昼飯の後、坂を下りて浜に沿った家の幾つかを廻るのは化野の日課だ。往診というほどの大層ではないが、それらの宅は、足の利かぬ老人を養う家々であった。変わりないか、元気か、と戸を叩く医師に皆は感謝の眼差しを向けた。
時には、茶など振舞われて、世間話の相手に捉まえられる。それを煩わしいとも思わぬ性質は、里の医家として身についた術なのか、それとも彼の生来が世話好きな由来であるのか。どちらにしても、ギンコから見ると、化野は非の打ち所のない医家だと思えた。
学問を笠に着て偉ぶるようなこともなく、富家の鷹揚で治療の代価も法外に安い。面倒見が良くて、労も厭わない。その反面、生死に関わるがゆえの厳格さも持ち合わせている。そんな自然を身につけた男ならば、誰からも好かれ尊敬されて当然のことである。
人望篤い里の医家。それは、ギンコとは正反対に近い人間だと思えた。失い続け、失うことに親しんできたギンコの生き様にとって、化野は健やかさの象徴でもあった。
それは一種の憧憬であり、届かぬ恋心であった。
そして、いつのまにか焦がれるほどの情欲となる。だが、そんな自分勝手な欲をぶつけるには、化野は優しすぎる男だった。知れば、応えられぬ憐憫に苦しむに違いない。まして、この欲は、浅ましい肉の疼きも抱いているのだ。
ギンコは、もう、何年もの間、耐え続けていた。だが、幾度、化野の家に訪れようと、胸の想いを秘めたまま、化野に告げることなど出来なかった。
「…う…」
妙に気怠い声が、腕の中で息を付いた。隻眼が緩く細められ、覗き見るように化野を見上げた。
「ギンコ…か?」
彼の翠を、こんな間近で見たのは初めてだった。灯りもない暗さの中で、透けるように光る瞳だった。
「ギンコ…、なにかひどく…ぼんやりして……俺は、なにをして…?」
覚めやらぬ視線を巡らして、化野は、頭を振った。
薄靄のような暗闇が、座敷の隅々まで染みていた。靄のかかっているのは辺りの空気だけではなく、化野自身の感覚も曖昧だ。まるで、夢の中にでもいるような心持であった。
襖は、一枚だけ引かれている。その先に庭に添った縁側が見えていた。だが、遠い遠い景色であるかのように、現実味もなく隔たって思えた。
空を見ても、刻限はさだかでない。真昼のようでもあり、夕暮れか夜のようでもあった。例えて言うなら、明るい陽光を嫌って、夜の帳が真深に下りてきたような感じだ。そして、その帳は薄羽の如く透けて揺らいでいる。密室の閉塞であるにも関わらず、遠い外界が見渡せる。
「悪かったな…、俺が、無理に誘ったんだよ…」
ギンコが、後ろめたそうに詫びた。
投げ出された真白い裸体と、鼻腔をつく独特の匂い。ありありと残る、欲望の余韻と残骸に、漸々化野は気がついた。
「おまえが誘った?…俺は、おまえを、抱いた…のか?」
途切れ途切れに、化野は問うた。まったく何も覚えていなかった。目の前の状況から考えて、どうやらギンコと肉体を繋げたらしいと想像するが、その経緯が思い出せない。
「…そうなのか?…」
化野は、少なからず驚き、戸惑っていた。男色の経験はなかった。まして、無二の親友と思うギンコに、劣情を抱いたなど一度もなかった。
「おまえの意志じゃない…安心しろ…」
ギンコは、もう一度息を吐いた。肌蹴た化野の着物を掻き合わせ、帯を手渡す。
「もう、そろろろ、醒めるから…」
言いながら、脱ぎ捨てられていたシャツを掴む。
ほたり、と音を立てて、部屋の隅に何かが落下した。それと同時に、膜を張ったような感覚が、突然破れて鮮明になった。
「そこの…花…、覚えているか…」
ギンコは、煙草に火をつけ、床の間の翳を指差した。烏瓜に似た白い花が落ちていた。五片の花弁から細い触手を伸ばして、織り合わせたような花の形。その光るような白さは、綺羅屑を纏った星のようだ。
化野は、花を凝視して、じわじわと思い出す。
そういえば、今日も、いつものように浜辺の家々を見舞った。帰宅した後、日誌をつけようと筆を執った。宵も近かったが、西の空はまだ明るくて、臨む海波が輝いていた。
そうだ、ギンコが縁側に立ち、あの花の蕾を差し出したのだ。夜に咲く花だと言っていた。白い花は夜闇に映えるだろうと、手渡されて受け取った。その後、他愛も無い四方山話に興じるうち、意識が遠くなったのだ。
「あれは、蟲だ…媚薬の類と同じような効果がある。あの白い花が咲いている間は、どんな相手にでも欲情するんだ…」
「それで…、おまえを?抱いた…いや、犯した…?」
化野の表情が、俄かに歪んだ。
「違う。俺が、強請って誘ったんだ。それに、ほんの一時だけで枯れる花だから…すぐに醒めるから、安心しろよ、化野…」
ギンコは、言い含めるように囁いた。彼の顔も、泣き出したいような気持ちを押し殺して、歪んでいた。
「枯れれば、醒めるのか…?」
「ん、醒める。」
そして、誰かを抱いたことなんて、一切忘れてしまうんだ。
「…俺にも、我慢しきれねぇときがあってな…」
化野の目の前で、白い花びらは見る見ると萎れ、茶色に変化した。ぎゅうと引き絞ったように縮んでいった。
「ギンコ…、おまえ…」
「忘れちまえよ、化野…」
ギンコは、片恋の切なさと、洩れ出した紫煙を飲み込んだ。
END
AYA NIKKOさまサイトにて、キリ番ニアでリクエストお許し頂き、書いて頂いた蟲師ノベルです。キリ番リクするのに、こんな我が侭を言ったのは、初めて! であるにも関わらず、こ、この美麗な世界は…。
夜に咲く花(蟲も可)化野←ギンコで、エチシーンはぼかした15R、性交したらしい、という感じのニュアンス希望! とか言ったんですよ、私。いや…どんなリクでも素敵に仕上げていただけると信じてましたけど、これほどとは〜〜。
行間、文字間から、とめどなく滲み出す情景。声無き想い、記憶からさえ儚く消える一夜の、なんとあやしく美しく切ないことか…! 堪能したりないらしく、頂いて二日目の今もまだぼう…っと考え込む惑い星です。
本当にありがとうございました。
またキリ番狙うぞ、と今から思ってしまうのよ、もう〜。
そうそう、壁紙にうっすら見えるのは花ですが、これはカラスウリではないです。
惑い星が他の花の写真をなんとなく加工したものなだけなので、
カラスウリ、是非検索で本物の写真を探してみて! 本当に神秘先な美しい花です。
08/03/28
秘する花、鴉の帳