前から居るようになった、ものも言わず、誰とも視線も合わせぬような、男のことなんか。
そうだ、この人、居たんだった。でもここ以外、部屋はない。まさか客を入れる女の部屋に、病人寝かしておけるわけもなく。
身動きせず、ただ沈んだ顔のままでいる弥一が、表情変えずに、なら出ていくかと、そんな素振りで立ち上がりかけ。それへ、廊下からこちらを見ている姐さんが、ひとこと。
「まさか起き上がれもしない女に、手ぇ出すなんてしないだろうさ、あんたも」
弥一の僅かに見開いた目。そんな乏しさでも、それまで殆ど表情の無かった顔には、なにやら珍しく、そうして無言無表情な様よりは、いくらか気安く見えたのか。
「…このひと、どこへも行くあてなんかないんだよ」
女のひとりが、そう言った。その場にいた他の女も、二三、頷く。分かるんだ。においで、纏う空気で。おそらくは、事情持ちの岡場所上がり、戻れる先があるのなら、こんな界隈で、語り弾きなどしていやしないと。同じ仲間を思う気持ちで、女たちは頼み込むように弥一を見る。
「俺は、姐さんに拾われた身だ…」
だから姐さんがそうしろと言うなら…。そういう意味の言葉だったが、ふい、と視線やった廊下に、既にその姿は無く。
その後、女たちは皆で布団を一組運び込み、月琴弾きの寝床を作って、そこへそうっと寝かせた。冷えてはいかぬと、小さな火鉢も持ち込まれ。やがて近くの藪医者がきて言うには、治らぬ病、長くはないと。
聞いた誰すら、騒ぎはしなかった。寧ろやはりという顔をした。何事も無かったように、外はいつもの賑わしさで、常のように女たちは忙しい。弥一の元に残されたのはその女と、女の月琴。
ぽつり、その部屋だけが、しん、と。
ただ時折、火鉢の中で火が爆ぜる。
思えば月琴弾きのこの女は、見掛けるごと痩せて、顔色も酷く、ここのところはふらつきさえして、それでも月琴ひとつを携え、毎夜毎夜に爪弾き歩いていた。桂屋だけではなく、ここらの店の女たちは、客にねだって彼女を呼んでは、なんとか暮らしてゆけるだけを弾かせ、語らせ…。
誰も、何も、言葉にせぬまま、
まるで、同胞を庇うように。
それも、もう、ここで、と視線をやれば、ふと見えたその女の、襟から微かに覗く肌に、彼女の事情が、刻まれていた。
酷いやけどの、跡。
過失で湯をかぶったか、それとも良くない客にやられたのか。確かに、事情持ちだ。こんな体では客はとれまい。稼げぬ女は置いては貰えず、身ひとつ同然で店を追い出され。なら、月琴は、なんとか生きてく為に覚えたか、それとも。
「…げ…っきん、ちょうだい」
ずっと、黙って、浅く息してた女が言った。弥一は視線だけをあげ、返事も、動きも、しなかった。聞こえなかったと思ったか、女が苦しげにまた言う。
「月、琴…っ、あたし…の…」
せいせい、せいせい、と息の音が、浅く荒く。動けぬ体を無理に起こそうと、布団から這い出る、片肘から下。畳に爪立て、それでも力無く。
「……」
弥一は、それをとってやった。仰のいた胸の上にのせてやったが、たったそれだけの重みも苦しげに、それでも女は、両手でしっかり持って、弦を…
爪弾く、ことは…出来ず。
震える痩せた指は、弦に掛からず、ただ虚しく幾度も空を掻くだけの様を、弥一は見ていた。
ぱち…っ。火鉢で火が、爆ぜた。
それから、二日。女はそこに居た。弱り果てた身で、体を起こすことも、何か食べることさえ殆ど出来ず、それから蝋燭の火が、ゆっくりと小さくなって、ゆっくりと消えるように、息絶えた。
明け方、身の空いているもの数人だけに、囲まれ看取られ、静かな終りで。
「よかった」
と、誰かが言い、ふ、とその場の空気が和む。
「…いい顔をしてる。笑っているじゃないか、ねぇ…?」
見れば確かに、女の「寝顔」はうっすらと笑んでいるのだ。弥一は部屋の隅で、やはり常のように背を壁に預け、何もない場所へ視線を放っていた。
