戻ってきやしねぇから
卓代わりの樽。伏せた茶碗の上の蝋燭の火。揺らぐ焔を灯りに、お前の杯へと酒を注ぐ。橙に照らされて、ほんのり顔に温みを思うのに、その灯りも温みも、お前には届いておらぬかのようだ。
お前だと思ってみれば、あぁ、お前そのものだ。埋まる筈の無い時の流れを感じながら、荒んだその様が、あの日々との変わり様が、胸の上を掻き削る。
弥一、と名を口にした。お前の顔は揺らがなかった。
誠之進とも言葉にした。お前はやはり淡々と。
けれど弥一の、死の話をした時、何すら見せぬお前の揺らぎに、俺も揺らいだ、痛いほど。
何をしようとどれだけ願おうと、
戻ってきやしねぇから。
弥一も誠之進、死んじまったものは、
戻らない。
でもなぁ…。でも…
お前はここに、いるじゃないか。
生きてここに、いるじゃぁ、ないか。
帰り道の行灯の灯に、闇はまあるく、淡く、開かれる。手酌で随分飲んだのに、酔いは微かに足にだけ。脳裏は厭わしいほど、冴えている。
さぐるようにこうして言葉を交わすのが、苦しくない筈もなかった。筆頭与力八木平左衛門としてではなく、今日の俺はただの平左。この役目でさえなければと、いずれ思う予感が、脳裏の遠くにちりちり、ちりと。
きっといずれ、近いうち、何故なのかと思うだろう。何故今かと、思うだろう。どうしても真実を知りたかったことは、戻せぬ遠い過去の向こう。
今があの頃の放蕩息子であるのなら、何を聞こうと、きっと俺は、お前の友だ。裁くなど、その傷を暴くなど、誰が。
なぁ、俺だけあいつに会っちまって、
悪いと思っているんだよ。
だが、俺一人じゃどうしようも出来ない。
あの男でも、出来るものだろうか。
だから、なぁ、弥一。
手を貸してくれ。
友の、ため。
焔が揺らいだ。確かに一度。あいつを案じて、弥一よ、お前もそこにいるのかい?
終
灯り、をモチーフにと言うか。蝋燭、行燈。書けなかったですけど、頭の中には、盃の酒の表に、蝋燭の火が映っていました。
あぁ、平左衛門は井戸の底の遠い水面を、ぎりぎりまで腕伸ばし、提灯の火を下ろして、見たかっただろうか。物言わぬ水面、もう何も言えなくなってしまった弥一。
もしもその頃、真実を知ったなら、平左は隣家に喰ってかかっただろうか。それでももう、間に合わなかったのかもしれない、と。
戻ってきや、しないもの。取り戻せない、もの。
この世にそれらの、多いこと。
14/09/15