半 夏 生





 水の匂いがした。夜の間も屋内に風を通そうと、こぶしほどだけ開けてある、障子と、雨戸の向こうから。薄ぼんやりと目を覚まし、無意識なまま隣の布団を見ると、既にきちりと畳まれ、部屋隅に寄せられていた。

 身を起こしながら、ほんの微かな水の音を、ギンコは聞いたのだ。彼は静かに立ち上り、自分の身一つ抜けるだけ障子を開くと、雨戸の隙間から庭を見た。まだ明けぬ早朝。ようやく空が、微かに白くなりつつある頃合いの、その庭先。

 白に近い薄翠の、夏の単衣に身を包んだ姿が、そこに立って居た。片手には手桶、もう一方の手に柄杓を持ち、音立てぬように、さらり、さらりと水を撒いている。

 無地のその着物の裾に、ギンコは模様を見た気がしたのだ。撒かれた水にしとど濡れ、夜明け前の、極かな細い光を浴びている半夏生の白と緑が、あまりに美しい姿で、その足元を埋めていたから。










「………何、してるんだ…?」

 随分と長いこと、黙ったままで眺めてから、雨戸の隙間を広げて、ギンコがそう問えば、注がれた視線を分かっていたように、淡々と静かに彼が答えを返してくる。

「昼間の日差しがああも強いと、地面はすっかり乾いてしまう。かといって、燦々と注ぐ強い日の下で水を撒いても、あっという間に蒸発していくだけなのでな、明け前のこの時間に撒いてやるのがいいんだ」
「…ふぅん」

 そんなことくらい分かっている。分かっていてもそれでも聞きたかったのは、日頃と何処か違って見える、彼の佇まいの理由だ。重ねて問わずに、ギンコはすぐ目の前の踏み石に下り、縁側に腰を下ろして、彼の姿を眺め続けた。

 さらり、さらりと、薄翠の単衣の姿が水を撒く。桶の水を柄杓で救っては、丁寧な所作で、ゆっくりと。伏し目がちなその表情を、ほんの僅か、笑んで見える口元を、ギンコは黙って眺めていた。その佇まいも表情も、ずっと静かなままだったが、根負けしたのか、やがて彼は訥々と語り出した。
 
「俺の…祖母がな…。半夏生を好きだったのだ。夏の田植えの終わる頃、ひっそりと、こんなにも、美しい姿になっている。誰に気付かれるでなくとも、あまり陽の当たらない、庭の隅で、いつのまにか白く…。雪のように、白く」

 あぁ、本当にこの半夏生の、葉の白は雪のように美しい。触れればひいやりと、指に冷たさを感じるのでは、と思うほど。
 
「…体が弱くてよく伏せったけれど、凛とした、芯の強い人だった。もう何年か前になるが、丁度今ぐらいの時期に、悪い風邪を引いて、多分、亡くなったんだよ。本人から少し風邪をひいたとふみが来て、それきり、ずっと季節ごとに来ていたふみが、途絶えてしまった」

 彼は手桶に柄杓を入れると、それを下げたままギンコの方にやってきた。雨戸をもっと大きく開けて、あいた場所に腰を下ろし、水の無くなった手桶の中で、一度、二度、と、柄杓の柄を遊ばせる。

「祖母とだけは、こっそりふみをやりとりしていたんだ。知っていて、黙って家を出してくれたのは祖母だから。最初、彼女の古い友の名を拝借して、ちゃんと無事で暮らしているとだけふみを出したが、そのふみを頼んだ流しの薬屋が、返事を持たされて戻ってきた。機転の利く、頭のいい人だったんだよ」

 届けられたふみには、たった数行だけの言葉が綴られていた。何処にいるのかだの、どうしているだの問う内容はひとかけらもなく、ただ。

 今年も半夏生の白が、
 庭でとても美しいです。
 あなたは、
 体をお厭いなさい。

 と。それだけ。

「それから年に数回のやりとりをした。内容はお互い、季節の折々を綴るだけの。でも、そうやってずっと唯一、俺と家とを繋いでくれていた存在だった。そんな祖母も、もう居ない。もともと病勝ちだったし、仕方のないことなんだ。ただ…」