その後、月琴弾きが、どこへどう弔われたか、弥一は知らない。月琴がどこへ行ったのかも知らない。随分と前のことで、こんなにはっきり覚えていたことも、それを今思い出したことも意外だった。
山間の、それでも大きな道沿いの旅籠町のこと。軽い微睡みから覚めたばかりでぼんやりと、弥一はひとり夜具の中。そろそろここも発とうかと、政之助は小窓から外の通りを見ていて。
「…何やら、不思議な」
と、不意に言った。
「弦の音。三味線ではなかろう、これは」
問う響きとも違う政之助の声に、弥一は漸く気付いた。やっと聞こえるほどに小さく、けれど、耳が確かに覚えている、この、音色。まろく、少しかすれ、少し澄んでいて、遠きを想わせるような。
「……月、琴」
零した声に政が振り向き、面白げに、どこか嬉しげに。
「げっきん、と言うのか、趣のある、良い音色だと先から」
「…多分、な」
など、交わすうち、角を曲がってきたものか、爪弾く音は大きくなり。弥一は身を起こし、政之助の隣へと来た。格子を掴む手が、相も変わらず白く。
二人の目の前を、ゆるゆると過ぎて行く、旅の姿の月琴弾き。音色のまろく、かすれ、澄んでいて、なんとも言えぬ物悲しい。
「あの月琴」
とだけ、弥一は言った。まさかそんな筈がないと、そう思いながら。随分前のあの時、己が胸に添え、幾度か爪で弾いて、鳴らした、あの月琴によく似ていると。
あの月琴弾きが、弾きたがり、弾けずに悔やむ姿に身が動いて、最初はただ、一音、二音。それだけで、弱弱しく、なんとも嬉しげに笑む女の姿に、上手くは出来ぬでも、前に見たのを思い出しつつ、真似事めいて、何度か爪弾き。
あぁ…。
そういやぁ、あの後からだ。と、思い出す。喋りも笑いもせず、目も合わせない、そんな得体の知れぬ男を、あの店の女たちが、遥か遠巻きにするのをやめ、
ねぇ、あのさ、
また今夜は冷えるねぇ。
炭は足りてる?
あたしんとこのを分けようか。
これ、夕べのお客が置いてった酒、
あんた飲まない?
辛いお酒は、あたし苦手で。
イチ、っていうの? それじゃぁさ、
イチさんて呼んでいい?
イチさん、おはよ。
ありがと、イチさん。
イチさん おかえり っ …。
そう、そんなふうに、ろくに返事もしない男を相手に、もの好きにもだんだん近付き、だんだん馴染んで。少し時間はかかったが、いつしか弥一も馴染ませられて。
「弾きたいので…?」
回想に落ちていた弥一のすぐ真横で、不思議そうに政が聞いた。
「…そこは聞きたいのか、って言うとこじゃねぇのかい?」
「あぁ、そうやも」
言って、また、ふ、と笑い。
「聞きたいので?」
そう問い直した。ふい、と小窓に背を向け、離れる弥一の、ほんの微かな笑み含みの。
「今度…機会があったら、爪弾くぐらい、してもいい」
「や、それは、無論…っ」
振り向かずとも、ほかり、と、目を見開いて驚いて、焦ったような政の顔が見えるようで、可笑しい。
耳を欹てても、続く音色はもう遠い。多分、あれがあの時のあの月琴、ということも無いだろう。ただ、今更のように思ったのだ。
故郷にもどこにも、居場所を失くした女。
そんな女にも、まだ居場所はあった。
少なくともあんなふうに、満足げに、
笑み顔になって眠れる場所が、あったのだ。
それはそうだろう、こんな俺にだとて。
今が、ある。
終
coolmoon様から頂いた絵はこちら
絵を頂いて、そのお礼の気持ちもあって書き始めたのですが、それ以上の気持ちまで、やたらと籠ってしまいました。それ以外の沢山の感謝とか、いろいろなこれまでの記憶への感情とか。
そういう意味でも大切な一作でございます。書く機会をくださり、ありがとうございました。頂いた絵も飾らせて頂いておりますよ。
見ながらこのお話を書いたのです。だからこのお話を読んで下さった皆様には、挿絵のように見て貰えたら嬉しいのです。拙く零れた月琴の音色、残響が、聞こえます。
2014/03/25によせて
2014/04/12サイト掲載