「鈴蘭の館」
今なら、逃げられるんじゃないか。自分を此処まで連れてきた男は、酒を飲んで眠っている。捕まった時の、折檻の辛さを考えないようにしながら、ギンコは男の傍から離れ、必死に山中を走った。
どちらへ行けばいいのかなんて、知らない。木々の枝の向こうに淡い月が見えたが、それがなんの助けになるだろう。こんな夜更け、もしも近くに人家があったとしても、灯かりが付いている筈はない。
子供の足で少しくらい走っても、逃げたと気付かれればすぐに捕まってしまうかも知れない。だから走って、走って、足が動く限りはずっと走って、やがてその足も縺れた頃、遠くにぼんやり、白い光が見えた。よろめきながらそこへと近付き、とうとう倒れ込んだのは、不思議な香りのする、白い花の中だった。
丸くて白くて小さな、幾つも連なる可愛らしい花の形は、暗がりの中で、何か…甘くて美味しいもののように思え、くぅ、と腹が鳴る。そういえば、もう二日、食べ物を貰っていなかった。
ギンコは必死でそれを掴み、無我夢中で口の中へと。
「おいっ、食べるなっっ」
いきなりの怒号。地面に転げたまま、びくりと体を跳ねさせて、ギンコはそれでも花を口に含んだ。食べられるなら何でもいい。そのくらいひもじかったのだ。頬張ったものを噛むと、花の香りが口いっぱいに広がって…。
「早く吐き出せッ」
「い、やだっ」
「お前、死ぬぞっ! 死にたいのかっ?!」
ギンコは誰かに喉元を掴まれ、口を無理に開けさせられ、指を喉奥に突っ込まれた。やっと頬張った花を全部吐き出すまで、その男は彼を離さなかった。
天井の高い、広い部屋。その天井にも、壁にも床にも、あざやかな模様や絵のある、見たこともない不思議なところだった。奥には足のついたキレイな寝台。その傍に、飾りのついた舶来もののランプ。
「俺は化野。ここは鈴蘭の館と言うんだけどな、近くの里の連中は、皆、お化け屋敷と呼ぶよ。この通り荒れ放題だし、住んでいるのは俺だけで、ひと気の殆どないのも気味が悪いというのだな。それに…」
布張りの豪奢な椅子に座ったまま、その男は己の吸っていた煙管で、煙草盆を強く打った。かんっ、と鋭い音が鳴り、燃え残っていた草の塊が灰の中に落ちる。
「俺には見えんが"何か"いるのだそうだ」
男はそう言いつつ煙管を盆の上に放る。そうしてゆったり立ち上がると、片眼鏡をした笑った顔を、ベッドにいるギンコへと近寄せた。
「お前さん、あの鈴蘭の群生のあたりで何か見なかったか。薄紫の光の粒とか、真ん中に赤い色を抱いた火のようなもの、とか」
「…俺…、見……」
見た、とギンコは言いたかったが、喉や舌がひりひりと痛くて、声が出ない。お化けや幽霊ではないが、それらは蟲だから、ギンコにはいつだって見えている。
「お、見たのか? 聞かせてくれ。俺はそうしたものの話には目が無いのだ」
「…見…っ…」
無理に声を出そうとして、ギンコはベットに身を起こし、でもそのまま激しくむせてしまった。
「あぁ、無理はいかんな。お前が鈴蘭など喰うから、強い解毒の薬で散々うがいをさせた。姿は可憐だが、あの花も実も毒を持つ。量によっては致死毒だぞ。とんでもないことをしおって」
優しい手が、ゆるゆると背中をさすってくれている。息を落ち着かせながら、ギンコはこれが、夢ではないかと思っていた。
今まで、俺に、
こんなに優しくする人なんか、
ひとりもいなかった。
「ほれ、飴をやる。甘いし、喉にいいからな。朝には粥も作ってやろう。だからあんな喰えないものなどもう口に入れるなよ。何、ここには俺しかいないし、お前がここに居ても、咎める者など誰もおらんよ」
