途中で諦めるのか?





 昨晩また、弥一が熱を出した。酷い熱ではないが、苦しそうだった。

 まだ傷が新しい今を旅に費やすなど、元々が無理なのだ。急ぐわけではないものの、何処かに滞在し続けて、しっかりと癒して貰うだけのものが、懐にあるではなく、そして当人もまた急ぎ進みたいと口にはせぬ代わりに、歩くのが辛い、暫し留まりたいとの言葉は出さぬ。

 それは早く追い付きたいとの気持ちではなかろうか。無理はさせたくない気持ちと、願いを叶えたい気持ちは天秤に掛けても僅かも揺らがぬ。ならば懐具合に習うしかなく、最低限しか留まらずゆく。せいせいと浅い息をつく弥一を、心底気にしながら、明日も…。

 そんなふうに思って床に入ったからだろうか、夢を、見た。随分と久々だった。昔の夢で、懐かしいと思いながら見ていたのだ。

 おぬしがのぼる
 のぼれると
 申したのだぞ?

 長い長い石段の途中、手を引いている幼子は弟の筈で、自分も相応にまだ幼い筈の記憶なのに、その時の政は今と同じ姿をしていて、そうして手を引いている子供は…、その子の姿は。

「……弥…」

 面影が、確かに。知らぬ筈の幼き姿は、それでも確かに、彼だった。けれどその顔は、目の前で朧に霞み姿を変える。酷く見知った顔になり…。

 のぼる。
 のぼれる。

 目に力込め、しかりと前を見つめて言った。その手を引く大きな大人の手も、自分の手。導く背もまた、自分の背。



 鳥の声を聞きながら、ぽかりと両目を見開いた。明かり取りの窓からは、斜めに日が差し込んで、その光の差す先に、横臥する痩せた背がある。起き上がり布団の上で身をずって、伸ばした手の指先が、そ、とその背なに触れた。傷の無い場所へ触れようとすると、それは丁度其処になる。

 熱は下がったのだろうか。やや低い温もりはあれど、ぴくりとも動かぬ様に、そのたび不安になり、また朝毎の同じ声を掛けた。

「起きておられるか…? 弥い」
「……」

 声無く、ほんの僅か揺らぐ体が返事。手のひらごとを当てて、すぐには離さず、温もりを移すように触れ置く。弥一はまた、ほんの僅か身じろいだ。見えぬまでも目を横へと流し、黙したままこちらを窺うのが、分かる気がした。

「弥一殿」
「…」
「ここは中々良い宿だ。故にもう一泊」

 また揺らぐ体。今度は少し大きく。なんでだ、いやだ、そう思う心が、触れたままの手からこちらへ、流れ込むように思った。傷の少ない場所へ場所へ、肩の方へと滑らせて、痩せた細い首筋、その片側をすぽりと覆う。冷えている。

「この先は峠へと差し掛かるし、次の宿場もやや遠い。番頭に言って参ろう。案外に安い宿で助かる。連泊なら割り引くと聞いたようにも思う」

 起き上がるな、と上からやんわり抑えるようなその手。指先が、すり、と軽く、尖った顎先に滑る。何も言うなと言うように。

 諦めない。
 やめない。
 故に休む。
 無理をして挫いたり、
 せいせいと息が上がるまで、
 石段に挑み続けるのは、
 ただの無謀だ。

 誰も追っては来ぬ。
 誰も、もう、
 この背を打とうと、
 追い駆けてなど来ぬ故に。

 ぎりぎり、布団に坐した背を伸ばし、身を前傾させ、肘曲げず腕をいっぱいに伸ばして、触れたまま。政は段々、夢の先を思い出す。昔、故郷の、屋敷の傍にあった長い長い石段。背伸び盛りの弟の手を、幾度引いて登ったか。

 幼子の歩み切れる石段ではなく、泣いて駄々こねるのを、幾度も宥め諦めさせ、それでもまた通り縋ると弟はそれへ挑みたがり、そのたび歩かせ、やがては登り切れるまでに。

 途中で諦めるのか? 
 おぬしがのぼるのぼれると申したのだぞ?
 ここでやめるか? さあ。

 幾度も問うたこの言葉だった。弟は悔しがり歯を食い縛り、無茶をして駆け出し転んで膝擦り剥いて、しゃくり上げ震えるその肩に、ある時、つ、と手を置いた。

 今日はやめてもまた挑む。
 いつかは必ず登り切る。
 その気持ちを持って
 ここで今引き返すことを、
 諦めとは言わぬ。

「弥一殿、今日は昔話でも致そう。某の幼き頃の話など、聞いてはくださらんか」
「……飽きる話なら、御免だぜ…?」

 かすれて聞こえにくい弥一の声が、そう言うと、政は、ぐ。と緊張したように面持ちになり、伸べていた手を漸く放して、正座した両膝の上で、二つのこぶしを作って、思案顔した。

「そ、そうでござるな。ではまず某が、初めて木刀を手にした時の話を。意気込み過ぎて手がこう、滑って、床の間の花器に…飛んだ木刀が見事に…その」

「あんまりらしくて、笑えねぇ」

 振り向かぬ肩を震わせて、弥一が言った。

「笑っておるではござらんか…!」

 明かり取りの窓から差す光。枕元へと落ちたその光の中に、二羽の鳥の影が跳ねている。影はやがて幾つも増えた。三羽、四羽。きっとまだまだ増える。宿の娘が、裏手で毎朝、何か撒いているらしいから。

 小鳥の声に紛れて、零れた笑う声に、
 政は耳を澄ませる。心を澄ませる。











 六巻より、です。てか六巻っていろいろ怒涛の巻なのに、引用はこれっていうのが、チョイスなんとも。でもあの回想シーン好きなのです。引用したいとずっと思っていたのです! 今の政なら、あの時のことをどう思うのかなぁ。とか、あの時、実際はどうしたんだろうとか、いろいろ思っていたのよv



14/10/13