 ただ、俺が、
 もう、祖母のこの世に居ないことが、
 時々酷く、淋しいだけだ。

 この季節が来るたび、彼は思うのだ。緑の色の半夏生の葉を、梅雨の雨が打ち、そしてその雨も上がる頃、葉は白く色を変え、その美しい姿を見るたびに。

 一度だけでも、会いに行けばよかった。勝手に家を飛び出した俺が、何を今更と、きっと誰もが詰っただろうが、それがいったい、どれほどのものだっただろう。もう、何処にも居ない祖母のことを思い出すたび、時を戻せたなら、と愚かにも思う。

 彼の隣で、火の無い煙草をギンコは咥えた。そうして、そこに座ったままで、腰の後ろに両手をつき、体を反らして見るとはなしに、欄間や天井を見る。

「なぁ? 唐突な、と思うだろうけど」

 咥えた煙草を揺らしながら、ギンコは奇妙なことを言った。

「さっき、一瞬お前が、別の誰かに見えた」
「…別の? あぁ、この着物のせいか。滅多に着ない単衣だし」
「さぁなぁ…」

 ギンコが言葉を濁して黙ると、その単衣の着物の袖を彼は軽く弄って、こう言ったのだ。

「これはな、祖母の好きだった色なんだよ。こんな単衣を彼女も持っていたし、夏の来るたび、よく着ていた」
「…なら今、来てた、んじゃねぇのかい?」

 言ってやると、彼は一瞬呆けて、それからやんわり、溶けるように淡く笑った。だったら嬉しい。音の無い唇だけの声で、そう言ったのが、聞こえた気がした。

 半夏生の白が、今年もまた夏に映える。梅雨の終わった庭の隅で、目を奪うほどに美しく。恥じぬように、と化野は思うのだ。













 お話を書く時は、動画や絵を見ながら書いていることが殆どです。とは言っても、それは現実に目の前にある動画や絵ではなく、頭の中に浮かんだ絵や動画なわけですね。そしてその絵や動画は、お話が浮かんで、書いている最中に徐々に脳内に浮かんでくるものなのです。

 でも、このお話は違います。絵は、先にありました。脳内に、ありました。半夏生、という植物は姿をよく知っており、この植物をお話に書くのだ、と思った時に、惑の頭の中に浮かんできたのが一枚の絵だったのです。ですから、惑はこのお話を、自分の頭の中に浮かんだその絵を眺めて考えました。

 すらりと背筋を伸ばし、朝靄の庭に立って居る化野先生。美しい姿でした。どこか憂いを秘めていて静かな佇まいなのです。どうしてだろう。どうしてそんな姿で其処に立って居るのだろう。足元の半夏生が、彼のその姿に映えています。無地の単衣の着物を着ていて、その何も柄の無い裾に、半夏生が柄となってしまいそうに見えてくる。着物は白じゃない。淡い灰色? いいえ、薄らと翠のようだ。

 そのくらいまで考えて、はたと気付いたんです。自分が今、脳内に浮かべている絵は、coolmoonさんの絵なのだ、と。coolmoonさんが描いたら、きっとこんなふうに、とても静かで美しく、それでいてそうっと多弁に語り掛けてくるような絵であるだろう、と、そう思って。その事に気付いたあと、惑はcoolmoonさんに描いて頂いた挿絵を、物語のワンシーンにするような気持ちでこのお話を書いたのでした。

 この絵は、惑が小説をブログに飾った後で、coolmoonさんが描いて下さったものです。夢のようだと思いました。脳内にあった絵が、こうして本当に目の前に。そして許可を頂いて、挿絵風に飾らせて頂いたのです。感激です。coolmoonさん、本当にありがとうございました。

 あ、絵が大きい! のは、どうしても頂いた原寸で載せたかったからですっ。


2017.07.11