そう言って、化野はかわいらしい紙にくるんだ飴のいくつかをギンコの手に握らせる。そのまま彼は部屋から出て行ったが、ギンコはその姿の消えた扉を、ずっと飽きずに眺めていた。
誰も、咎めないって。
それは、ほんとうだろうか。
今に見つかって、
引き戻されて、
また、前とおんなじに、
なるんじゃないのか。
ギンコは項垂れて、手の中の飴の包みを開いた。きらきらと、緑や青や赤の飴が、きれいでとても美味しそうだった。その中のひとつを摘まみ、口に入れようとした途端、激しく扉を叩く音と、聞き覚えのある怒鳴り声が、聞こえたのだ。
「おいっ、髪の白いガキがここに来ただろうっ、草を踏んだ跡があったから分かってるんだ、出して貰おうか!」
ギンコの手の中から、ぽろぽろと飴が零れた。見開いた目に、絶望が浮かぶ。泣いたことなどずっとなかったのに、涙が出そうだった。幸せな夢など見てしまったから、これまでの心の痛みを思い出して、苦しい。
あぁ、
短い夢だったな…。
でももう、俺は、
悪夢のような毎日に、
連れ戻されるんだ。
扉が蹴破られたらしい音、ドタドタと煩い足音がして、その音はまっすぐ、こちらに向かってくる。
「見つけだぞ、ギンコ! 逃げやがって、このガキめっ。おらっ、折檻が嫌だったらとっととこっちへ…っ。ぎゃっ」
口汚い罵りが、虚を突かれた叫び声と、尻もちをつく音で途切れた。みっともなく転んだ男の後ろに、背の高い影が立っていた。寝間の着物の上に、派手な女物の着物を羽織り、火の点いた煙管を咥えた化野である。
彼が煙管の吸い口を吸うと、煙草の草が赤く燃えるのが見える。化野は己の屋敷に勝手に入って、勝手なことを叫んでいるこの男の首に、熱い煙管の先をくっつけたのだった。
「な、な、何しやがるっ」
そして、火傷した首筋を押さえたその男へと、場合によってはさらに灸をすえるべく近付きながら、化野はこう言った。
「生憎"ギンコ"はこの屋敷の大切な客人でね。勝手に入ってきた不逞の輩に、勝手に連れて行かれては困るんだ」
「なんだとっ。このガキは元々俺の連れなんだよ、今日まで飯を食わして来た分、たっぷり稼いでもらわにゃぁならんで、こっちも引き下がるわけにゃ…っ。ぶ…ッ」
男は今度は、顔に何かをぶつけられて黙った。だが、何しやがるんだ、と怒鳴り掛けて、己の顔にあたったものがなんだったか気付き、目を丸くして絶句してしまった。
「足りるかね、それで。足りんようなら、大層な暴利だと思うがな。ろくなものを食べさせていないのは、この子を見れば分かるぞ」
男は足元に散らばった大量の紙幣を、目を白黒させて眺めている。生まれてこのかた、見たこともない額だったのだろう。我に還ると、今度はへらへらと愛想笑いをし、一枚残らずそれを拾ってから、焦ったように出て行った。
化野は男の去っていく背中を見ても居ず、ベッドの上で、凍り付いたようになっているギンコへと、気怠いような顔で笑い掛ける。
「お前さん白くて可愛いし、長じれば、やがてはいい感じに毒も持ちそうだから"すずらん"とでも呼ぼうかと思っていたが…。名前、ギンコというのか。そっちの方が似合っているなぁ」
言いながら煙管を盆へと放り、化野は伸べた手でギンコの髪を撫で、頬を撫で。それから彼へは背中を向けて、ベッドをきしりと軋ませてそこに座った。
「さて、成り行きだが、俺は大枚はたいてお前を買ってしまったよ。当人の望みも聞いてもおらぬのにな。不服があるなら、俺に同額を返せ。ガキの内は無理かもしれんが、時をかければ、不可能な額でもないだろう」
笑ったままでそう言うと、化野は羽織っていた着物を脱ぎ捨て、襦袢だけのなりで、ベッドに潜り込んできた。既に少し眠そうにしながら、さらにこんなことを言う化野。
「返事は? ギンコ、それとも、まだ喋れないか?」
あまりに唐突なことばかりで、ギンコには何を答えていいかどうかも分からない。でも、此処に居たいと思う気持ちだけは強くて。夢でないなら覚めてくれるな、と、眩暈のするほどもう願ってしまっていた。
「…わ、かった……」
「わかった? やはり俺のものになるのは不服か? 金を返すのか? ま、返し切るまでは、お前は…俺のものだが…な」
ふふ、と笑って、不思議な深い眼差しを、瞼を閉じることで、化野は隠した。
不慣れな寝床で、初めて会った男と"寝る"。ギンコにとっては、それは初めてではなかったが、服も剥がされず、何かをしろとも言われず、ただ眠るだけなのは、初めてだった。
ずっとついていた洋燈の油が切れたのだろう。灯かりが、すうっと静かに消えた。訪れた闇の中で、ギンコには見え、化野には見えない生き物が舞っている。そう言えば化野は、こういうものの話が好きだと言っていた。
見えることを、こんなに嬉しいと思ったのも、初めてだったかもしれない。眠りに落ちるまでの間、目を見開いて、ギンコはじっと蟲を見ている。傍で眠る化野の息遣いを感じなから、愛しむように、彼はそれらを見続けていた。
終
ね、素敵な絵ですよね。見惚れてしまう…。
本当に物書き冥利に尽きるとはこのことなのですけれど。
それでですね、惑はこれを言いたい。
特筆すべきこと…。
頂いたこの絵は「鈴蘭の館」というお話の挿絵ではない、ということなんです。
すなわち、こういうシーンは作中には、無い。
じゃあ、何かと言うと、あの話の少し未来を思い描いて、描いて下さったものだ、ということ。
これが私にとって、ほんっっとうに嬉しいことなの。ストーリーの中では描かれなかった、
「あの館での化野とギンコの未来」。私が「こんなかなぁ」と思っていた未来が、
特に話したわけではないのに、coolmoonさんはこうして絵にして見せて下さるんですよ!
え…? えぇっ、魔法使いですか? なんでわかったの。なんで知ってるのぉぉぉ?
ってことなんです。今までだって何度もあったのですが、惑の脳内がcoolmoonさんにはどうやら、
鮮明に見えているらしい。
そして彼女にかかれば私が、ハイここで物語は「終」 としたストーリーは止まらず動いていて、
その先も生き続けており、彼女は自分の脳内に繰り広げられたそれを見て描くことが出来る。
凄い…! ですよね? いや、凄いんですよ?!
すみません。ちょっと突っ走ってますよね、私(照)。
このまま書いていくと止まらないので、ここらへんにしておくのですが。
いや、でもっ、見てっっ。子ギンコの立ち位置と、二人がそれぞれに相手に触れている手とか。
ちょっともうっ「うわぁぁぁ」ってなるんです惑さんはっ。
しかも化野の笑み顔ときたら「俺のだよ」とでも言わんばかりのっ。
そして子ギンコの表情ときたら、まだ子供だというのに、
どこか秘めた矜持を感じさせるというか、凛として穢れなく、
それで居ながら、なにやら色気まで滲んでいるとは思いませんか?
でも立って居る位置から言って、化野にだけは気を許しているというんですかね。
自分と言うものをきちんと持ってはいるけど、この子にとってやはり化野は特別と言うかっ。
はっっ、いけないまた語っちゃってるっ。すみませ…っ。あぁぁぁ。
とにかく、嬉しくて心より感謝している惑なのです。
coolmoonさん、本当にありがとうございましたっ。
2018.04.09